第21話 鍵を隠した人
七月三日の朝、町の技術職員が水路荘へ来た。
封鎖工事へ入る前に、点検口と水門の鍵を照合するためだった。
玄関には、前日に貼られた封印札が白く浮いている。見物人は減っていなかったが、町が立入禁止の柵を置いたことで、壁へ耳をつける者はいなくなった。代わりに、柵の外から写真を撮る音だけが続いた。
「管理用の鍵は、町で預かっている一本だけですね」
職員が確認表を読み上げた。
イザベラは金属箱から見つかった鍵の受領書を示した。試験通水の後、町職員が持ち帰ったものだ。
「学校側の点検口は二つの鍵穴がありました」
ナサンが言った。
「片方は町の解除具で開けた。昔は対になる平鍵があったはずです」
職員は古い設備台帳をめくった。
「記録上は二本一組です。一本は管理小屋、もう一本は水門管理人が携帯することになっています。ただ、十三年前の廃止処理では、携帯鍵の返納欄が空白ですね」
共同台所の窓際に立っていたイアムの肩が、わずかに下がった。
ラビーが彼を見る。
「イアムさん」
「なくした」
答えは早かった。
ナサンは椅子から立たなかった。
「前に尋ねた時も、そう言いました」
「なくしたものは、今もない」
「どこでなくしたんですか」
イアムは黙った。
町の職員は気まずそうに書類へ目を落とした。マルタは来ていない。今日は鍵と設備番号を合わせるだけの事前確認で、住人の事情を追及する場ではなかった。
しかし、封鎖予定の設備へ合う鍵が個人宅に残っていれば、安全上の問題になる。
「管理人さん」
職員が声を柔らげた。
「責任を問うためではなく、事故を防ぐために確認しています。所在に心当たりがあれば、今ここで教えてください」
イアムは、壁の時計を見た。
秒針が一周する間、誰も言葉を足さなかった。
やがて彼は二階へ上がった。
足音が部屋の前で止まり、引き出しを開ける音がした。何か重い物を床へ置き、また持ち上げる音。戻ってきたイアムの手には、薄い布包みと、古い封筒があった。
布を開く。
平鍵が一本、卓上へ置かれた。
金属箱から見つかった鍵と同じ、水滴を二つに分ける印が柄に刻まれている。
「なくしていなかったんですね」
ナサンの声は低かった。
「なくしたことにした」
職員が手袋をつけ、鍵の番号を確認する。
「一致します。第二管理鍵です」
イアムは封筒も差し出した。
中には、台帳から切り取られた数枚の頁が入っていた。端の裂け方は、試験通水の夜に見つかった欠落部分と合う。紙には湿気の染みがあり、鉛筆と赤いインクで時刻、水位、開閉量が記録されている。
十三年前、七月十八日。
午後九時四十分、上流水位上昇。
午後十時十二分、地下排水槽の処理限界。
午後十時十九分、町の当直から『西枝線を閉鎖したまま、南排水を優先』との連絡。
午後十時二十七分、学校裏の側溝が溢れ始める。
午後十時三十一分。
『命令に反し、西枝線を二割開放。学校側の水位低下。倉庫街側、逆流を確認』
赤い字で、その一行だけが囲まれていた。
ラビーが息を呑む。
イザベラは紙へ手を伸ばしかけ、触れずに止めた。
「あなたが、開けたの?」
「そうだ」
「町の命令に逆らって」
「そうだ」
イアムの声は、言い訳を求めていなかった。
「学校には、避難が遅れた子どもが二十六人残っていた。体育館は道路より低い。あのままなら、校庭から水が入った」
「倉庫街には?」
「夜勤がいた。皆、逃げた。死者は出なかった。だが、冷蔵倉庫と機械が浸かった。三つの店が翌年までに閉じた」
共同台所の外で、誰かが柵へ触れ、町職員に注意されている。
室内では、冷蔵庫の古いモーター音だけが続いた。
「開けなければ、学校が浸かったかもしれない」
リオンが言った。
「開けたから、倉庫が浸かった」
イアムは答えた。
「どちらも、かもしれないでは済まない」
彼は操作記録の次の頁を示した。
午前零時過ぎ、雨量が下がり始めた後、倉庫街側の逆流を止めるために西枝線を閉じた。しかし閉鎖が十五分遅れた。古い水門の取っ手が固着し、二人で回すべきところを、イアム一人で操作しようとしたからだった。
「この十五分は、私の誤りだ」
ナサンが記録を見た。
「なぜ、頁を切ったんですか」
「調査委員会では、命令違反だけが問題になった。町は設備廃止を急いでいた。倉庫の人は、誰かを責めなければ損害の置き場所がなかった。学校の親は、私を英雄にしようとした」
「だから隠した?」
「記録があれば、争いが続くと思った」
「記録がなければ、何が起きたか分からない」
ナサンは卓上の模型へ目を向けた。
「僕たちは、同じ水路をもう一度使おうとしているんです。どこをどれだけ開けたら、誰の場所へ水が行くか。その記録を持っている人が、何も言わなかった」
「言えば、また誰かが傷つく」
「黙っていたら、次の人が同じ傷をつけます」
言葉は厳しかった。
それでも、ナサンは声を荒らげなかった。
「僕は計算を間違えて、大学から逃げました。間違いを見せたら、全部終わると思った。でも隠した計算は、誰も直せない」
イアムは目を閉じた。
十三年前、自分一人で水門を回した夜。
その後も、自分一人で記録を抱えた年月。
どちらも、誰かへ任せれば迷惑をかけると思っていた。
結果として、誰にも選ばせなかった。
「ミレナは、音声を残した」
イアムが言った。
イザベラが空のカセットケースを思い出す。
「金属箱にケースだけありました」
「あの夜の後、妻が私と倉庫の人、学校の職員から話を聞いた。誰か一人を正しい者にしないためだと言っていた。テープは水路荘に置いたはずだが、ミレナが亡くなった後、見つけられなかった」
「捨てたんですか」
「捨てていない。隠した場所を聞かないままになった」
イアムは鍵を町職員の前へ押し出した。
「これも、記録も、町へ渡す」
そして、管理人室の鍵束を腰から外した。
「水路荘の管理人を辞める」
ラビーが反射的に立ち上がる。
「今すぐ決めなくても」
「今まで決めなかった結果が、これだ」
「でも、イアムさんがいなくなったら――」
「いなくなるとは言っていない。管理を一人で持つのをやめる」
その言葉に、全員が黙った。
イアムは立ち去るために鍵を外したのではない。一人で握り続けてきたものを、ようやく他人の目の前へ置いたのだ。
町職員は操作記録を一枚ずつ保護袋へ入れた。
「正式な事情聴取が必要になります。封鎖工事の資料にも加えます」
「分かりました」
イアムは答えた。
窓の外で、水路荘を撮る者が笑った。
怪談の家。
公認カップルの家。
古い水路を残そうと騒いでいる家。
そのどれにも、十三年前の深い夜に鍵を握った老人の重さは写らない。
イアムは卓上の空いた場所へ、腰の鍵束も置いた。
金属同士が触れ、小さな音がした。
長い間隠されていた鍵は、扉を開けなかった。
代わりに、閉じ込められていた過去を、全員の前へ出した。




