第5話 武藤とバイト
「おはようございます」
その日、武藤は朝番のため、午前9時にバイト先へ出勤した。大学の入学に合わせて一人暮らしを始めるにあたり、引っ越しなど諸々の準備が必要になった。その時偶然見つけた、大学近くの古書店のバイト募集の貼り紙。
通りすがりに見つけてしまったものだから、気がつけば入学よりも前からそこで働き始めていた。
大学近くという立地もあり、その古書店は論文や文献、資料の類を大量に有している。棚に収まるものは収めているが、それ以外は乱雑に重ね置きされていて、昔からずっとそこにある、そんな古き良き古書店らしい風格があった。
「ああ武藤くん、おはようさん」
そう言って出てきたのは店主だった。「もう良い歳をした爺の道楽」などと言っているが、この店がいつからあるのかと考えると、むしろ若い頃から……いや、親から継いだと言われてもおかしくはない。そんな店主はもうじき70歳になるらしい。
「今日は何かありますか?」
「いつもの通りで頼むよ。……ああ、昨日買い取った本に値段をつけておいたから、少し本を綺麗にして、値札つけて出しておいてくれるかい?」
「分かりました」
店主が指差す先には、これまた年季の入ったレジが置かれた、買取・販売のスペースがある。そこにドン、と10冊ほどの分厚い本が重ねられていた。
「店長、これ、揃いってことは……」
「ないねぇ。全部バラバラだから、分類間違えないようにね」
「……はい」
「じゃあ、今日は……13時までだったかな?よろしく頼むよ。ああ、ワシは10時から公民館の囲碁クラブに行くから、何かあったら電話、よろしくね」
そう言ってにこやかに笑うと、店主は奥の住居スペースへと入っていった。武藤はそれを見送ったあと、積まれている本をじっと見つめる。
何とか全集のようにセットになっている本の方が圧倒的にラクなのだが、バラバラとなると収納の棚の場所も違うし、スペース作りにも苦労する。
小さくため息をつくと、ひとまず朝のルーティンとして、ハタキを取り出した。出勤して最初にするのは掃除。当然である。
店主に頼まれていた仕事も終え、時折訪れる客の在庫の有無などの問いかけに答えながら、古書店の時間は静かに進んでいく。
特殊な本ばかりの古書店の本には『つるり』も『ざらり』もない本がほとんどだ。資料や文献に著者の意図や感情、虚構でのコーティングなどは存在しない。あるのは『事実』と『仮定』だ。武藤はそういう系統の本にはまったく興味がない。
しかし、その中で『つるり』を見つけてしまったのは、偶然だった。文学部の教授が資料を探しにやってきたのだが、なかなか見つからないようなので、武藤も探すのを手伝ったのだ。その時に見つけてしまった。
紫式部。源氏物語の影印本。思わず手に取り、ページを捲ってみたが、文字がさっぱり分からない。眉を顰めていると、教授が笑いながら話しかけてきた。
「さすがに、くずし字に古文じゃハードルが高いだろう」
「そうですね、さすがに読めないです」
残念だ、そう呟いて武藤は資料探しを再開した。その合間に教授と言葉を交わす。
「文学部の学生かい?」
「いえ、法学部です」
「法学部の子がこういう古い本に興味があるんだ?珍しいねぇ」
「フィクションの物語を読むのが好きなんですが……さすがに古いものの原文は難しいですね。……っと、あった。お探しのものはこういうのでしょうか?」
本棚の1番下から出してきた書籍を、少し埃をはらって教授に見せる。これからは掃除は本棚の下までハタキがけをしっかりやろう、などと考えながら。
教授は本を手に取り数ページ捲ると、うん、とひとつ頷いた。
「ああ、これに探している情報が載ってるね。貰おうか」
「はい、ではお会計させていただきます。レジの方へどうぞ」
武藤が先導してレジへ向かったので、教授が文学関係の本が詰まった棚から、さらに本を2冊出してきたことに、武藤は気づかなかった。
会計をし、本を紙袋に入れて渡すと、教授はにこりと笑いながら手に持っていた2冊の本をレジ台に置く。
「資料探し、助かったよ。本当にありがとう。お礼に、少しだけ教えてあげようと思ってね」
そこにあったのは『浮世物語』という本。なぜか2冊、それぞれ装丁が違うものだ。何か違いがあるのだろうか。
「そっちが影印本。当時の写本を写真に撮って印刷したものだ。だから書き方が当時のまま。くずし字も昔の言葉もそのままだ。そしてこっちが翻刻本。くずし字で読みにくい部分も活字で整えられているから、読みやすい。もちろん内容は一緒だから、読むだけなら翻刻本で十分なんだが、当時の、手書きの文字の方が味があっていいだろう?こっちはくずし字で行き詰まったら辞書のように使うといい」
「え……」
「ははは、昔の小説を読みたいと言った君へのアドバイスというか、読み方のコツみたいなものだよ。現代語訳よりよほど面白いから、試してごらん。大丈夫、最初は誰でも読めないものだから。こういうものは慣れだよ、慣れ」
「……はい。ありがとうございます」
「個人的には『竹斎』もオススメだよ、と言っておくかな。よかったら読んでみておくれ」
文学部でもないのにこういう物に興味を持っている武藤がよほど珍しかったのか、教授はアレコレと教え、最後には「分からないことがあったら聞きにくるといい」とまで言って名刺を置いていった。どうやら気に入られてしまったらしい。
武藤は時計を見る。時刻は10時半を少し過ぎた頃だ。大学前の古書店に客が入るのは、開店直後か大学の昼休み時間であることが多い。今はもう客もおらず、滅多に鳴らない電話番をしながらのアイドルタイムである。
武藤は『浮世物語』の影印本を手に取った。
最初は読めなかった文字も、何度か目にするうちに形が分かるようになっていた。くずし字は文字を読むというより、形の癖を覚えていく感覚だった。古文に関しては、バイトの時にこっそり古語辞典を持ち込んで、解読をしていくうちに自然と頭の中に意味が入っていった。
そうして気づけば、武藤は『浮世物語』だけでなく、教授に薦められた『竹斎』も読んでしまっていた。これはコツを教えてくれた教授に、礼を言いに行く機会があったら、感想を伝えられるかもしれないと思ってのことだ。
そして武藤はさらにいくつかの本を読み、いつしか、あの時は諦めた源氏物語の影印本を手に取るまでになっていた。
本の虫の根性、恐るべしである。
次回へ続く!!
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