第30話 東雲朔夜②
オールで遊ぶ時を除けば毎晩自宅には帰っているが、遊びの予定がない日は武藤の家に寄ってから帰ることがほとんどだったので、こんな時間に自宅へ帰るのは久しぶりだと考えながら、猫柳はコンビニ弁当をぶら下げてエレベーターに乗っていた。
家の鍵を開けて中に入る。寒い。電気をつけてエアコンの電源を入れる。そういえば、武藤の家に行くときは、先に家主が帰っているので、部屋も暖かかったことを思い出した。
「……さっむ」
家の中なのに吐く息が白い。猫柳は靴を脱ぐと部屋の中に入る。相変わらずリビングに堂々と置いてあるベッド。自分の部屋は散らかり放題。仕方がないのでベッドの上で弁当を食べるしかない。武藤がこれを見たら何と言うだろうか?きっと、怒髪天を衝く勢いで怒り、説教が始まるに違いない。
簡単に想像がついて、猫柳がフッと小さく吹き出す。ゆっくりと暖房が効いてきたので、ダウンジャケットを脱いでその辺に放ると、弁当はひとまず横に置いておいて、猫柳はベッドに転がった。
何かがおかしい。昨日からずっとその違和感が拭えないでいる。あの律儀な武藤が既読無視をしているから、と思っていたが、もしかしたら違和感の正体はそれだけではないのかもしれない。
そもそも、猫柳という人間は既読無視をされてもまったく気にしないタイプだった。……だったはずなのだ。返事が来ないなら来ないで構わない。だったら自分と話せる他の相手を探せばいいだけだった。ありがたいことに、猫柳のLINEには、そういった類の友人の連絡先がいっぱいある。だから、武藤と連絡が取れない時点で、違う相手と遊べばいいだけの話なのに。
確かに武藤の様子にも違和感はある。だけど、それよりもっと『おかしい』のは、きっと自分の方なのだ。
「なんでだろねぇ……なんで、前みたいにうまくできなくなっちゃったんだろ」
あの雨の日に、武藤の前でだけは猫を被らないと決めた。だけど、“それ以外”はそうじゃない。だから、いつもの笑顔で仲間と楽しく遊べば良いのだ。食べに行ったり遊びに行ったり。身持ちが堅いわけでもなかったので、正直なところワンナイトラブもしたことがある。だけど、今は。
「……前に、他の奴らと飯食いに行ったのって……いつだったっけ……」
授業のある日に、大学の食堂で同じ学部の奴らと食べることはあるけれど、あれは午後からも授業があったりしての流れなので、数には入れない。
「…………覚えてないなぁ」
あの雨の日からすべてが変わってしまった。自分の心のど真ん中を、生真面目な顔をして陣取ってる奴がいる。もう、誤魔化しようがない。
違和感の正体のひとつが分かった。いや、分かっていたのに見ないふりをしていただけなのだ。
「武藤くんに、マジで惚れてんだなぁ、俺」
ははは、と乾いた笑いを浮かべながら、仰向けに寝転んで、右腕を両目の上に置く。じわり、と熱いものが服に滲んで、猫柳は歯を食いしばって嗚咽を堪えた。
家に帰って色々ぼんやり考えていたおかげで、猫柳は課題のレポートがあったことを思い出せた。今までの流れだとギリギリまで忘れてるパターンなので、ラッキーとも言えるだろう。
今回はありがたいことにフィールドワークではなく、ちょっと調べ物をすれば終わるだけの簡単なものだ。念のために、しつこいかも、と思いながらも武藤に居場所を問うLINEを送ってみたが、相変わらず既読しかつかない。小さくため息をついて、猫柳は課題に必要な書籍を探すため、カバンを手に教室を出た。
目指すのは、大学図書館。
図書館内で必要な書籍を探す。無駄に広いから大学図書館はあまり好きじゃない。しかし、ここじゃないと借りられない本なのだから仕方がない。
「見ーっけ」
目当ての本を見つけて猫柳が手を伸ばす。だが、隣の本に引っかかって床に落としてしまい、小さく舌打ちをする。こういうちょっとしたことにも苛ついてしまうほどに、今の自分には余裕がないのか。苦笑いを隠せず本を拾おうとしゃがんで、そして、見つけてしまった。
利用者が本の閲覧や調べ物などに自由に使える、窓に沿って横並びの机が並んでいるブース。そこに、見慣れた後ろ姿。既読無視をしている相手は、ここにいた。
静かに受付カウンターに行って貸出手続きを終え、本をカバンにしまってから、猫柳はくるりと方向転換した。ゆっくりと、窓際の机に寄っていく。窓から外を見れば、雪がちらほらと舞っていた。なるほど、昨夜がひどく寒かったはずだ。
武藤は法学部のテキストを出してはいたが、それらはペンケースと共にブースの端に避けられている。代わりに、部室から持ち出したのだろう、文芸誌が積まれていた。
部室で読めばいいのに、そうしない。なぜ?
「武藤くん」
小さな声で名を呼ぶが、読書に集中しているのか返事がない。もしかしたら気づいてすらいないのかもしれない。一体何をそんなに真剣に読んでいるのかと、武藤の肩越しに覗き込んで、猫柳が息を呑んだ。
東雲朔夜。まただ。……また、東雲朔夜。文化祭の日を思い出す。テーブルいっぱいに放られていた文芸誌、それらのページもすべて……。
「……そんなに、ソイツがいいの」
思わず強い声が出て、それで背後の存在に気づいたのか、武藤がビクリと肩を跳ねさせた。東雲朔夜の小説に没頭するあまり、猫柳の声かけにすら気づかなかったということか。
それほどまでに……自分は東雲朔夜に勝てないということなのか。自分はこんなに武藤を見ているのに、武藤の目は違う方を向いている。武藤の中にしかいない、東雲朔夜という架空の人物の方へ。それがどうにも悔しい。ここにいるのに。目の前に、立っているのに。
「……なんだ、猫か。驚かせるな」
「ちゃんと声はかけましたー。なに、もしかして昨日も一昨日も、ここにいたの?」
「まぁ……な」
「……ここで、それ、読んでたの?」
開かれた東雲朔夜の小説のページ。武藤が想像している東雲朔夜がどんな姿をしているのかは知らないが、少なくとも猫柳よりも優先したかったもの、ということなのだろう。それは、今までの既読無視が証明している。
東雲朔夜の正体を言えば驚くだろうか。だけど、言わない。いや、言うことができない。伝えられたらこんなに楽なことはないだろうに、東雲朔夜の存在した“時期”が悪い。理屈でものを考える武藤は、きっと信じやしない。
「武藤くんは、さ。……東雲朔夜が好きなの?」
「ああ……好きだな。いや……これは“愛”なのかもしれない。それだけの長い時間、俺はこの人の小説と向き合ってきた」
「……そんなに、昔から?」
「あの時は、イベントに出向いてまで買いに行っていたぐらいだからなぁ……」
紙に印刷された小説の文字を撫でて、感慨深そうに武藤が穏やかな声を出す。つまり、この大学に入って猫柳と出会う前から。そういうことだ。
猫柳に、勝ち目など最初からなかった。
「俺は、この人の小説を愛している。」
なんて愛おしそうな目で活字を見るのだ。そんな視線、猫柳は向けてもらったことなどないのに。悔しい。……どうしようもなく、悔しい。
「それ……俺より?」
「え?」
思わず本心が口をついて出てしまった。少し驚いたような顔で、武藤が肩越しに猫柳を振り返る。そう、今の今まで武藤はこっちを向いてすらいなかったのだ。
「そっか、……うん、分かった」
「おい猫?どうし、」
「ううん、なんでもない。じゃあね」
猫柳が見せたヘラっとした笑み、それを見た瞬間、武藤の背筋がぞくりとする。猫柳はそのまま身を翻すと、早足で図書館の出口へ歩いて行った。
今、間違いなく猫柳は自分に対して『猫を被った』。本心を隠した、そういうこと。なぜ今……なぜ今さらそんな必要があった?
だけど猫柳が武藤に対してそうした、ということは、隠したい感情があったということだ。しかしどうしても隠しきれていない部分が目からこぼれていた。
(あんなに……、寂しそうな目をしておいて)
東雲朔夜の小説を愛していると言ったことで、猫柳がどうしてあんな表情に至ったかが分からない。傷ついたような、……まるで捨てられた猫のような。
なぜそんな顔をしたのか。その理由を武藤は今さらのように思い出した。猫柳は、自分が東雲朔夜の正体に気づいていることを知らない。つまり猫柳は、武藤が別の人間に対して“愛”を零したと思っているのだ。
(……やばい!あいつ、誤解している!!)
武藤は反射的に立ち上がった。『ような』などではない。猫柳はきっと本当に捨てられたように思ったのだろう。そう思わせてしまったのは、言葉の足りなかった自分だ。
少なくともこのまま放っておくなんてできない。テキストもペンケースも文芸誌もほったらかしにして、武藤は図書館の出口へと走った。図書館職員の「走らないでください!」という注意すら無視をして。
次回へ続く!!
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