第10話 フィールドワーク⑤
一、産土の社に於いて、七つまでの宵闇の内に自らの『名』を認めた紙を、古びた鏡の裏へ貼り置くべし。是れは、古より伝わる『影拾い』の義にして、鏡の中に自身の影を封じ込め、現世の災いを其の影に肩代わりさせるなり。
最初の一文を読み上げるのを、どこか不思議な気持ちで猫柳が聴いている。こんな話し方もできるのか……と。ゆっくり、言い聞かせるように、だけど優しく、心地よく響く声。
「……おい猫柳。タイピングの手がお留守のようだが……?」
「はっ!思わず聞き入っちゃった!!てか、聞いてただけだった!!」
「おまっ……もう読むの止めるぞ!?」
「ごめんって!なんていうか、本当に絵本読むように話すから、ビックリしちゃってさぁ」
「まぁ……下の弟に読んでやったりしてたからな」
「武藤くん、弟いるの?」
「いるぞ。それで、そのお留守の手はどうするんだ?」
「わああ!!しまった!!ごめんだけどもう1回!!」
「お前な……時間的にも、もうギリギリだぞ。だいぶ日が落ちた。電気がないから暗くなると読めなくなる」
「大丈夫、明かりになる物もこうして……」
カバンから、こんなこともあろうかと!とばかりに猫柳が懐中電灯を取り出すが、武藤は目を据わらせて猫柳の後ろ頭を豪快に殴った。
「いった……なに、なんで?」
「時間を考えろと俺は言っているんだ。これ以上遅くなると村長さんのご迷惑になるだろうが」
「あ……そっか。そうだね、……うん。じゃあもう1回だけお願い」
「分かった」
そうして読み上げられた量は、冊子の半分にも届かなかった。ここで19時、さすがにこれ以上は無理だろう。
猫柳はそれを残念に思ったが、どうせ最後まで読めてないのだからと、その冊子をカバンに入れた。目ざとく見つけた武藤が慌てた声を出す。
「おい猫柳、お前それをどうするんだ!?」
「まだ全然読めてないから、村長さんに貸してもらえないか交渉する。無理なら諦めてここに返しにくるよ」
「……まぁ、許可が出るのならいいが……」
まだ渋っている武藤の背を押して、猫柳は倉庫の中から出ると、元通りに施錠した。暗くなってしまったので、懐中電灯で地面を照らしながらゆっくりと歩く。
慎重に長い階段を下り、鳥居を潜ったところでぽつり、と猫柳の鼻頭を水滴が弾く。ここにきて雨だ。せめてもう少し我慢してほしかった。
「猫柳、さっきの古文書こっちに寄越せ」
「え?」
その言葉に猫柳が目を向けると、武藤は己のカバンから折り畳み傘を取り出しているところだった。
「濡らしたらまずいだろう、ほら早く」
「え?傘あるの?」
自分のカバンから古文書を取り出すと、猫柳は武藤に手渡しながら訊ねる。
「梅雨時だからな。折り畳み傘ぐらいは常備している。むしろどうしてお前が持ってないんだ。馬鹿なのか?」
「ひどい言い草だね!?」
「おい馬鹿猫。フィールドワークをするなら、懐中電灯だけじゃなくて、こういう折り畳み傘を用意しておくとか、カバンを防水仕様のものにしておくとか、念のための簡単な保存食とか……、あと現地の天気予報ぐらいは確認しろ。素人の俺でもこのぐらいは思いつくんだ、行く場所によっては、もっとしっかりした準備が必要になる場合もあるだろう」
一息に説教をされて、ぐぬぬ……と猫柳が口を噤んだ。何も言い返せない。そもそも今回だって、レポートの期限を忘れていたから大慌てで出てきたのだ。もっと時間に余裕を持たせて、必要な持ち物を考える必要はあったと思う。
あれもこれも『必要になるかも』と用意をすれば荷物が膨大になるので、持ち物を吟味することだって重要だ。しかし今回のようにほとんど何も持たずに出てきてしまっては、こんな雨ひとつにすら対処ができない。
猫柳は静かに反省をした。が、出てきた言葉は違うものだった。
「……武藤くんが一緒に来てくれて、よかったぁ」
「おい、お前は俺の話を本当に理解しているのか?」
「もちろんだよ。次は失敗しない。でも、今回は本当に武藤くんが一緒で助かったんだよ。ありがとう」
「俺は強制的に拉致されたとしか思ってないが」
「あはは、辛口だねぇ」
話しているうちに、ぽつぽつと落ちてきていた雨粒は、どんどん勢いを増してきて、夕立のような勢いでザァっと降り出した。
「……本格的に降ってきたな。早く行くぞ、猫柳」
「え、傘に入れてくれるの?相合傘!?」
「ふざけるな。これは古文書を入れたカバンを守るためにある。お前の入る余地は1ミリだってない」
「えー……まあいいや。こうやって雨に降られて歩くのもオツなものだからね!」
「せいぜい風邪を引かんようにな。ああ、馬鹿猫なら大丈夫か」
「どうして武藤くんは俺に辛辣なんだよ!まあいいや。あはは!」
声を上げて笑いながら、本降りになった雨の中を機嫌良さそうに猫柳が歩いていく。その後ろをついて歩きながら、武藤が「濡れ鼠が……いや、濡れ猫が。はしゃぎやがって」と悪態をついていた。
歩くこと20分、村長の家に辿り着いてインターホンを押すと、村長だけでなく、彼の奥さんも一緒に出てきてくれた。そしてすっかりびしょ濡れになっている猫柳を見て、あらまあ大変!と奥さんは慌ててタオルを取りに中へと戻っていく。村長は呆れた顔を隠しもせずに、傘は持ってなかったんかい?と訊いてきた。
「あはは、すいません。いけると思っていたんですけど、降られちゃいました」
「まったく……二人ともびしょ濡れだと風邪を引くだろう。早く中に入りなさい。帰りはどうするつもりだったんだい?」
「雨さえ降らなかったら、どこかで始発のバスが出るのを待とうかなと」
猫柳の言葉に驚いたのは、村長だけでなく武藤もだ。そんな話は聞いていない。
「は~……最近の若いモンは無謀だねぇ。せっかくだ、泊まっていきなさい」
「えっ、……ご迷惑になりませんか?」
「迷惑もなにも、研究に来た大学生を、この雨の中で外に放り出したって思われる方が迷惑だよ。田舎っていうのは、こういう噂はあっという間に回るからねぇ」
「申し訳ありません。では……お言葉に甘えてお世話になります」
深く頭を下げる猫柳の頭にパサリとタオルがかけられて、顔を上げると奥さんがにこやかな笑みで、タオルをもう一枚猫柳に差し出してきた。
「ほら、そっちのずぶ濡れのお兄ちゃんにも渡してやっとくれ」
「え……は?武藤くんなんでそんなにびしょ濡れなの!?傘は!?」
「だから言っただろう。俺の傘はな、大切なものが入っているカバンを死守するために使ったんだ。俺が入る隙間があるわけないだろうが」
なんでもないように言う武藤だが、ぶっきらぼうな中にも確かにある優しさを感じて、猫柳は胸を詰まらせた。
こんなに分かりにくい優しさは初めてだ。ありがとうという当たり前の言葉すら出てこない。どうしてなのかも分からない。いつもなら、ちゃんとできるのに。
それはきっと、他の仲間から得られる類の優しさではなかったから。
次回へ続く!!
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