第57話:重なる手のひらと、越境した銀の騎士
シルヴァの森に初雪が舞い降りてから数日、大気の冷え込みはいよいよ本格的な冬の厳しさを帯び始めていた。
木々の梢に積もった雪は溶けることなく硬く締まり、時折吹き抜ける氷混じりの突風が、白い粉雪の煙をきらきらと巻き上げていく。外気温は昼間でも氷点下に近い。
だが、頑丈なナラの丸太で組まれた山小屋の室内は、二連かまどと暖炉に燃え盛る薪の熱気によって、まるで春の陽だまりのように穏やかな温もりに満たされていた。
「よし……! これで調味料と乾物の第一陣は運び込み完了かな」
白い割烹着の袖をまくり上げた真昼は、キッチンの作業台の横に整然と積み上げられた段ボール箱を見渡し、額の汗を手の甲でぬぐった。
本格的な豪雪の季節が訪れれば、現代側からの買い出しや荷運びも今より遥かに過酷になる。昨日のうちに聡美と長期契約を結び、都会に戻らない決意を完全に固めた真昼は、この山小屋と古民家で冬を越すための『大規模備蓄作戦』を決行していたのだ。
現代の大型業務スーパーを軽トラックで往復し、調達してきた物資は膨大な量に及んでいた。
一斗缶入りの濃口醤油に淡口醤油、本みりんと純米酒の大容量ペットボトル、大袋のきび砂糖や塩。そして、長期保存が利く利尻昆布、厚削り鰹節、干し椎茸、切り干し大根、春雨などの乾物類。さらに、騎士たちの底なしの胃袋を満たすための特大サイズの米袋まで。
それらを現代の古民家の土間から奥納戸へ運び、さらに押し入れゲートをくぐって異世界の小屋へと運び込む――普段の営業事務時代には考えられないほどの重労働だった。
「ふぅ……ちょっと一息入れよう。ちょうど飲み頃になってるはずだしね」
真昼は二連かまどの隅、熾火の微かな余熱で保温しておいた萬古焼の小鍋へと近づいた。
今朝、作業を始める前に仕込んでおいた、冬の身体を内側から芯まで温める特製の飲み物――『米麹の手作り甘酒』だ。
酒粕を溶かして砂糖を加える手軽な甘酒とは異なり、真昼が仕込んだのは、米と麹の力だけで糖化させる伝統的な本格甘酒だった。
柔らかめに炊いたおかゆを六十度前後まで冷まし、ほぐした生の米麹をたっぷりと混ぜ合わせる。六十度という温度を保つことで、麹菌の持つ酵素アミラーゼが最も活発に働き、米のデンプンをブドウ糖へと分解していくのだ。温度が高すぎれば酵素が死に、低すぎれば乳酸発酵が進んで酸っぱくなってしまう。
バルトが造ってくれた二連かまどの保温スペースは、薪の余熱が一定に保たれるため、この繊細な発酵作業に驚くほど適していた。
真昼が木蓋をそっと持ち上げると――。
――ふわぁぁぁっ……。
純白の濃密な湯気とともに、部屋いっぱいに広がったのは、砂糖を一切使っていないとは思えないほど、濃厚でふくよかなお米の甘い香りだった。
とろりとした乳白色の液体の中で、米粒が花開くように柔らかく崩れている。
真昼はお玉で底から静かにひと混ぜし、味見用の木スプーンで一口含んだ。
「……ん、完璧! 自然な甘みがしっかり出てる!」
米麹の発酵によって生み出された天然のアミノ酸とブドウ糖の甘みは、角がなく、どこまでも優しく舌を包み込む。
真昼は陶器の厚手マグカップに熱々の甘酒を注ぎ分け、そこへ――仕上げの特製薬味を落とした。
現代の古民家の台所で皮ごと細かくすりおろしてきた、新鮮な『国産生姜』の絞り汁と、ひとつまみの繊維だ。
甘美な甘酒の海に黄金色の生姜が溶け込んだ瞬間、ツンと爽快でスパイシーな芳香が立ち上り、濃厚な甘みをキュッと引き締めた。
「カラン、コロン」
ちょうどその時、山小屋の木の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、非番の朝の薪割りを終えたジークフリートだった。
濃紺の活動服の上に、糊のきいた真っ白なリネンエプロンをきっちりと身につけている。金糸の髪を朝の冷気にさらしてわずかに火照らせた彼は、部屋の中に積まれた段ボールの山に目を丸くした。
「……真昼。これは、一体どうしたのだ? この見慣れぬ硬い紙の箱の山は……」
「ジークさん、お疲れ様です! これ、冬越しのための食材や調味料なんです。雪がもっと深くなる前に、向こうの世界からまとめて運んでおこうと思って」
「なんと……。これほどの重量の荷を、貴殿ひとりで運んでいたのか?」
ジークフリートの彫刻のような美貌に、見る見るうちに険しい心配の色が浮かんだ。
彼は大股で歩み寄ると、真昼の少し赤くなった両手のひらをじっと見つめ、眉根を痛ましげに寄せる。
「無茶をしてはいかん。……このような力仕事、私に命じてくれれば一瞬で片付くものを。貴殿の華奢な身体に何かあればどうするのだ」
「あはは、大丈夫ですよ! 段ボール箱を少しずつ運んでいただけですから。……それよりジークさん、薪割りで身体が冷えたでしょう? 作業の合間に、これ飲んで温まってください」
真昼が笑顔で差し出したのは、湯気をもうもうと立ち上らせるマグカップだった。
ジークフリートは素直に両手でカップを受け取ると、鼻を近づけて微かに目を細めた。
「……白い汁だな。先日の粕汁に似ているが……アルコールの匂いはせぬな。むしろ、炊きたての粥のような、清らかな米の甘い香りがする」
「『甘酒』って言うんです。お酒って名前についてますけど、米麹で発酵させただけだからアルコールは一滴も入ってないんですよ。身体を温めて元気を出す、私の故郷の伝統的な栄養ドリンクなんです」
ジークフリートは促されるまま、ふう、ふう、と息を吹きかけ、熱い白い甘露を一口含んだ。
「……………………ッ」
ジークフリートの喉仏が、大きく上下した。
青氷の瞳が、驚きに見開かれる。
「……っ! あ……甘い……! だが、砂糖の刺激的な甘さではない……米そのものが持つ、どこまでも深く、優しい滋養の甘みだ……!」
舌の上に広がる、とろりとした濃厚なコク。
噛むほどに米粒が優しくほどけ、自然な甘みが口いっぱいに広がる。
そして――。
直後にピリリと追いかけてきたのは、すりおろし生姜の鮮烈な清涼感だった。
生姜の爽快な辛味が甘みの輪郭を鮮やかに際立たせ、飲み下した瞬間、食道を通って胃袋の底へと、じんわりとした温かな熱が広がっていく。
凍えていた指先や首筋まで、熱い血液がドクドクと巡り出すのが分かった。
「……美味いな。身体の内側から、力が満ちてくるようだ」
「ふふ、良かったです! 生姜を効かせてあるから、血行がすごく良くなるんですよ」
足元では、真昼から特別に薄めて人肌に冷ました甘酒(生姜抜き)を小皿にもらった神獣ベルが、純白の毛並みを揺らしながら「ぺろ、ぺろ」と嬉しそうに平らげていた。
食べ終えると、満足そうに「わふっ」と短く鳴き、真昼の足元にぽてんと腰を下ろす。
***
「さて……! 甘酒で温まったところで、最後の荷物を運び込んじゃおうかな」
真昼が空になったマグカップを置き、立ち上がった。
現代側の古民家の納戸には、まだ一番重い大物が残されていた。一升瓶が六本詰まった醤油の木箱と、業務用の特大調味料ボトルがみっしりと詰まった強化段ボール箱だ。
「真昼、待て。残りの荷運びは私がやる」
ジークフリートが即座に立ち上がり、エプロンの裾を払って前に出た。
だが、真昼は首を横に振って微笑んだ。
「大丈夫ですよ、ジークさん! 押し入れのすぐ手前まで引きずって寄せてありますから、あとは持ち上げてこちらの部屋に移すだけです。団長さんをお客さん扱いするわけじゃないですけど、私の世界の荷物ですし、これくらい自分で――」
「だめだ。頑なになるな」
ジークフリートは真剣そのものの青い瞳で真昼を見据えた。
「先日の精霊の湧き水で、誓ったはずだ。貴殿の安らぎと健やかさを守るのが、私の役目だと。……重い荷を運んで貴殿が腰や腕を痛めるなど、騎士団長として見過ごすわけにはいかん。手伝わせてくれ」
有無を言わさぬ迫力。
けれど、その奥にあるのは純粋なまでの過保護な愛気遣いだった。
真昼は気圧され、頬を染めながら「……じゃあ、一緒に運んでいただけますか?」と小さく頷いた。
山小屋の奥納戸。
薄暗い納戸の壁には、普段なら何の変哲もない古びた板壁が広がっている。
しかし今、真昼の首元には祖母タエが遺した『真鍮の鍵』が体温を吸って温かく輝いていた。
その鍵の魔力によって、板壁の中央には、現代の古民家の奥納戸へと通じる『押し入れの襖』が、淡い光の揺らぎを帯びて静かに口を開けていた。
押し入れの敷居のすぐ向こう側――現代日本の古民家の納戸側の畳の上には、特大の強化段ボール箱がどっしりと鎮座していた。
中には、濃口醤油、本みりん、純米酒、穀物酢の一升瓶が隙間なく詰め込まれており、総重量は三十キログラム近くに達している。
「よいしょ……っ!」
真昼は押し入れの枠に手をかけ、向こう側の畳の上に置かれた段ボール箱の底に両手を差し入れた。
持ち上げようと、膝に力を込める。
――グッ、ミシリ。
持ち上がりはしたものの、予想を遥かに超える重量だった。腕の筋肉が軋み、指先が段ボールの底に食い込む。
「真昼、無理をするな! 今、私が――」
異世界側からジークフリートが慌てて身を乗り出し、手を伸ばした――その、瞬間だった。
――ガクッ。
「きゃっ……!?」
段ボールの重みに足元の重心を奪われた真昼の右足の爪先が、押し入れの古い木の敷居の段差に、まともに引っかかってしまったのだ。
視界が大きく傾く。
三十キロの重量物を持ったまま、前のめりに――いや、敷居に足を取られて後ろへと、身体が急速に倒れ込んでいく。
「真昼、危ないッッ!!」
静寂を切り裂く、ジークフリートの悲鳴のような絶叫。
彼が反射的に踏み出した神速のステップは、戦場で部下の命を救うために磨き抜かれた、王国最強の剣士のそれだった。
ジークフリートは迷うことなく押し入れの開口部へと両手を伸ばし、崩れ落ちる段ボール箱ごと、真昼の華奢な身体を正面から力いっぱいに抱きとめたのだ。
ドサッ!
強靭な筋肉に包まれた腕が、真昼の背中と腰を完璧にロックする。
段ボール箱はふたりの胸の間に挟み込まれ、床への激突を免れた。
だが――。
真昼が倒れ込む凄まじい勢いと、三十キロの段ボールの慣性、そしてジークフリート自身の踏み込みの力が、ひとつに重なってしまった。
「……っ!?」
ジークフリートの長身が、バランスを崩して後ろへと引きずり込まれる。
真昼は咄嗟に体勢を立て直そうと、自由になった両手を伸ばし、目の前にあるジークフリートの胸元――活動服の襟元を、必死でぎゅっと強く掴みしめた。
真昼の指先が、首元から提げていた『真鍮の鍵』を巻き込み、ジークフリートの胸板へと固く押し付けられる。
その瞬間――。
世界の法則が、決定的な音を立てて発動した。
――キィィィィィィィンッッッッ!!
大気の中に、ガラスが擦れ合うような澄んだ高周波の共鳴音が響き渡った。
『通過条件:真鍮の鍵を真昼が身につけている間のみ、ゲートが通じる。真昼が触れているもの(衣服・荷物・抱きかかえた存在)のみ通過可能』
真昼の首元にジークフリートの腕が回り、真昼の手が彼の胸板を強く掴み、真鍮の鍵がふたりの皮膚の間に挟み込まれた。
すなわち――。
ジークフリート・フォン・ヘスラーという、異世界の肉体そのものが。
「真昼が直接触れ、抱きかかえている存在」として、押し入れゲートの認識コードに完全に合致してしまったのだ!
「な……何だ、この光は……!?」
ジークフリートの叫びも虚しく。
空間の歪みが激しく脈動し、ふたりの身体を包み込んだ。
敷居を越えて後ろへと倒れ込むジークフリートの巨躯。
彼は真昼の身体を衝撃から守るため、自らを下敷きにするようにして空中で身を反転させ、真昼を胸に強く抱きしめたまま――。
――バサァァァッッッ!!
押し入れの襖の開口部を突き破り、向こう側の空間へと、豪快に転がり落ちていったのだ!
***
ズウゥゥゥゥンッッッッ!!
鈍く、重い衝突音が響いた。
だが、それは石や冷たい土の上に叩きつけられた硬い音ではなかった。
どこか弾力のある、乾燥した草が何層にも編み込まれた床の上に、体重を受け止められたような、くぐもった衝撃音。
「……ぐっ、ふ……っ!」
下敷きになったジークフリートの口から、重い呼気が漏れた。
彼は倒れ込んだ勢いのまま、真昼の頭を自らの逞しい胸元に抱え込み、床に後頭部を打ち付けないよう、手甲を外した素手で彼女の後頭部をしっかりと保護していた。
胸の上に圧し掛かる、真昼の小柄な身体の重みと、三十キロの段ボール箱。
「……っ、痛たた……」
真昼は激しく打った顎をさすりながら、そろりと身じろぎした。
怪我は、どこにもない。
全身をすっぽりと包み込んでくれたジークフリートの分厚い筋肉が、すべての衝撃をクッションのように吸収してくれていたからだ。
顔を上げると、鼻先わずか数センチの至近距離に、苦悶に眉を寄せるジークフリートの美貌があった。
彼の乱れた金糸の髪が、真昼の頬をくすぐる。
「だ、団長さん……!? だ、大丈夫ですか!? 怪我はありませんか!?」
真昼が慌てて身を起こそうとすると、ジークフリートは息を整えながら、ゆっくりと青氷の瞳を開いた。
その瞳は、痛みに耐えながらも、真っ先に真昼の無事を確かめるように彼女の全身を走った。
「ああ……私は問題ない。……怪我はないか、真昼……? どこか痛むところは……」
「私、全然平気です! ジークさんが庇ってくれたから……! 本当にごめんなさい、私、足をもつれさせちゃって……!」
「無事なら……それでいい。……貴殿に傷ひとつなくて、本当によかった……」
ジークフリートは安堵の吐息を漏らし、ふわりと目元を緩めた。
だが――。
その安堵の表情が、次の瞬間、奇妙な強張りへと凍りついた。
「……む?」
ジークフリートの喉仏が、ピクリと動く。
背中に触れている床の感触。
それは、山小屋の冷たく硬いナラの木肌ではなかった。
まるで、編み込まれた乾燥植物の束のように、適度なクッション性を持ち、微かな弾力で身体を受け止めている。
そして――何よりも、空気の匂いだった。
(な……何だ、この匂いは……!?)
針葉樹の鋭い樹液の匂いも、薪の煙の煤けた薫香も、外の冷たい粉雪の湿り気すらも、どこにも存在しなかった。
漂ってくるのは――。
天日干しされた乾燥した草の、どこか懐かしく香ばしい清涼な匂い。
年月を経て落ち着いた、古い土壁と漆喰の乾いた香り。
そして、障子紙を透かして部屋全体を満たしている、信じられないほど穏やかで、静謐な『冬の陽だまりの空気』。
「……真昼。……ここは……?」
ジークフリートは真昼を抱き起こしながら、恐る恐る上半身を起こした。
青氷の瞳が、信じられないものを見るように、限界を越えて見開かれていく。
そこは――ログハウスの薄暗い納戸では断じてなかった。
足元に広がるのは、縁が藍色の布で美しく縫い止められた、整然と敷き詰められた黄金色の『い草の畳』。
周囲を取り囲むのは、丸太の壁ではなく、木枠に純白の紙が几帳面に張り巡らされた、大きな『障子戸』。
障子を透かして差し込む柔らかな初冬の日差しが、部屋の隅々を白く照らし出している。
ふたりが飛び出してきた場所を振り返ると――そこには、破られた襖などではなく、整然と開け放たれた木枠の『押し入れの開口部』があり、その奥には、異世界のログハウスの納戸の薄暗がりが、まるで額縁の中の絵画のように口を開けていた。
そして――。
太い黒光りする大黒柱の上部。
そこには、真鍮の振り子が規則正しく左右に揺れ動く、古風な柱時計が掛けられていた。
――カチッ、コチッ。
――カチッ、コチッ。
異世界の森には存在し得ない、冷徹なまでに精緻な、機械仕掛けの律動音。
「な……ここは……? い、一体……」
ジークフリートの呼吸が荒くなる。
彼は無意識のうちに腰の佩刀を探そうと手を伸ばしたが、今の彼は活動服の上に真っ白なリネンエプロンを着けた無防備な姿だった。
魔獣の殺気配も、魔力の乱れもない。
ただただ、圧倒的な静けさと、見たこともない異国の文化が織りなす空間。
そこへ――。
押し入れの奥から、トコトコと白い足音が響いた。
「わふっ」
純白の神獣ベルが、押し入れの敷居をひょいと跨いでこちらの世界へと入ってきたのだ。
ベルは畳の感触を前足で確かめると、ジークフリートの混乱を意に介することなく、「ふぁぁぁ……」と欠伸をひとつ漏らし、日当たりの良い畳の上へとゴロンと横たわって、嬉しそうに背中を擦り付け始めた。
「ベ、ベル……!? 貴様、警戒もせずに何を……!?」
狼狽するエリート騎士団長。
その隣で、真昼は息を呑み、自らの手元の真鍮の鍵と、ジークフリートの姿を交互に見つめた。
やってしまった。
ゲートの通過条件。
鍵に触れている真昼が、抱き合って触れ合っていたせいで――異世界の人間を、現代の日本へと越境させてしまったのだ。
「……団長さん」
真昼は正座し直すと、戸惑いに震えるジークフリートの青い瞳を、真っ直ぐに見つめた。
そして、静かに、けれど万感の想いを込めて告げたのだ。
「……ようこそ。ここが……私の生まれた世界です」
冬の柔らかな日差しが、畳の上に長い影を落とす。
異世界の白銀の騎士団長が、現代日本の古民家へと足を踏み入れた、決定的な瞬間だった。




