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第56話:都会の残影の彼方と、ここで生きるという選択

精霊の湧き水のほとり、樹氷がダイヤモンドのようにきらめく雪の静寂の中で交わした、ジークフリートとの誓い。

無骨で温かい彼の手のひらの感触と、「生涯をかけてあなたを守りたい」という震えるほど真摯な告白の余韻は、山小屋へと戻り、夕暮れの訪れとともに奥納戸の押し入れゲートをくぐったあとも、真昼の胸の奥底で消えることのない紅蓮の灯火のように燃え続けていた。

襖を静かに滑らせて閉めると、針葉樹と粉雪の冷冽な気配がすうっと引き、代わりに初冬の夕暮れを蓄えた土壁と、古いい草の畳の匂いが優しく鼻腔をくすぐった。


「……ふぅ」


真昼は奥納戸から居間へと足を踏み入れ、首元に触れた。

祖母タエの遺品である真鍮の鍵。そして、服の上からでもはっきりとわかる、左手首に残る温かな体温の残滓。

ジークフリートが、自分のためだけにすべてを投げ打ち、生涯の隣人として選んでくれたという奇跡。

その圧倒的な幸福感に胸を満たされながら、真昼は何気なく、机の上に置きっぱなしになっていた私物のスマートフォンへと視線を向けた。


――ピロン。


まるで真昼が戻ってくるのを待っていたかのように、控えめな電子音が初冬の静かな室内を震わせた。

画面が淡い光を放ち、緑色のメッセージアプリのバナーがポップアップする。

送り主の名を目にした瞬間、真昼の心臓がトクンと小さく跳ね上がった。


『高梨友香(前職・営業事務同期)』


新卒で入社し、四年間ともに過酷な労働環境を耐え抜いた、唯一の同期からの連絡だった。

会社を逃げるように辞めて以来、数ヶ月間、一度もやり取りをしていなかった相手。

真昼は息を呑み、正座してスマートフォンを両手で持ち上げた。

ロックを解除し、メッセージの文面に目を走らせる。


『真昼、久しぶり! 体調はどう? 田舎暮らし、少しは落ち着いた?

実はね、急ぎで伝えたいことがあって連絡したの。うちの営業事務、先週急に退職者が出て枠がひとつ空いちゃったんだよね。

それでね、さっき課長に呼ばれて、「小鳥遊は今どうしてるんだ? 体調が戻ってるなら、中途枠で復職の手続き進めてもいいぞ」って言われたの!

真昼の仕事の早さは課長もすごく評価してたし、課長からそんなこと言ってくれるなんて異例中の異例だよ!

相変わらず残業は多いし激務だけど、やっぱり一部上場の大手だし、お給料も福利厚生も田舎の比じゃないでしょ? ブランクが長くなる前に戻ってきた方が絶対真昼の将来のためにもいいと思う。

どうかな? 来週にでも一度、課長と面談してみない?』


「……………………っ」


スマートフォンの液晶画面を見つめたまま、真昼の指先がピキリと凍りついた。

画面から放たれる青白い光。

その文字の羅列を追うだけで、頭の奥底に封じ込めていたはずの、あの暗く冷たい過去の記憶が、濁流のように脳裏へと雪崩れ込んできた。


深夜零時を過ぎても煌々と照り続ける、無機質なオフィスの蛍光灯。

フロア中に鳴り響く保留音と、受話器越しに浴びせられる理不尽な怒号。

机の上に積み上げられた終わりの見えない伝票の山と、キーボードを叩き続けるうちに感覚を失っていった指先。

終電の冷え切ったホームのベンチで、胃痙攣の痛みに耐えながら、生きるために無理やり喉へと押し込んだ、パサパサのコンビニのツナマヨおにぎり。

どれほど身を粉にして働いても、誰ひとりとして真昼の心を見ようとはしなかった。

自分はただの、替えの利く便利な歯車。

感情を殺し、痛みを隠し、他人の顔色を窺い、朝ベッドから起き上がれなくなるまで自分を追い詰めてしまった、あの灰色の地獄の日々――。


(……怖かった、な)


真昼の唇から、かすかな吐息が漏れた。

かつての自分なら、このメッセージを見た瞬間、激しいパニックに陥っていただろう。

将来への底知れない不安に怯え、「大手企業に戻れるチャンスがあるなら、我慢して戻るべきなのかもしれない」「社会からドロップアウトしたままでは生きていけないのではないか」と、自らを責め立てて震えていたに違いない。


――だが。

今、真昼の胸の中にあったのは、恐怖でも焦燥でもなかった。


「……不思議だな」


真昼は小さく呟き、自らの胸元へとそっと手を当てた。

服の下にある、真鍮の鍵。

そして、心の中に浮かび上がるのは、あの温かな森の光景だった。


朝五時に薪を割り、糊のきいたエプロンを着けて大根の面取りをするジークフリート。

ホットケーキミックスのスコーンを頬張って目を丸くした甘党のクラウス。

三徳包丁の切れ味に驚き、立派なかまどを造ってくれたバルト。

唐揚げと大盛りご飯に涙を流し、忠誠を誓ってくれたヨハン。

胃を痛めながらも梅干し粥に救われ、最強の盾となってくれたオズヴァルト。

蜜林檎を誇らしげに届けてくれた少年ルッツ。

そして、膝の上で喉を鳴らす純白の神獣ベル。


彼らは誰ひとりとして、真昼を都合のいい歯車として扱いはしなかった。

真昼が引く一杯の出汁に、炊き上げる一杯の白米に、心からの感謝と愛を注いでくれた。

そして何より――真昼自身が、自分の手で素材を選び、料理を作り、誰かを笑顔にすることの中に、かけがえのない生きる誇りを見出していたのだ。


現代の生活費だって、もう誰かにすがる必要はなかった。

聡美のカフェを通じて正式にハーブ農家としての商路を切り拓き、古民家の改装費を完済し、自分の力で地に足をつけて生きている。


(迷うことなんて……最初から、何ひとつない)


真昼の瞳から、最後の迷いの雲が完全に晴れ渡った。

彼女は迷いのない手つきで、スマートフォンのキーボードをタップし始めた。

怒りも、恨みも、未練も、そこには何ひとつ込められていなかった。

ただ、かつて自分を心配してくれた同期への純粋な感謝と、そして、自らが選び取った未来への揺るぎない誇りだけを込めて。


『友香、連絡ありがとう。

心配してくれて、わざわざ課長に掛け合ってくれたこと、本当に感謝してるよ。

でもね、私は会社には戻りません。

逃げるように辞めてしまったけれど、今の私は、祖母が遺してくれたこの山あいの古民家で、自分の手で選んだ仕事をしながら、心から笑って生きています。

誰かの決めたレールではなく、自分が大切にしたい居場所を、命をかけて守りたい人たちを見つけることができました。

だから、もう都会のオフィスに戻ることはありません。

課長にも、「お気遣いありがとうございました」と伝えてもらえると嬉しいです。

友香も、無理をしすぎないでね。今まで本当にありがとう』


送信ボタンを、迷いなくタップした。

――シュッ、と小気味よい送信音が鳴り、画面に既読のマークがつく。

真昼はふっと深く息を吐き出すと、スマートフォンの側面の電源ボタンを長押しした。

画面に表示された「電源を切る」のアイコンを指先でスライドする。

スゥッ……と画面の光が吸い込まれるように消え、漆黒のガラス板へと戻った。


都会の残影との、完全なる決別。

過去の鎖は、今この瞬間、跡形もなく断ち切られたのだった。


***


重い過去を手放した瞬間、ふっと全身の緊張が解け、真昼のお腹が「ぐぅ……」と小さく可愛らしい音を立てた。

思えば、昼にジークフリートと精霊の湧き水へ出かけ、ゆず生姜湯とドーナツをつまんだきり、夕暮れの冷気の中で何も口にしていなかった。


「……よし。なんだか、無性に美味しいお餅が食べたいな」


真昼は立ち上がり、居間の隅へと向かった。

そこには、祖母タエが生前、冬になると決まって縁側に据え付けていた、年季の入った南部鉄器の『丸火鉢(まるひばち)』があった。

灰を綺麗にならし、現代のホームセンターで買っておいた上質な『なら炭』を三本、火床に組む。

カセットコンロの火で炭の端を赤く熾し、火鉢の中央へと移すと、パチッ……と小さな火の粉が散り、じわりとした柔らかな遠赤外線の温もりが立ち上り始めた。

真昼は火鉢を、庭の紅葉が見渡せる縁側の板の間へと運び出した。


「冬の縁側で食べるおやつ……最高だよね」


火鉢の上に、丸い鋳鉄の焼き網を据える。

真昼が台所から持ってきたのは、年末用に仕入れておいた、杵つきの『純白の角餅』が二つ。

そして、小皿に合わせ調味料を準備する。

祖母タエの遺品である濃口醤油を大さじ二杯。

そこへ、まろやかなコクを持つきび砂糖を大さじ一杯半、そして風味づけの本みりんをほんの数滴。スプーンでジャリジャリと底からかき混ぜ、濃厚な『特製砂糖醤油ダレ』を作る。

さらに、上質な有明産の『焼き海苔』を、餅をぐるりと包み込める幅に切り分けたものを二枚。


赤々と熾る炭火の上の網へ、角餅を二つ、行儀よく並べた。


――チリチリチリ……。


静寂に包まれた縁側に、炭火と餅が触れ合うかすかな音が響く。

真昼は火鉢の横に正座し、萬古焼の急須に茶葉を詰めた。

今夕合わせるのは、強火で焙煎された香ばしい『深煎りほうじ茶』。

鉄瓶から沸き立つ熱湯を注ぎ入れると、ふわりと立ち上ったのは、冬の寒さを一瞬で忘れさせるような、香ばしく落ち着いた焙煎香だった。


網の上の餅が、ゆっくりと表情を変えていく。

底面に当たる熱によって、純白だった表面が乾き、やがて淡いキツネ色の焼き目がつき始める。

真昼は火箸を使って、餅を裏返した。

――パチッ。

炭火の熱が餅の中心へと届いた瞬間、ぷくぅぅぅ……と、餅の表面が一箇所、風船のように白く丸く膨らみ始めた。

香ばしい焼き米の匂い。

外側はパリッと固く焼き締まり、内側は熱によってトロトロの極上の餅へと昇華していく。


「……今だ!」


真昼は膨らみきった熱々の焼き餅を箸で挟み上げると、小皿の砂糖醤油ダレの中へ――迷うことなく、両面をたっぷりと潜らせた!


――ジュワァァァァッッッ!!


熱い餅肌に触れた砂糖醤油が、ジュッと音を立てて沸き立ち、瞬時に甘辛い焦がし醤油の暴力的なまでの薫香を立ち上らせた。

醤油の塩気と、砂糖の溶けた甘み。

タレをたっぷりと吸い込んだ熱々の餅を、真昼はパリッとした焼き海苔の上へと乗せ、両側からパタンと挟み込んだ。


「熱いうちに……いただきます!」


真昼は両手で海苔の端を持ち、大口を開けてかぶりついた。


――パリッッ! サクッ、モチィィィィッッ!!


静かな縁側に、息を呑むほど軽快な破裂音が響き渡った。

その瞬間、真昼の目元が、あまりの美味しさにふにゃりと緩んだ。


「……………………っ! んん〜〜〜っ……!!」


美味い。言葉にならないほど、美味い!

まず唇を破ったのは、有明海苔の圧倒的な磯の香りと、パリパリとした心地よい食感。

続いて、炭火でこんがりと焼かれた餅の表面の、サクサクとした香ばしいお焦げの苦み。

そして――内側から溢れ出してきたのは、どこまでも伸びる、驚くほど滑らかで熱々の餅の弾力だった!

そこに絡みつく、砂糖醤油の神がかり的な甘辛さ!

醤油のキリリとした塩気が、きび砂糖の丸みのある甘みを極限まで引き立て、熱い餅のデンプンと混ざり合って、口いっぱいに圧倒的な多幸感を広げていく。

噛み締めるたびに、米本来の力強い甘みと海苔の風味が重なり合い、飲み込むのが惜しいほどの旨味が喉を滑り落ちていく。


すかさず、湯呑みの熱いほうじ茶を口に含む。

――ず、ずずずっ……。

香ばしい茶の温もりが、口の中に残った砂糖醤油の甘じょっぱさを優しく包み込み、食道から胃袋へと染み渡っていく。

はぁぁ……と、温かな息がこぼれ落ちる。


「……美味しいなぁ。おばあちゃん、やっぱり冬はこれだよね」


庭を見渡せば、夕暮れの茜空が山並みの端を淡い紫紺へと染め上げ、初冬の澄んだ風が柿の木の枯れ枝を揺らしていた。

都会の狭いワンルームで、冷えたコンビニ弁当を孤独にかき込んでいた日々の記憶が、まるで遠い前世の出来事のように薄れていく。

自分の手で火を起こし、自分の手で焼き上げ、自分の舌で味わう、この素朴で確かな命の温もり。

真昼は二つ目の餅も夢中で平らげ、最後の一滴のほうじ茶を飲み干すと、満足そうにお腹をさすって立ち上がった。


「よしっ。聡美さんのところへ行こう!」


***


軽トラックのエンジンをかけ、薄暮の山道を走らせる。

助手席のトートバッグの中には、数日前から几帳面に推敲を重ねて作成した、一束の書類が収められていた。

それは、古民家カフェ『野良時計』の店主・水野聡美へと提出するための、正式な『専属ハーブ供給・長期業務委託契約書』だった。


車を走らせること約十分。

木立の間に暖かなオレンジ色の明かりを灯す、古民家カフェ『野良時計』に到着した。

夜の営業前の静かな時間帯。煙突からは、薪ストーブの優しい白煙が立ち上っている。

真昼が引き戸を開けると、カラン、コロンと澄んだ真鍮ベルの音が響いた。


「こんばんは、聡美さん!」

「あら、真昼ちゃん! いらっしゃい。ちょうど薪ストーブに火を入れたところよ。寒かったでしょ、ストーブの前の席に座りなさいな」


厨房から出てきた聡美は、エプロン姿のまま笑顔で真昼を迎え入れ、温かい生姜湯を出してくれた。

真昼はストーブの前のロッキングチェアに腰を下ろし、深く息を整えた。

そして――トートバッグから、丁寧にクリアファイルに収められた契約書の束を取り出し、両手でテーブルの上へと滑らせたのだ。


「……聡美さん。これを見ていただけますか」


「ん? 何かしら、これ……」


聡美が眉を上げ、ファイルを開く。

そこに並んでいたのは、真昼が商社時代に培った几帳面な事務能力をフルに発揮して作成された、来年度の年間供給計画書と、正式な委託販売契約書だった。

森で採れるルミナスベリーの収穫予測時期、乾燥ハーブの月別納品目標数量、品質管理基準、そして正規の卸値レート。

すべてが、プロの契約農家として一分の隙もなく組み上げられていた。


聡美の切れ長の瞳が、書類の文字を追うごとに大きく見開かれていく。

書類から顔を上げた聡美の視線を受け止め、真昼は背筋をピンと伸ばした。

膝の上で両手を揃え、一片の曇りもない、澄み切った瞳で真っ直ぐに聡美を見つめる。


「聡美さん。……私、完全に腹を括りました」


静かな、けれど山小屋の巨木のように揺るぎない、確固たる声音。


「都会に戻る選択肢は、さっき完全に捨ててきました。……私は、祖母が遺してくれたあの古民家を拠点にして、ずっとここで、ハーブと保存食を作りながら暮らしていきます」


「真昼ちゃん……」


「最初は、ただ逃げてきただけでした。都会で心も身体もボロボロになって、行き場がなくて、ただ隠れるように古民家に転がり込んだだけだったんです。……でも、聡美さんが私の持ち込んだ素材を認めてくれて、正当なお金を稼ぐ道を作ってくれました。そして……あの場所で、私の作るご飯を待ってくれている、大切な人たちに出会えました」


真昼の脳裏に、ジークフリートの青い瞳と、仲間たちの笑顔が浮かぶ。


「私はもう、誰かの顔色を窺って生きる歯車には戻りません。自分の手で素材を育て、自分の手で加工し、美味しいと言ってくれる人たちに届ける。……この古民家と、あの森を生涯の居場所にして、生きていくと決めました。……だから聡美さん、私を、これからもずっとあなたのビジネスパートナーとして、雇っていただけますか?」


真昼は深々と、テーブルに向かって頭を下げた。

店内には、薪ストーブの薪が爆ぜるパチパチという音だけが響いている。

長い沈黙。

やがて――フッ、と柔らかく息を吐き出す気配配がした。


「……顔を上げなさい、真昼ちゃん」


聡美の優しい声に、真昼が恐る恐る顔を上げると。

そこには、両腕を組んで、これ以上ないほど誇らしげに、そして嬉しそうに目尻を細める聡美の姿があった。


「合格よ。……ううん、百点満点以上の花丸ね」


聡美はクリアファイルをパチンと閉じると、身を乗り出し、真昼の華奢な両肩を力強く抱きしめるようにポンと叩いた。


「うん、今の真昼ちゃんの顔、すごくいい顔してる。……数ヶ月前、都会から逃げてきたばかりの頃の、あの死にそうな、今にも消えちゃいそうだった幽霊みたいな顔とは大違いよ。自分の足で大地を踏みしめて、自分の意志で未来を選び取った……本物の大人の顔をしてるわ」


「聡美さん……」


「当たり前でしょ! 誰が手放すもんですか、こんな最高品質のハーブとベリーを安定供給してくれる優秀なパートナーを! 東京の大手百貨店からも、追加発注の打診がどんどん来てるのよ。……真昼ちゃんが腹を括ってくれたなら、私も本気で仕掛けるわ。来年はうちのカフェのオリジナルブランドを立ち上げて、全国展開を本格化させるわよ!」


聡美の力強い言葉に、真昼の目元がじわりと熱くなった。

聡美はカウンターからペンを取り出すと、契約書の署名欄に、流麗な文字で迷いなく自らの名前をサインした。

そして、手を差し出す。


「これからもよろしくね、真昼ちゃん。……全力で応援するし、全力で一緒に稼ぐわよ!」

「……はい! よろしくお願いします、聡美さん!」


ふたりは固く、温かい握手を交わした。

ストーブの炎がふたりの影を大きく揺らし、山あいのカフェに、希望に満ちた笑い声が響き渡った。


***


カフェを辞し、夜の帳が完全に下りた山道を軽トラックで戻る。

古民家の駐車場に車を止め、外へ出ると、夜空には息を呑むほど美しい満天の冬の星々が瞬いていた。

張り詰めた冷たい夜気を、真昼は胸いっぱいに吸い込んだ。

肺腑の奥まで澄み渡っていくような、心地よい冷涼感。

もう、胸の奥を締め付ける恐怖も、焦燥感も、誰かに怯える影も、何ひとつ残っていなかった。


誰かの敷いたレールではない。

世間の常識や、他人の期待に押し潰される生き方でもない。

自分の足で選び取った、ふたつの世界を跨ぐ、この愛おしい二重生活。

現代側でしっかりと稼ぎ、古民家を守り、税金を納め、自立した一人の人間として胸を張って生きる。

そして――あの押し入れの向こうの森で、自分を心から必要とし、愛してくれるジークフリートや仲間たちのために、毎朝、命を養う温かいご飯を作り続ける。


「ただいま、おばあちゃん」


真昼は古民家の玄関の鍵を開け、居間へと足を踏み入れた。

長押に掛けられた、深紅の防寒マント。

青い魔鉱石が、月明かりを浴びて優しく真昼を迎えてくれる。

真昼は首元の真鍮の鍵にそっと手を添え、奥納戸の押し入れの襖の前へと立った。

迷いのない手で、襖を引く。


向こう側から吹き抜けてくるのは、大好きな針葉樹の清冽な香りと、初雪を抱いた冬の森の静けさ。

テラスの扉の向こうでは、きっと今夜も、純白の神獣ベルが丸くなって真昼の帰りを待っているだろう。

そして明日の朝もまた、五時になれば薪を割る乾いた音が響き、真っ白なエプロンを着けたジークフリートが、あの極上の笑みを浮かべて待っているのだ。


「……待っててね、ジークさん」


真昼は微笑み、確かな決意を胸に抱いて、光の満ちる押し入れの向こう側へと、軽やかに足を踏み出していったのだった。

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