第54話:絡み合う黄金の黄身と、宮廷を越えた歓声
山小屋の中央に据えられた頑丈な丸太テーブルの上で、鍛冶師バルトが打ち出した黒鉄のすき焼き鍋が、グツグツと暴力的なまでに甘美な音を立てて煮えたぎっていた。
初雪の白銀に閉ざされた外の極寒とは裏腹に、二連かまどの熾火と暖炉の炎が部屋を春のように温め、窓ガラスは内側から吹き上がる熱い蒸気で真っ白に曇っている。
鍋の底では、醤油とざらめ糖の濃厚なタレを纏った大判の黒毛和牛霜降り肉が琥珀色に照り輝き、下仁田ネギがとろりと甘い蜜を溢れさせ、焼き豆腐としらたきが極上の肉汁をその身の奥深くまで吸い込んでいた。
「さあ、みなさん! 一番美味しい煮え加減ですから、席に着いてください!」
白い割烹着姿の真昼が明るく声をかけると、雪かきを終えて息を荒げていた男たちが、吸い寄せられるようにして丸太ベンチへと腰を下ろした。
全員の視線が、鍋の中央で揺らめく霜降り肉へと釘付けになっている。
だが――真昼が男たち一人ひとりの目の前へと、小さな青磁の小鉢をことりと並べ置いた瞬間。
男たちの動きが、ピタリと止まった。
「……ん? 嬢ちゃん、こりゃ何だ?」
バルトが無精髭を撫でながら、怪訝そうに小鉢を覗き込んだ。
小鉢の中に収まっていたのは――割られたばかりの、つるりとした『生の卵』だった。
こんもりと盛り上がった鮮やかな濃橙色の黄身と、透明で弾力のある二重の白身。
真昼は笑顔で菜箸を配りながら、至極当然のように告げた。
「はい、卵を溶いて、熱いうちに絡めて食べてくださいね」
「「「……………………な、生!?」」」
男たちの口から、同時に驚愕の声が漏れた。
それも無理からぬことだった。この異世界において、卵とは完全に火を通し、固ゆでにしたりパン生地に練り込んだりして食べるのが絶対の常識。生のまま口にするなど、腹を下す危険極まりない貧民の奇行か、あるいは野蛮な獣の食事法だと信じ込まれていたからだ。
「ま、真昼殿……! 鶏卵を……生のまま食すのですか!?」
副官クラウスが眼鏡を指で押し上げ、青ざめた顔で小鉢と鍋を交互に見つめる。
「加熱せぬ卵には特有の生臭さがあり、衛生面でも極めて危険であると王都の医術書にも記されております! こ、これをそのまま……タレに絡めるなど……!?」
「あはは、大丈夫ですよ! 私の世界ではね、卵は徹底的に洗浄・消毒されて、生で食べられるように一番新鮮な状態で管理されているんです。臭みなんて一切ありませんし、すき焼きはこの生卵に熱々のお肉をくぐらせてこそ、真の完成形なんですから!」
真昼は自らのお手本とばかりに、小鉢の卵に箸を立て、リズミカルにシャカシャカと溶いてみせた。
黄身と白身が混ざり合い、とろりとした艶やかな黄金色のソースが出来上がる。
説明を聞いてもなお、新米騎士ヨハンはゴクリと喉を鳴らして怯え、オズヴァルトは腕を組んで眉根を寄せていた。
その、躊躇の空気を切り裂いたのは――やはり、白銀の騎士団長だった。
「……真昼が、毒を盛るような真似をするはずがない」
ジークフリートだった。
彼は迷いなく黒檀の塗り箸を手に取ると、小鉢の中の生卵へと箸先を落とした。手首を器用に動かし、滑らかな円を描いて黄身を溶きほぐしていく。混ざり合う黄金色の液体を見つめる青氷の瞳には、疑念など微塵もなく、真昼に対する絶対の信頼だけが宿っていた。
ジークフリートは箸を鍋へと伸ばした。
狙いを定めたのは、琥珀色の泡の中で今まさに最高の火通りを迎えた、手のひら大の霜降り和牛肉。
――スッ。
持ち上げられた大判の肉からは、甘辛いタレの湯気が濛々と立ち上り、溶け出した和牛のサシがキラキラと光を弾いている。
ジークフリートはその煮えたぎる肉を、溶き卵の入った小鉢の中へ――躊躇することなく、たっぷりと沈めた。
――ジュウゥ……ッ。
微かな、熱が冷まされる音がした。
黄金色の卵液をたっぷりと纏った肉。
ジークフリートはそれを持ち上げると、大口を開け、一気に口の中へと迎え入れた。
――ハフッ、ジュワァァァッッッ!!
咀嚼した刹那。
ジークフリートの全身の神経が、雷撃に打たれたかのように硬直した。
「……………………ッッ!?」
言葉が、声が、息が、すべて喉の奥で止まった。
ジークフリートは箸を持ったまま、ガバッと勢いよく天を仰いだ。
見開かれた青氷の瞳から、言葉にならない歓喜の震えが溢れ出す。
「……っ! に……肉が……噛む前に、溶けていく……!」
呻くような、魂の底からの吐息。
「……なんという柔らかさだ……! 歯を当てる必要すらなく、舌の上でほろほろと解け崩れていく……! そして……この卵だ……! 熱々の肉を包み込むことで、舌を火傷させず、濃厚なタレの甘みと肉の脂が……生の卵と混ざり合って、驚くほどまろやかになる……!!」
ジークフリートの脳内で、味覚の革命が吹き荒れていた。
醤油とざらめ糖が鉄鍋で焦げた、ガツンとくる力強い甘辛さ。そこに、和牛特有の上品な脂の甘みが重なる。
本来であれば濃厚すぎて重たくなるはずのその味覚を、新鮮な生卵のクリーミーでコクのある黄身が、まるで最高級のベルベットの布のように優しく、まろやかに包み込んでいたのだ。
生臭さなど微塵もない。
むしろ、卵の甘みが肉の旨味を何重にも引き立て、喉の奥へと滑らかにエスコートしていく。
「……美味い……! こんな美味いものが……この世にあるのか……!」
天を仰いだまま震えるジークフリートのその姿は、何よりも雄弁な証明だった。
***
「うおおおおっ! 団長がそこまで言うなら、俺もいかせてもらうぜッ!!」
我慢の限界を迎えた鍛冶師バルトが、箸を鍋へと突き入れた。
大判の霜降り肉と、飴色に煮上がった下仁田ネギを同時に鷲掴みにする。
小鉢の卵を豪快にかき混ぜ、肉とネギをジャブジャブと潜らせると、大口を開けて放り込んだ!
――ガブッッ! ジュワァァァァァッッッ!!
「……………………ッッ!?」
噛み締めた瞬間、バルトの毛むくじゃらの顔面がカッと紅潮した。
口いっぱいに弾け飛んだのは、和牛の圧倒的な肉汁と、下仁田ネギの内側から溢れ出す熱々のクリームのような甘み。
そこに絡みつく、生卵の濃厚なとろみ!
バルトは太い喉仏を猛烈な勢いで上下させて飲み下すと、立ち上がって山小屋の天井を突き破らんばかりに咆哮した。
「うおおおおおおおおっッッ!!」
地鳴りのような絶叫。
「こんな美味いもん食ったら、王都の宮廷料理なんざ泥水に思えて二度と食えねえぞッッ!!」
職人の魂の底からの叫び。
その言葉が引き金となり、食卓は一瞬にして熱狂の坩堝へと叩き落とされた。
「お、俺も食うっす! もう我慢できないっすぅぅぅっ!!」
新米騎士ヨハンが、山盛りのどんぶり白米を左手に構え、卵を絡めた肉を鍋から引っ張り上げた。
そして――真昼が教えるまでもなく、本能の赴くままに、そのタレと卵にまみれた肉を、純白の白米の上へとバウンドさせたのだ!
ワンバウンド、ツーバウンド。
肉の脂と甘辛いタレ、そして黄金色の卵液が、炊きたての新米の山へとジュワリと染み込んでいく。
ヨハンはその肉で白米を巻き込むようにして、大口を開けてかき込んだ!
――ハフッ、ハフッ、モグモグッ、ジュワァァッ!!
「ん……んんんんんんーーーーーっッッ!!」
ヨハンは身悶えし、両足で床板を踏み鳴らした。
「肉汁と卵を吸ったお米が……お米が凶器っす! タレが染みたご飯だけで、天国まで飛んでいけそうっすよぉぉっ! 美味い、美味すぎるっす!!」
白米を吸い込むように胃袋へ流し込み、ヨハンはわずか数十秒でどんぶり一杯を平らげ、おひつの前へと突進していった。
その横で――。
普段は冷静沈着で表情を崩さない財務官オズヴァルトが、震える手で箸を握っていた。
彼は煮汁をたっぷりと吸い込んで黄金色に膨らんだ焼き豆腐と、薄切りの牛肉を卵にくぐらせ、口へと運んだ。
――ハフリ。
噛み締めた瞬間。
「…………っ」
オズヴァルトは無言のまま、スッと右手を顔へと伸ばした。
そして――自らの銀縁眼鏡を、静かに外したのだ。
湯気と感動で真っ白に曇った眼鏡をテーブルの上に置くと、彼はそっと目を閉じ、眉間を緩め、深いため息とともに至福の余韻を噛み締めた。
「……あぁ……。美味い……。肉の繊維がほどけ、大豆の滋味と重なり、卵の抱擁によって完璧な調和を成している……。言葉を紡ぐことすら、この味の前では冒涜に思える……」
眼鏡を外した堅物官吏のその無防備な恍惚の表情に、少年ルッツが「あはは! オズヴァルトさん、すっごく幸せそうな顔してる!」と笑い声を上げる。
ルッツ自身も、甘辛いタレを吸ったしらたきと椎茸を卵に絡め、「ちゅるちゅるしてて、甘くて美味しい!」と夢中で頬張っていた。
足元では、真昼から特別に味付け前の出汁でサッと火を通した柔らかい牛肉の小片をもらった神獣ベルが、小皿を前足で挟み込み、ハフハフと歓喜の息を漏らしながら平らげていた。
外の雪景色を忘れさせるほどの、濃厚で温かな幸福の嵐。
大皿いっぱいに盛られていたはずの極上霜降り肉と山盛りの野菜たちは、男たちの凄まじい食欲の前に、あっという間に消え去っていったのだった。
***
「……ふぅぅぅ……食った、食い尽くしたぜ……!」
バルトが大きく膨らんだ腹をさすりながら、満足そうに丸太ベンチへと背中を預けた。
鍋の中には、具材の姿はもうひとつも残っていなかった。
だが――。
黒鉄の鍋の底には、牛肉から溶け出した極上の脂と、下仁田ネギの甘み、椎茸のエキス、そして醤油とざらめ糖が凝縮された、琥珀色に照り輝く『濃厚な煮汁』が、ふつふつと静かに湯気を立てて残されていた。
「みなさん、まだごちそうさまは早いですよ!」
真昼がいたずらっぽく微笑みながら立ち上がった。
その両手には、奥納戸の押し入れゲートを通じて現代の冷凍庫から運んできた、秘密兵器が抱えられていた。
「すき焼きの本当のお楽しみは、ここからです! 『〆(しめ)のうどん』いきまーす!」
「「「う、うどん……ッ!?」」」
男たちの目が、再びパッと見開かれた。
真昼が鍋の中へと滑り込ませたのは、現代の業務スーパーが誇る名品――『冷凍讃岐うどん』の極太麺だった。
あらかじめ熱湯でサッとほぐしておいた純白の極太麺が、琥珀色の煮汁の海へとダイブする。
――ジュワァァァッ……ボコッ、ボコッ!
真昼は菜箸で手早く麺をほぐし、鍋底に残った濃厚なタレを絡めていく。
煮汁が濃すぎるのを見越し、ジークフリートが汲んできてくれた精霊の湧き水と、昆布出汁をほんの少し注ぎ足して塩梅を整える。
強火で一気に煮立てる。
純白だった讃岐うどんの表面が、牛肉の旨味と醤油のタレをぐんぐんと吸い込み、瞬く間に艶やかな琥珀色へと染まり上がっていく。
仕上げに、小口切りの青ネギをドサリと散らし、余っていた溶き卵を回し入れた!
――ふわぁぁぁぁっ……!
卵が半熟の状態でふんわりと固まり、極太のうどんに絡みつく。
立ち上る湯気は、先ほどの肉を焼いた時よりもさらに奥深く、凝縮された小麦と出汁の香ばしさを放っていた。
「はい、出来上がりです! 冷めないうちにどうぞ!」
真昼が手際よく小鉢へと取り分けていく。
琥珀色に輝く極太麺の上に、とろとろの半熟卵と青ネギ。
先陣を切って丼を口元へ運んだのは、やはり副官クラウスだった。
塗り箸で太い麺を豪快に持ち上げ、一気に啜り込む!
――ズズッ、ズズズズッッッ!!
「……っ!? ぶはぁっ……!!」
クラウスの喉が激しく震えた。
「こ……このコシの強さは何だ……!? これほど煮込まれているというのに、麺の中心に強靭な弾力がある……! そして、肉と野菜のすべてのエキスを吸い込んだこのタレ……! 麺を噛むごとに、凝縮された旨味がジュワリと染み出してくる……!!」
「うめぇぇぇぇっ! ずるずる入るっす! 腹いっぱいだったはずなのに、いくらでも食えるっすぅぅっ!」
ヨハンが汗だくになりながら、猛烈な勢いでうどんを啜る。
バルトもオズヴァルトも、もはや言葉を交わす暇すら惜しむように、一心不乱に丼と向き合っていた。
熱々の極太麺が喉を滑り落ちるたび、身体の芯からカッと熱気が吹き出し、額から、首筋から、大粒の心地よい汗が噴き出してくる。
誰一人として箸を止めることなく、黒鉄の鍋の底に残った最後の一滴の煮汁まで、うどんに絡め取られて綺麗に消え去っていった。
***
「……ぷはぁぁぁぁぁぁぁっッッ!!」
全員が同時に丼を置き、天を仰いで深いため息を吐き出した。
外は、初雪が音もなく降り積もる氷点下の白銀の世界。
だが、ログハウスの中にいる男たちは全員、上着の襟元を大きく寛げ、額の汗を手ぬぐいで拭いながら、まるで真夏の太陽を浴びたかのように上気した顔で笑い合っていた。
「……美味かった。真昼、本当に……見事だった」
ジークフリートが、穏やかな、満ち足りた声で呟いた。
その青氷の瞳には、冷徹な騎士団長の険しさは微塵もなく、愛する居場所で心身を満たされた男の、極上の温もりが宿っていた。
バルトが豪快に腹を叩き、オズヴァルトが満足げに眼鏡を拭い、クラウスとヨハンが幸せそうに肩を寄せ合っている。
真昼は空になった大鍋を見つめ、それから窓の外の静かな雪景色を見遣った。
過酷な冬が、今まさに始まった。
けれど――どれほど冷たい雪が世界を覆い尽くそうと、この小さな山小屋に集う仲間たちの笑顔と、熱い鍋を囲む絆がある限り、凍えることなど絶対にない。




