第53話:初雪の白と、甘辛く煮立つ黒鉄の鍋
世界から、あらゆる音が吸い去られていた。
いつもなら梢を揺らす風のさざめきや、遠くで響く小鳥のさえずりが微かに届くはずの早朝。だが今朝のシルヴァの森は、息を呑むほどの静寂に包まれていた。
奥納戸の押し入れゲートをくぐり、真昼が異世界の山小屋へと足を踏み入れた瞬間、肌を撫でたのは――氷の刃を突きつけられたかのような、凛烈たる気配だった。
木枠の窓越しに外を見遣った真昼は、思わず小さく息を呑んだ。
「……降ったんだ」
窓の向こうに広がっていたのは、見渡す限りの純白の世界だった。
昨日まで燃えるような深紅や黄金の葉を纏っていた針葉樹やナラの巨木たちは、綿帽子のような柔らかな雪をたっぷりと抱き、大地は足首がすっぽり埋まるほどの白銀の絨毯で覆い尽くされている。初雪だった。
外の気温は、明らかに氷点下を大きく下回っている。窓ガラスの内側には、冷気に触れた湿気がシダの葉のような美しい氷霜の花を咲かせていた。
「わふっ」
足元から、軽やかな鳴き声。
振り返ると、純白の神獣ベルが、真昼を見上げて尻尾をぶんぶんと振っていた。雪景色と同化してしまいそうなほど真っ白でふかふかの冬毛を膨らませた姿は、まるで歩く雪だるまのようだ。寒さに縮こまるどころか、冬の訪れを歓迎するように瞳を爛々と輝かせている。
「ベル、おはよう。すごい雪だね。……でも、私にはこれがあるから大丈夫!」
真昼は胸元の銀の留め具に手を添え、ふわりと口元を綻ばせた。
身に纏っているのは、先日の朝、ジークフリートが全財産を投じて贈ってくれた、あの深紅の防寒マントだ。
表地は外の冷気を完璧に遮断し、内側に敷き詰められた北方の雪狼の毛皮は、真昼の体温を優しく抱き込んで逃がさない。羽毛のように軽く、首元から足首までが陽だまりに包まれているかのように温かい。
胸元で光る青い魔鉱石に指先で触れると、まるでジークフリートが隣でそっと手を握ってくれているかのような、揺るぎない安心感が胸の奥を満たしていった。
「よしっ! まずは部屋を暖めて、かまどに火を入れよう!」
***
真昼は薪入れの籠から、しっかり乾燥させたナラの太薪を取り出すと、鍛冶師バルトが心血を注いで改修してくれた『石造り二連かまど』の火床へと組み入れた。
焚き付けの小枝に火を点じ、フイゴで風を送り込む。
――ボッ、パチパチパチッ……!
乾いた薪が小気味よい音を立てて爆ぜ、紅蓮の炎が勢いよく立ち上がった。
吸気弁を調整すると、ゴオオオッという力強いドラフト音が煙突へと抜け、熱気が黒鉄の天板を通じて部屋全体へと波状に広がっていく。
さらに暖炉にも火を熾すと、凍てついていた山小屋の空気は、あっという間に春の小春日和のような優しいぬくもりへと塗り替えられていった。霜に覆われていた窓ガラスが水滴となって流れ落ち、透明な外の雪景色がくっきりと浮かび上がる。
「……ふぅ、あったかい。バルトさんのかまどは、本当に頼りになるなぁ」
寒さで強張っていた身体がじんわりと解けていくのを感じながら、真昼は深紅のマントを丁寧に脱いで長押へと掛け、袖口にゴムの入った純白の割烹着を着けた。
初雪の朝。
森の木々が白銀に閉ざされ、厳しい冬が幕を開けた記念すべき今日という日――。
真昼には、数日前から心に決めていた、特別なご馳走の構想があった。
「冬の始まりのお祝いには……やっぱり、これしかないよね!」
真昼は奥納戸の押し入れゲートを往復し、現代の古民家の冷蔵庫から、厳重に保冷バッグに収めておいた食材の数々を運び込んできた。
木製の調理台の上に、どっさりと並べられる黒塗りのトレイと竹籠。
その中でも、ひときわ圧倒的な存在感を放っていたのは――竹皮の包みだった。
真昼が前日、町で一番の老舗精肉店に足を運び、カフェ『野良時計』のハーブ契約金で潤った手元の資金から、文字通り「清水の舞台から飛び降りる」覚悟で奮発して買い求めてきた、最高級の逸品。
真昼は息を潜めながら、竹皮の紐を解いた。
――ファサリ。
「……っ……いつ見ても、息を呑むほど綺麗……」
竹皮の中から姿を現したのは、極上の『国産黒毛和牛・霜降り肩ロース肉』の特大スライスだった。
鮮やかな小豆色の赤身の隅々にまで、まるで熟練の職人が織り上げたレース編みのように、繊細極まりない純白のサシ(脂肪)が均一に張り巡らされている。
大判に薄切りされたその肉は、室温のわずかな温もりに触れただけで、表面のサシがしっとりと透明な脂の汗をかき始めていた。人肌の温度で融解する、最高品質の和牛の証拠だ。
赤と白の鮮やかなコントラストは、まるで外の白銀の世界と、室内の暖炉の炎をそのまま写し取ったかのように美しい。
「このお肉に合わせる具材たちも、最高のものを選ばなきゃ!」
真昼の手の中で、燕三条製の三徳包丁が軽やかに音を立て始めた。
まずは、冬のすき焼きに絶対に欠かせない野菜の王様――『下仁田ネギ』。
青果店で見つけたそのネギは、真昼の手首ほどもある極太の白根を持ち、見るからに身が詰まってずっしりと重い。
斜めに薄切りにしては台無しになる。下仁田ネギの真価は、加熱によって内側の繊維がとろとろのクリーム状に溶け出し、極上の甘みを生み出すことにあるのだ。真昼は三センチ幅の、堂々たるぶつ切りにしていく。
トントン、トントンと小気味よい音が響くたび、ネギ特有の瑞々しくツンとした香気が立ち上る。
続いて、木綿豆腐の表面を直火で香ばしく炙った『焼き豆腐』。一口大の角切りにし、キッチンペーパーで軽く水気を切っておく。崩れにくく、すき焼きの濃厚な煮汁を芯まで吸い込む名脇役だ。
板状の『しらたき』は、沸騰したお湯で二分ほど下茹でして独特のアクと臭みを完全に抜き去り、食べやすい長さにざく切りにする。
そして、森の恵み。少年ルッツが届けてくれた野生の『肉厚椎茸』は、軸を落として傘の上に十文字の飾り包丁を入れ、独特の大地の薫香を漂わせている。
最後に、鮮烈な青みと独特のほろ苦さで濃厚な肉の脂を受け止める、濃緑色の瑞々しい『春菊』。根元を切り落とし、たっぷりの冷水で洗ってシャキッとさせておく。
大皿の上に、主役の霜降り肉を取り囲むようにして、下仁田ネギ、焼き豆腐、しらたき、椎茸、春菊が彩り豊かに盛り付けられていく。
赤、白、緑、茶。
目にも鮮やかなご馳走のパレットが完成した。
「調味料は……関東風の割り下じゃなくて、今日はお肉を焼きながら絡める、本場・関西風でいこう!」
真昼が用意したのは、現代の伝統的な調味料たち。
本醸造の濃口醤油、純米本みりん、純米酒。
そして何よりも重要な心臓部――キラキラと黄金色の角砂糖のように光る、大粒の『ざらめ糖(中双糖)』だった。
白砂糖とは異なり、カラメルのコクと素朴で力強い甘みを持つざらめ糖は、熱い鉄鍋の中で肉と直接触れ合うことで香ばしく焦げ付き、極上のテリと奥深いコクを生み出すのだ。
***
――ザッ、ザッ、ザッ……。
――ザシュッ、サクサクッ!
その時、ログハウスの外から、雪を踏みしめる賑やかな足音と、金属が擦れ合う音が近づいてきた。
「おいヨハン! 腰が入ってねえぞ、もっと雪を脇に跳ね上げろ!」
「わ、分かってますよバルトさん! でもこの森の雪、宿舎の周りの雪より重たいんすよぉぉっ!」
「弱音を吐くな、ヨハン。真昼様の小屋の玄関前を塞ぐわけにはいかん。手袋に力を込めろ」
「オズヴァルト殿、帳面を抱えてないで貴殿もスコップを持ったらどうです?」
「言われずともやっていますよ、クラウス殿。……寒さで書類を書く指が悴んで敵わんのでね、身体を動かして血行を促進しているのです」
「あはは! みんな雪だるまみたいになってるー!」
広場から響いてくる、頼もしくも微笑ましい男たちの声。
ジークフリートを筆頭に、クラウス、バルト、ヨハン、オズヴァルト、そして薬草採りの少年ルッツまで、騎士団と領の男たちが総出で、山小屋の周囲とウッドデッキの雪かきをしてくれていたのだ。
重厚なナラのウッドデッキから雪が綺麗に掻き出され、カツン、カツンと乾いた足音が階段を上ってくる。
「……よし、今だ!」
真昼は二連かまどの左側の火床に薪をくべ、火力を一気に強火へと引き上げた。
黒鉄の天板の上に据え付けたのは、鍛冶師バルトが「肉を焼くならこれを使え」と以前打ってくれた、底の厚い重厚な『黒鉄のすき焼き鍋』だった。
鍋肌がカンカンに熱せられ、白い煙がうっすらと立ち上った瞬間――。
真昼はトングで、純白の『牛脂』の塊を摘み、鍋底へ滑り込ませた。
――ジュワァァァァッッ……!
耳朶を打つ心地よい音とともに、牛脂が熱い鉄肌の上を滑り、透明な上質な油の膜を広げていく。和牛特有の、甘く香ばしい乳脂肪の薫香が立ち上る。
そこへ、まずはぶつ切りの下仁田ネギを投入!
――パチパチッ! ジュウウゥゥッ!
転がすようにして、ネギの白い断面に焼き目をつけていく。
表面がこんがりとキツネ色に焦げ、ネギの糖分がカラメル化して甘い香りが爆発したところで、鍋の端へと寄せる。
そして――。
「本日の主役、投入!」
真昼は菜箸で、大判の黒毛和牛霜降り肩ロース肉を二枚、持ち上げた。
手のひらよりも大きな極上肉が、熱い鉄鍋の底面を覆い尽くすようにして広げ入れられる。
――ジャァァァァァァァッッッッッ!!
瞬間、耳を劈くほどの激しい焼き音とともに、純白の分厚い蒸気が天に向かって立ち上った。
和牛のサシが一瞬にして溶け出し、赤身がキュッと縮んで香ばしい肉油が溢れ出す。
ここからが、関西風の神髄。
真昼は肉を裏返す前に、指先に取った黄金色の『ざらめ糖』を、ジュウジュウと音を立てる肉の表面の上へと、惜しげもなくパラパラと直接振りかけた!
熱でざらめ糖が瞬時に溶け、肉の脂と混ざり合って泡立つ。
そこへ――!
濃口醤油と純米酒、本みりんを、鍋肌から一気に回し入れた!
――バチバチバチッ! ジュワァァァァァァァッッッ!!
爆発。
まさに、香りの大爆発だった。
高温の鉄肌に触れた濃口醤油が激しく焦げ、みりんの糖分と酒の芳醇なアルコールが気化し、ざらめ糖のカラメル香と、和牛の濃厚な脂の薫煙がひとつに混ざり合って、濛々たる甘辛い煙となってログハウス中を満たしていったのだ。
ただ匂いを嗅いだだけで、頭の奥がクラクラと痺れ、胃袋が狂乱の雄叫びを上げるような、抗いがたい本能の薫香。
煙突のドラフトが吸い込みきれなかったその暴力的なまでの香気は、開け放たれた換気窓から、冷たい雪の森の広場へと一気に解き放たれた。
***
「――っ!? な、何だこの匂いは……!?」
ウッドデッキで最後の雪をスコップで放り投げていた副官クラウスの手が、ピタリと止まった。
風に乗って漂ってきたのは、これまで真昼が作ってきたどんな料理とも違う、圧倒的な質量を持った『肉と醤油の焦げる匂い』だった。
「……ぐ、ぐああああっ! なんだこの暴力的な匂いは! 胃袋が破裂しそうだ!」
新米騎士ヨハンがスコップを取り落としそうになりながら、両手で激しく鳴り響く自分の腹を抱え込んだ。
バルトが太い鼻の穴を大きく広げて荒い息を吸い込み、オズヴァルトの眼鏡が湯気のような熱気で曇る。
そして、先頭に立っていたジークフリートの青氷の瞳が、カッと見開かれた。
全員の視線が、山小屋の木の扉へと一点集中する。
――バタンッ!!
雪かき用の手袋を外す間も惜しむようにして、男たちが転がり込むように山小屋の中へとなだれ込んできた。
冷気をまとった彼らを迎え入れたのは、春のような室内の暖かさと――そして、調理台の黒鉄の鍋から濛々と立ち上る、甘辛い極上の薫煙だった。
「「「う、おおおおおおおおっ……!?」」」
男たちの足が、完全にその場に縫い止められた。
全員が息を呑み、言葉を失い、喉を激しく上下させて唾を飲み込む。
黒鉄のすき焼き鍋の中で繰り広げられていたのは――まさに、冬の味覚の奇跡だった。
甘辛い醤油とざらめ糖のタレを纏い、琥珀色の照りを放ちながらふっくらと焼き固められた大判の霜降り和牛肉。
その横には、牛の脂とタレを吸って飴色に染まり始めた、香ばしい焼き目の下仁田ネギ。
真昼が手際よく空いたスペースへと、焼き豆腐、下茹でしたしらたき、肉厚の椎茸を滑り込ませていく。
肉から溢れ出た極上の肉汁と、ネギの甘み、椎茸のエキスが混ざり合い、鍋の底で琥珀色の煮汁がフツフツと泡を立てていた。
仕上げに、鮮やかな濃緑色の春菊がどっさりと投入される。
――グツグツ……ジュワァァッ……。
琥珀色の煮汁の海の中で、純白のネギ、黄金色の豆腐、艶やかな肉、そして鮮烈な緑の春菊が、熱い泡をまとって踊っている。
割り下でただ煮込むのではなく、肉を焼きつけ、出汁を使わずに素材自身の水分と調味料だけで煮含めていく本場関西風のすき焼き。
立ち上る湯気は、醤油とみりんの甘辛い香りを伴って、外の雪の冷たさを完全に忘れさせるほどの熱気で部屋中を制圧していた。
「……す、すげぇ……」
ヨハンの口から、魂の抜けたような呻きが漏れた。
「なんだあの肉……見たこともねえサシが入ってて、鍋の中でピカピカに光ってるっす……! 甘辛いタレの匂いが……匂いだけで、意識が飛びそうっすよ……!」
「……見事な火加減だ」
バルトがごくりと喉を鳴らし、拳を握りしめた。
「鉄鍋の厚みと、かまどの熾火の熱を完璧に使いこなしてやがる。肉の脂が焦げつかず、タレと一体になって野菜に染み込んでいくのが目に見えるようだぜ……! こんなもん目の前に出されて、待てって言われるのは拷問だぞ!」
「……ええ。理性が麻痺しそうです」
オズヴァルトが眼鏡を押し上げながら、珍しく呼吸を荒げている。
「甘みと醤油の調和、そして牛肉の脂が放つ重厚な芳香……。過酷な冬の始まりに、これほど生命力を直撃する料理があるでしょうか。……財務官の権限で、即座に実食を命じたいところですね」
「オズヴァルト殿、落ち着きなさい! 団長の前ですよ!」
クラウスが窘めようとするが、そのクラウス自身も、鍋の底で煮立つ下仁田ネギと肉の艶に目を奪われ、唾液を飲み下す音が止まらない。
少年ルッツは目をキラキラと輝かせ、鍋の縁から立ち上る湯気を浴びて「すっごくいい匂い! 甘くて、お肉がふわふわしてる!」と歓声を上げている。
そして――ジークフリートだった。
彼は雪の払われたマントを脱ぎ、ゆっくりと調理台の前へと歩み寄った。
青氷の瞳が、琥珀色に泡立つ黒鉄の鍋を、そして白い割烹着姿で菜箸を握る真昼の横顔を、熱い眼差しで見つめている。
寒風の中で雪かきを終え、冷え切っていたはずの彼の身体の奥底から、ドクンと力強い熱が湧き上がってくるのが分かった。
「……真昼」
低く、震えるような声音。
「……この寒風の中、私たちのために、これほどのものを……」
「ふふ、みなさん雪かきお疲れ様でした!」
真昼は満面の、太陽のような笑顔で振り返った。
額にうっすらと心地よい汗を光らせ、湯気の向こうで微笑むその姿は、凍てつく冬の森にあって、唯一絶対の温もりの灯火だった。
「初雪のお祝いです! 外はすごく寒かったでしょう? ……今日はね、この極上の霜降りお肉とお野菜を、熱々のままお腹いっぱい食べてもらいますからね!」




