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第52話:箪笥の奥の古銀貨と、二代にわたる朝餉の記憶

ジークフリートから深紅の防寒マントを受け取った日の夜。

木枯らしの吹き荒れる森の小屋から押し入れゲートをくぐり、現代の古民家へと戻ってきた真昼は、居間の長押(なげし)に丁寧に掛けられたそのマントを、吸い寄せられるように見つめていた。

薄暗い畳の部屋の中にあってなお、純白の雪狼の毛皮を裏打ちされた深紅の布地は、まるでそれ自体が温かな熱を帯びているかのように静かに息づいている。首元の留め具に嵌め込まれた青い魔鉱石が、振り子時計の刻むリズムに合わせて淡い光を弾いていた。

指先でそっと触れると、朝のあの瞬間――ジークフリートが真昼の肩を包み込み、「私に、あなたを守らせてほしい」と告げた時の、彼の熱い体温と低い声音が、鮮やかに蘇ってくる。


「……ジークさん」


ぽつりと呟いた真昼の頬が、夜の静けさの中でじんわりと赤く染まる。

騎士団長としての全財産を投じ、生涯の誓いとして贈られた至宝。

都会で激務に追われ、誰からも必要とされていないと思い詰めていたかつての自分に、もし「未来のあなたは、異世界の騎士から命がけで愛されているよ」と伝えたとしても、きっと信じなかっただろう。

あの絶望の底から自分を掬い上げてくれたのは、間違いなく、亡き祖母タエが遺してくれたこの古民家と、押し入れの向こうへと続く不思議な扉だった。


「……おばあちゃん」


真昼はそっと息を吸い込み、畳の上に端座した。

縁側から差し込む青白い月明かりを浴びながら、彼女は居間の隣にある仏間へと静かに足を踏み入れた。

黒漆塗りの小さく年季の入った仏壇。

半年前に他界した祖母タエの遺影が、白黒の写真の中で、生前と変わらぬ穏やかで優しい笑みを浮かべて真昼を見守っている。

真昼は仏壇の前に正座し、線香に火を灯した。

立ち上る細い白煙と、白檀の清らかな香りが、部屋の空気を静かに清めていく。

チーン、と小さな音を鳴らして両手を合わせ、心の中で静かに語りかけた。


(おばあちゃん。私、なんとかやってるよ。……都会から逃げてきた時は死にそうだったけれど、カフェの聡美さんのおかげでお金もちゃんと稼げるようになって、古民家の屋根の修理代も払えたよ。……それにね、あの押し入れの向こうで……すごく不器用で、でも世界一優しい人たちに出会えたんだ)


目を閉じると、白エプロンを着けて真剣に薪を割るジークフリートの姿や、出汁巻き卵を頬張って目を丸くするクラウス、豪快に笑うバルトの顔が、走馬灯のように次々と浮かんできた。

タエが若かりし頃、同じようにあの森の小屋に通い、白い神獣と味噌汁を分かち合っていたという事実を第34話で知って以来、真昼にとってこの古民家は、ただの遺産ではなく、祖母との魂の絆が息づく聖域となっていた。


「……そういえば、仏壇の下の引き出し、まだちゃんと見てなかったな」


手を合わせた後、真昼の視線は、仏壇の台座の最下部にある小さな横長引き出しへと注がれた。

タエが生前、古い数珠や経本、先祖の過去帳などを几帳面にしまっていた場所だ。

整理は一通り済ませたつもりだったが、奥の方に何か残っていないだろうか。

真昼は引き出しの真鍮の丸環に指をかけ、手前へと引いた。

――スゥッ、と木が滑る乾いた音。

中には、使い込まれた紫檀の数珠と、経年で飴色に変色した線香箱が収められていた。それらをそっと取り出し、引き出しの奥へと指先を滑らせてみる。

指先が、奥の桐の側板のさらに向こう側――隙間に隠れるようにして押し込まれていた、手のひら大の「小さな桐箱」に触れた。


「……ん? 何かしら、これ……」


埃を被った小さな桐箱。

真昼が慎重に引き出してみると、箱の蓋には墨文字で何か書かれていた形跡があったが、長い歳月の摩擦によって文字はかすれ、判読することはできなかった。

蓋に手をかけ、ゆっくりと持ち上げる。

中に入っていたのは、四つ折りに畳まれ、経年によって淡い琥珀色へと黄ばんだ、一枚の厚手の半紙だった。

半紙は丁寧に折りたたまれ、まるで壊れ物を守るようにして、中央にふっくらとした厚みを持たせて包まれていた。


「……重い?」


半紙の包みを持ち上げた瞬間、真昼の眉がピクリと動いた。

紙の軽さからは到底信じられないほどの、ずっしりとした金属の重みが手のひらに伝わってきたのだ。

真昼は息を呑み、畳の上に膝をつき直すと、慎重に半紙の折り目をひとつずつ開いていった。


――サワ……リ。


包みが完全に開かれた瞬間、仏間の薄暗がりの中に、キラリと鈍い、重厚な銀色の光彩が放たれた。


「……………………っ!?」


真昼の喉から、声にならない息が漏れた。

半紙の中央に、重なり合うようにして鎮座していたのは――三枚の、見たこともない大きな『銀貨』だった。


現代の日本の硬貨ではない。

江戸時代の寛永通宝や一分銀のような、日本の古銭でも断じてなかった。

直径は五センチ近くあり、現代の五百円玉の倍近い厚みを持っている。

純度の極めて高い本物の銀で作られているらしく、経年による微かな黒ずみはあるものの、表面を撫でるとひんやりとしていて、手首にズシリと沈み込むような圧倒的な質量感があった。

そして何よりも――その表面に施された彫刻の意匠だった。


「……これ……草木の紋様……?」


真昼は銀貨の一枚を指先で持ち上げ、月明かりにかざした。

銀貨の縁には、古代のツル植物が幾重にも複雑に絡み合う流麗なレリーフが刻まれ、その中央には――大樹を思わせる神聖な巨木と、その根元で天を仰ぐ『一頭の獣の横顔』が、驚くほど精緻な職人技で打ち出されていたのだ。

日本の貨幣史のどこを探しても、こんな意匠が存在するはずがない。

それは――間違いなく。

押し入れの向こう側、あの広大なシルヴァの森が属する『異世界』で、大昔に鋳造された本物の古代通貨だった。


震える手で半紙の包みの底を見ると、銀貨の下に、もう一枚の小さな和紙の切れ端が折り込まれていた。

そこには、万年筆の青いインクで、見慣れた祖母タエの、凛とした達筆な文字が記されていた。


『森の主が、朝餉のお礼にと置いていってくれた銀貨。

私は使い道が分からず仕舞い込んだけれど、もし後の世にあの扉を開ける者がいたなら、迷わず自分の幸せのために使いなさい』


「おばあちゃん……」


真昼の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

祖母タエの文字。

半世紀前、若き日のタエが押し入れを抜け、あの森の小屋で出会った『森の主』――傷ついて倒れていた神獣に、温かい味噌汁と握り飯を差し出したあの日。

その朝餉の返礼として、森の主がそっと小屋の床に置いていってくれた、感謝の証。

タエはそれを現代の換金所や古物商に持ち込むことなど決してせず、異世界からの尊い贈り物として、誰にも知られぬよう、この仏壇の奥底で大切に守り続けていたのだ。

そして――いつか自分と同じように、心の拠り所を求めてあの押し入れの扉を開くであろう、未来の誰かのために。

『迷わず自分の幸せのために使いなさい』という、溢れんばかりの祈りを込めて。


「ベルに見せなきゃ……!」


真昼は三枚の銀貨と祖母のメモを両手でしっかりと包み込むと、立ち上がり、奥納戸の押し入れゲートへと急いだ。


***


押し入れの襖を開けると、夜露を含んだ冷たい針葉樹の香りと、満天の星々を湛えた異世界の藍色の空が広がっていた。

ログハウスのテラスに出ると、初秋の夜風がひんやりと真昼の頬を撫でる。

室内に入り、暖炉の熾火(おきび)に薪を一本くべると、パチパチと温かなオレンジ色の炎が立ち上がり、丸太の壁を照らし出した。


「わふっ?」


奥の寝床から、純白の毛玉――神獣ベルがトコトコと歩み寄ってきた。

真昼が夜更けに再びやってきたことを不思議そうに思いながら、ベルは真昼の足元でお座りし、瑠璃色の瞳を瞬かせる。

真昼は暖炉の前の床に膝をつき、手のひらをそっと開いた。

暖炉の火明かりを浴びて、鈍く輝く三枚の大きな銀貨。

そして、祖母のメモ。


「ベル……これ、見てくれる?」


真昼が囁くように声をかけると、ベルの視線が、手のひらの上の銀貨へと注がれた。

その瞬間――。


「……………………ッ」


ベルの身体が、ピクリと小さく跳ね上がった。

瑠璃色の瞳が、驚愕と、信じられないものを見るような激しい揺らぎに大きく見開かれる。

ベルはそろり、そろりと、まるで壊れやすい硝子細工に触れるかのような慎重な足取りで、真昼の手のひらへと顔を近づけた。

湿った小さな黒い鼻先を、銀貨の表面へとぴたりと寄せる。


ふん……ふん……。


何度も、何度も、息を吸い込むようにして匂いを確かめるベル。

半世紀の歳月が流れ、タエの暮らした古民家の樟脳(しょうのう)の匂いが微かに移っていながらも――そこには確かに染み付いていた。

かつてタエが引いた出汁の香り。

彼女の手の温もり。

そして――神話の時代、この森を統べる神獣自身が、かつてその身に纏っていた古の神気の残滓。


「……くぅ……ぅ……ん……」


ベルの喉の奥から、今までに聞いたこともないほど甘やかで、どこか寂しげな、けれど心底慈しむような鳴き声が漏れ出た。

ベルは銀貨の冷たい金属の肌に、自らの純白の頬をそっと押し当てた。

スリスリと、愛おしそうに頬を擦り寄せる。

その瞳の端から、暖炉の光を反射してキラリと輝く、小さな雫が零れ落ちた。


「ベル……やっぱり、これ……あなたが、おばあちゃんにあげたものだったのね」


真昼の声が震えていた。

ベルは真昼の手のひらに額を預け、長い睫毛を伏せながら、静かに喉を「ゴロゴロ……」と鳴らした。

言葉は通じなくとも、神獣の全身から伝わってくる感情が、真昼の胸を激しく揺さぶる。

タエがこの森を訪れていたあの日々。

傷ついていた獣と、都会の荒波に傷ついていたひとりの女性。

ふたりは言葉を交わすことはできずとも、一杯の温かい味噌汁と、ひとつの握り飯を通じて、確かに魂を通わせ合っていたのだ。

そしてタエが去り、長い年月が流れたあとも――ベルはずっと、この静かな森の小屋で、あの温かな朝餉の記憶を抱きしめながら、再び扉が開く日を待ち続けてくれていた。


(おばあちゃんも……私と同じだったんだ)


真昼の目元から、大粒の涙がぽろりとこぼれ落ち、銀貨の表面を濡らした。

誰にも頼れず、人生の重圧に押し潰されそうになりながら、逃げるように辿り着いたこの場所。

そこで自分を救ってくれたのは、祖母がかつて遺してくれた出汁の引き方であり、温かいご飯を作ることの喜びだった。

祖母タエから、神獣ベルへ。

そしてベルから、真昼へ。

さらに真昼から、ジークフリートや仲間たちへ――。

ふたつの世界を跨ぎ、時代を越えて、あたたかな食卓の温もりは、途切れることのない一本の光の糸となって受け継がれていたのだ。


「おばあちゃん、ありがとう……」


真昼は銀貨を胸にぎゅっと抱きしめ、天を仰いだ。


「私ね、この銀貨は使わないよ。……これは、おばあちゃんとベルが紡いでくれた、世界で一番大切な宝物だから。……ずっとずっと、大切にお守りにして持っておくね」


ベルが真昼の顔を見上げ、「わふっ」と優しく鼻を鳴らした。

真昼は涙を拭い、立ち上がった。

胸の奥底に満ちていたのは、哀愁ではなく、明日へと向かうための、力強く澄み切った決意だった。


「よし……! おばあちゃんへの感謝を込めて、今夜は……おばあちゃんが一番得意だった、あのご飯を作ろう!」


***


夜更けのログハウスのキッチン。

バルトが造ってくれた二連かまどの火床に、ナラの薪が静かに赤々と燃え盛っていた。

真昼が選んだ今夜の献立は、祖母タエが生前、真昼が風邪を引いた時や元気を失っていた時に、決まって作ってくれたあの味――『鶏肉と里芋のこっくり照り煮』。

そして、疲れた胃腸をどこまでも優しく包み込む『土鍋の白粥』と、祖母の形見である『五年熟成の自家製梅干し』だった。


「まずは、里芋の下拵えから……!」


真昼が作業台に並べたのは、現代の八百屋で仕入れてきた、泥のついた新鮮な『里芋』だった。

里芋の料理は、下処理の手間を惜しんでは決して美味しくならない。祖母タエが口を酸っぱくして教えてくれた教えだ。

泥を綺麗に洗い流し、しっかりと乾かしてから、燕三条の包丁で上下のヘタを切り落とし、六角形になるように縦に皮を厚めに剥いていく。

ボウルに剥いた里芋を入れ、たっぷりの粗塩を振る。

両手で、揉み込むようにして力強く塩揉みをする。

――ジャリッ、ネチャッ……。

塩の粒子が表面の余分なぬめりを吸い出し、泡立ってくるまでしっかりと揉み上げる。

水で一気に塩とぬめりを洗い流し、ザルに上げる。

さらに、米のとぎ汁を張った鍋で、五分ほど下茹でをする。

この徹底したぬめり取りこそが、煮汁が濁るのを防ぎ、後から加える醤油と出汁の旨味を、里芋の中心までスポンジのように吸い込ませる絶対の秘訣なのだ。下茹でを終えた里芋は、透き通るような美しい乳白色に輝いていた。


続いて、鶏肉の下拵え。

脂ののった国産の『鶏もも肉』を、里芋と同じくらいの大きめの一口大に切り分ける。

肉厚の深型フライパンを強火で熱し、少量の菜種油を引く。

皮目を下にして鶏肉を並べる。

――ジュワァァァッッ!

香ばしい焼き音とともに、鶏の脂がパチパチと弾ける。

完全に火を通す必要はない。皮目にこんがりとキツネ色の焼き目がつき、余分な脂が滲み出たところで、キッチンペーパーで油をサッと拭き取る。この焼き目こそが、煮汁全体に香ばしいコクを与えるのだ。


「かまどの火で、じっくり煮含めていくよ」


二連かまどの左側の火床に、深底の煮込み鍋を据える。

鍋の中に、焼き目をつけた鶏肉と、下茹でを終えた里芋を敷き詰める。

注ぎ入れるのは、利尻昆布と本枯節の濃厚な一番出汁を四百ミリリットル。

そこへ、純米酒大さじ三、きび砂糖大さじ二、本みりん大さじ二。

落とし蓋をして、まずは砂糖とみりんの甘みを、里芋の細胞の奥深くまで浸透させる。塩分を先に入れてしまうと、浸透圧で素材が硬くなり、甘みが中まで入らなくなってしまうからだ。

弱火でコトコトと煮ること十分。

甘い蒸気が立ち上ったところで、仕上げの濃口醤油大さじ三を回し入れる!


――ジュワッ……ボコッ、ボコッ……。


醤油が入った瞬間、台所の空気が劇的に変化した。

醤油の焦がし香気と、鶏肉の脂、そして里芋の大地の匂いが混ざり合い、鼻腔をくすぐる濃厚な甘辛い薫香が立ち上る。

ここからが、祖母タエ直伝の『こっくり照り煮』の神髄だった。

煮汁が半分ほどに減ったところで落とし蓋を外し、火力を少し強める。

鍋を両手で持ち、手首のスナップを利かせて、具材をくるくると転がすように鍋を揺する。

煮汁の水分が飛び、醤油とみりんの糖分が煮詰まって、大粒の泡がフツフツと立ち上がる。

照り、輝く。

里芋の表面に、琥珀色のとろりとしたタレが幾重にもコーティングされ、まるで磨き上げられた鼈甲(べっこう)のように艶やかな光沢を放ち始めた。


「……完璧な照り!」


火から下ろし、余熱で味を含ませる。冷めていく過程で、濃厚な煮汁が里芋の芯の芯までギュッと染み込んでいくのだ。


***


「隣の火床で、白粥を炊こう」


右側の火床には、小ぶりの萬古焼の土鍋。

研いであらかじめ吸水させておいた新米半合に対し、ジークフリートが汲んでくれた精霊の湧き水を七倍量。

強火で一気に沸騰させ、底から優しくひと混ぜしたら、極弱火にして蓋をずらし、二十五分間。

決してかき混ぜず、米粒自身の対流に任せて炊き上げる。

土鍋の中で、米粒の一粒一粒が花開くようにふわりと膨らみ、透明感のあるとろりとした重湯をまとっていく。

炊き上がった土鍋の蓋を開けると、純白の湯気とともに、混じり気のないお米本来の清らかな甘い香りが、夜の小屋を満たした。


真昼は深めの萩焼の平鉢に、ふっくらとした熱々の白粥をよそった。

その純白の丘の中央へ、陶器の壺から取り出した、祖母タエの遺品である『五年熟成の紀州南高梅』をひと粒、そっと乗せる。

真紅の梅干しが、白い粥の上で一輪の花のように咲き誇る。

そして、織部焼の深皿には、照り照りに輝く鶏肉と里芋の照り煮を盛り付け、仕上げに茹でたサヤエンドウの鮮やかな緑を添えた。


「おばあちゃん、いただきます」


真昼は手を合わせ、暖炉の前の丸太テーブルへと料理を運んだ。


***


テーブルの上には、夜風に揺れるランタンの明かり。

そして、その中央に置かれた、三枚の古い異世界銀貨と、祖母タエのメモ。

湯気をもうもうと立ち上らせる白粥と、琥珀色に照り輝く照り煮が、ふたつの世界の歴史を繋ぐように寄り添っていた。


真昼はまず、木のスプーンを手に取り、熱々の白粥をすくった。

ふわりと息を吹きかけ、一口含む。


――ハフッ、トロン……。


「……………………っ」


真昼の喉仏が、静かに動いた。

味付けなど、何ひとつない。

出汁すら使わず、米と湧き水だけで炊き上げられた、純粋無垢な白粥。

それなのに――何という奥深い甘みか。

とろりとした重湯が舌を優しく包み込み、噛むまでもなく喉を滑り落ちていく。

すかさず、スプーンの先で中央の南高梅の果肉を少しだけ崩し、米と一緒に口へ運ぶ。

――ジュワッ……。

五年熟成された梅干しの、角の取れたまろやかな酸味と紫蘇の芳醇な薫香が口いっぱいに広がり、疲れた胃袋の奥底に、じんわりと温かな火が灯る。


続いて、箸を伸ばし、照り煮の里芋へと箸先を沈めた。

――スゥッ……。

力を入れる必要など、微塵もない。

箸が吸い込まれるように通り、里芋がふたつに割れた。

中まで完全に琥珀色の出汁が染み渡り、湯気とともに立ち上る甘辛い醤油と生姜の香り。

一口分を口の中へと運ぶ。


――ハフッ、ねっとり……ジュワァァッ……!


「……………………っ! あ……っ……」


真昼の目から、自然と涙が溢れ出した。

おばあちゃんの味だ。

幼い頃、熱を出して心細かった夜に、冷たいおでこを撫でながら食べさせてくれた、あの懐かしい味そのものだった。

ねっとりとした里芋の濃厚な舌触り。

噛み締めるたび、下茹でによって開かれた繊維の奥底から、鶏肉のジューシーな脂と、昆布と鰹節の出汁、そして砂糖醤油のコクが、ジュースのように溢れ出してくる。

鶏もも肉をかじれば、香ばしい皮目の焼き目とともに、プリッとした弾力のある肉汁が広がる。

濃厚でこっくりとした照り煮を口にし、淡白で清らかな白粥で包み込む。

これ以上ない、魂を芯から救い上げる完璧な調和。


「美味しい……本当に、美味しいよ、おばあちゃん……」


真昼は涙を手の甲で拭いながら、夢中で箸を動かした。

一口食べるごとに、全身の強張りが解け、身体の底から明日を生きるための力が、泉のように湧き上がってくる。


足元では、真昼から特別に味付け前の出汁でじっくり煮込んだ柔らかい鶏肉をもらったベルが、小皿を前足で抱え込み、ハフハフと美味しそうに喉を鳴らしていた。

食べ終えると、ベルは真昼の足元へと寄り添い、暖炉の火を見つめながら、穏やかな寝息を立て始めた。


***


食事を終え、綺麗に空になった器を前にして、真昼はテーブルの上の三枚の古銀貨を、そっと両手で包み込んだ。

金属の冷たさは、暖炉の熱気と真昼の体温を吸って、いつの間にか人肌のようにあたたかくなっていた。


窓の外を見上げれば、夜空には満天の星々が瞬き、初秋の木枯らしが森の木々を優しく揺らしている。

明日もまた、朝の五時になれば押し入れの襖が開き、ここには白エプロンを着けたジークフリートがやってくる。

甘党のクラウスがスコーンを求めて駆け込み、バルトがかまどの火を自慢し、ヨハンが大盛りのご飯に歓声を上げるだろう。

祖母タエがこの森で見出し、守り、そして自分へと託してくれた、かけがえのない食卓の温もり。


「おばあちゃん、見ててね」


真昼は銀貨を胸に当て、夜空の向こうの祖母の笑顔へと語りかけた。


「私、もう迷わないよ。……ここで出会えた大切な人たちと一緒に、前を向いて生きていくから。……誰が何と言おうと、この場所を守り抜いて、ずっとずっと、温かいご飯を作り続けるからね」


夜風がふわりと吹き抜け、ログハウスの煙突を揺らした。

その音は、まるで「ええ、よく言ったね、真昼」と、天国のタエが優しく微笑んで背中を押してくれたかのようだった。


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