第46話:野良時計からの吉報と、軽やかな通帳
異世界の森の小屋で、ジークフリートたちが王都の査察使エドガー子爵を完全に退け、朝の平穏を取り戻した日の午後。
真昼は、ピカピカに磨き上げられたナラのウッドデッキに佇み、初秋の澄み渡る青空を仰いでいた。
足元では、純白の神獣ベルが満足そうに目を細め、真昼のふくらはぎにスリスリと柔らかな頬を擦り寄せて甘えている。
名門貴族の権力闘争、政略結婚の強要、そして森への不法侵入――重苦しく垂れ込めていた暗雲は、仲間たちの見事な連携と、ジークフリートの揺るぎない覚悟によって、一片の残滓もなく吹き払われた。
あの不器用で真っ直ぐな騎士団長は、自らの地位や王都の栄華を潔く投げ捨て、「この場所で、真昼の朝食を守り抜く」と誓ってくれたのだ。
「……ふふ。ジークさん、明日の朝は大根の桂剥きを練習するって張り切ってたっけ」
ふと思い出してクスリと笑う。
あの威厳ある白銀の騎士団長が、明朝には再び糊のきいた真っ白なリネンエプロンを着けて、真剣な眼差しで包丁を構えるのだ。想像するだけで、胸の奥がじんわりと温かい幸福感で満たされていく。
真昼はベルの頭を優しく撫でると、奥納戸の押し入れゲートへ向かった。
「ベル、ちょっと現代の方でお買い物と用事を済ませてくるね。夕方には戻るから、お留守番お願いね」
「わふっ!」
ベルが元気よく短い尻尾を振り、真昼を見送る。
首から提げた真鍮の鍵にそっと手を添え、押し入れの襖を開けてくぐる。
――スゥッ、と空気が切り替わる。
針葉樹の清冽な冷気から、懐かしい土壁とい草の畳が放つ、穏やかな日本の古民家の匂いへ。
襖を静かに閉め、奥納戸から居間へと足を踏み入れた真昼は、机の上に置いてあった私物のスマートフォンを手に取った。
画面をタップしてスリープを解除した瞬間、着信を知らせるバイブレーションが小刻みに震えた。
画面には、緑色のメッセージアプリの通知が何件も並んでいる。
送り主は――古民家カフェ『野良時計』の店主であり、真昼の頼れる先輩、水野聡美だった。
『真昼ちゃん! 大至急、お店に来られる!?』
『緊急! 信じられないことが起きたの! 電話がつながらないから直接来て!』
『お願い、絶対今日中に来て! 腰抜かす準備しといてね!!』
「えっ……!? さ、聡美さん……!? 緊急って、一体なに……!?」
画面に並ぶ感嘆符の嵐に、真昼は思わず息を呑んだ。
サバサバとしていて、どんなトラブルにも動じないあの聡美が、これほど取り乱して連絡してくるなど前代未聞だった。
まさか、納品したルミナスベリーのジャムや乾燥ハーブに何か問題でもあったのだろうか。
不安で心臓がトクンと跳ね上がる。真昼は慌ててエプロンを脱ぎ捨て、薄手のカーディガンを羽織ると、軽トラックのキーを掴んで玄関を飛び出した。
***
初秋の爽やかな風が、山あいの田園地帯を黄金色に波打たせていた。
軽トラックを走らせること約十分。
木立に囲まれた静かな小道沿いに、風情ある黒い杉板張りの建物が見えてくる。
築百年を超える古民家をセンス良くリノベーションした、地元でも人気のオーガニックカフェ『野良時計』だ。
駐車場に軽トラを滑り込ませ、エンジンを止める。
真昼は足早に砂利道を踏みしめ、重厚なガラス入りの引き戸を開けた。
カラン、コロン――と、真鍮のドアベルが澄んだ音を立てる。
「聡美さん! メッセージ見ました、何かあったんですか……!?」
息を切らして店内に飛び込んだ真昼を出迎えたのは、香ばしい焙煎珈琲の薫香と、柱時計の低く落ち着いた振り子の音だった。
ランチタイムを過ぎた店内にお客の姿はなく、柔らかな木漏れ日が無垢材のテーブル席を穏やかに照らしている。
厨房のカウンターの奥から、エプロン姿の長身の女性――水野聡美がひょっこりと顔を出した。
ショートカットの髪を耳にかけ、切れ長の瞳を爛々と輝かせている。その表情は、焦燥というよりも、今にも破裂しそうな興奮に満ち満ちていた。
「来たわね、真昼ちゃん! 待ってたわよ!」
「聡美さん、あの……メッセージ、すっごく慌ててましたけど、ジャムに何か不手際でも……?」
「不手際なわけないでしょ! その逆、天変地異レベルの超・大事件よ! ……まあ、立ち話も何だから、とにかくカウンターに座って! ちょうどお昼ご飯、まだでしょ?」
聡美は有無を言わさず真昼の背中を押し、一枚板のカウンター席へと座らせた。
そして、厨房から手際よくひとつのグラスを運んでくる。
「まずはこれ、飲んで息を整えなさいな」
コトリ、と置かれたのは、表面に霜のような細かな水滴を宿した、背の高いクリスタルグラスだった。
中に注がれていたのは、淡いエメラルドグリーンに澄み渡る、氷の浮かんだ冷たい液体。
グラスの縁には、摘みたての瑞々しいハーブの小枝が添えられている。
「これ……ミントティーですか?」
「そう。真昼ちゃんが先週『山の奥で群生してた』って持ってきてくれた、あの規格外の野生ミントを、うちの乾燥レモングラスと合わせて一晩じっくり水出しした特製アイスハーブティーよ。飲んでみて」
真昼はグラスを両手で持ち上げた。
氷がカランと涼やかな音を立てる。唇を寄せ、静かに一口含む。
「――っ……!」
真昼の瞳が、驚きに見開かれた。
喉を駆け抜けたのは、まるで初秋の高原の風そのものを液体にしたかのような、鮮烈極まりない清涼感だった。
市販のペパーミントのようなツンと鼻を刺す人工的な刺激ではない。
甘やかで、どこか青りんごや白桃を思わせるフルーティーな甘みを奥底に秘めた、異世界の野生ミント特有の高貴な芳香。そこに、レモングラスの爽快なシトラス香が重なり、氷水でキリリと引き締められた冷涼感が、焦っていた真昼の喉と胸の熱を一瞬で洗い流していく。
「……すごく、美味しい……。身体中の細胞が、すうっと目覚めていくみたいです」
「でしょ? この香りの高さ、普通の栽培ミントじゃ絶対にあり得ないのよ。……そして、これもお食べ!」
カウンター越しにトン、と差し出された平皿から、暴力的なまでに食欲をそそるスパイスの薫煙が立ち上った。
「聡美さん特製の……カレーですか?」
「ええ。『ハーブチキンのスパイスドライカレー』よ! 真昼ちゃんのハーブを使って試作を重ねて、ようやく完成したうちの看板メニュー候補!」
白磁の丸皿の中央に盛られていたのは、ターメリックで黄金色に炊き上げられた香り高いライス。
その周囲をぐるりと囲むように敷き詰められているのは、汁気を極限まで飛ばし、粗挽きの鶏肉と香味野菜を十種類以上のスパイスとともに炒め上げた、濃厚なドライカレーだった。
パラリと散らされた刻みハーブの鮮やかな緑が、スパイシーな赤褐色に美しく映えている。
「冷めないうちにどうぞ!」
「いただきます!」
真昼は銀のスプーンを手に取り、ターメリックライスとドライカレーをすくい上げた。
口の中へ放り込む。
――ハフッ、ジュワッ、サクサクッ!
「……………………っ!」
噛み締めた瞬間、口内でおびただしい香りの花火が弾け飛んだ。
まず訪れたのは、クミンとコリアンダーの力強くエキゾチックなスパイスの刺激。
続いて、じっくり炒められた玉ねぎの濃厚な甘みと、粗挽き鶏肉から溢れ出すジューシーな肉汁。
そして――それら濃厚な旨味の奥から、フワリと鮮烈に追いかけてきたのは、真昼が森から持ち込んだ異世界のドライタイムとオレガノが放つ、突き抜けるような清々しいハーブの薫香だった。
スパイスの辛さを、ハーブの野趣あふれる爽快感が完璧に受け止め、油っぽさを一切感じさせない。
噛めば噛むほどに重層的なコクが広がり、スプーンを動かす手が止まらなくなる。
「美味しい……っ! スパイスのパンチがあるのに、ハーブの香りで後味が驚くほど爽やかです!」
「ふふん、大成功ね! 真昼ちゃんの持ってくる素材が良いから、スパイスのブレンドが完璧に決まるのよ」
嬉しそうに頷く聡美。
真昼があっという間にドライカレーを平らげ、冷たい水出しミントティーを飲み干して息をついたところで――聡美の表情が、プロの経営者の真剣なものへと引き締まった。
***
「さて、真昼ちゃん。お腹も落ち着いたところで、本題に入りましょうか」
聡美はカウンターの下から、恭しくひとつの大きな桐の額縁と、今朝配達されたばかりの地元地方紙の朝刊を取り出した。
バサリ、と真昼の目の前に広げられる。
「これを見なさい」
「……え?」
真昼は目を丸くし、新聞の経済面に視線を落とした。
そこには、写真付きで大きく、太い見出しが躍っていた。
『県特産品振興コンクール・加工食品部門 最高賞【県知事賞・最優秀金賞】受賞!』
『地元古民家カフェ「野良時計」開発、幻の野生ベリーと山藍ハーブのブレンドティーが審査員満票の快挙!』
「え……ええええっ!?」
真昼の口から、素っ頓狂な悲鳴が漏れた。
新聞の紙面の中央には、誇らしげに額入りの金賞の賞状を掲げる聡美の写真。
そしてその横には、ガラス瓶に入ったあの深い青紫色のルミナスベリーのドライ果実と、異世界の野生ハーブを美しくブレンドしたティーバッグのパッケージが、大々的に掲載されていたのだ。
「こ、これ……私が森……じゃなくて、裏山で採ってきた、あのベリーとハーブですよね!?」
「そうよ! コンクールに出品してみたら、審査員たちが一口飲んだ瞬間に立ち上がっちゃってね。『こんな澄み切ったマスカットのようなベリーの香気と、雑味のない野生ハーブの調和は見たことがない』って、満票で最優秀金賞をかっさらっちゃったの!」
聡美は身を乗り出し、興奮で頬を紅潮させながら言葉を続けた。
「でもね、真昼ちゃん。本当の事件はここからよ」
「ま、まだ何かあるんですか……!?」
「あるなんてもんじゃないわ! このコンクールの審査会場にね、東京の銀座と日本橋に本店を構える、あの超一流大手百貨店『三越伊勢丹グループ』の統括バイヤーが視察に来てたのよ!」
聡美の口から飛び出した、誰もが知る日本最高峰の百貨店の名前に、真昼はめまいを覚えた。
「そのバイヤーがね、うちのブースのハーブティーを試飲した瞬間に顔色を変えて、その場で名刺を差し出して商談を申し込んできたの。『この香りは本物だ。今年の冬の全国お歳暮ギフト、ならびに百貨店のプレミアムオーガニックセレクションの目玉商品として、独占で全国展開したい』って!」
「ぜ、全国……展開……!?」
「そう! 全国の主要都市のデパ地下と、オンラインギフトカタログに、うちのブレンドティーが正式採用されたの! 初回発注だけで、ティーバッグ換算で数万個単位の大口契約よ!」
聡美は息を整え、カウンターの下から、今度は真っ白な封筒を取り出した。
ずっしりとした重みのある封筒。
それを、両手で真昼の手のひらの上へと、そっと押し包むように手渡したのだ。
「……これ、受け取って。今回の先行契約金と、これまでに納品してもらった原料の正規買い取り精算書よ」
***
真昼は震える指先で封筒の封を切り、中から三つ折りにされた紙を取り出した。
銀行の公式な振込明細書と、売上計算書。
そこに印字されていた数字の羅列を目にした瞬間――。
「……………………っ!?」
真昼の呼吸が、完全に止まった。
視界が白く明滅する。
印字された数字の桁を、真昼は何度も、何度も、瞬きを繰り返しながら数え直した。
一、十、百、千、万、十万、百万――。
「ひゃ……っ、ひゃく……ななじゅうまん……えん……!?」
真昼の喉から、かすれた悲鳴が漏れ出た。
七桁。
それも、百七十万円を超える莫大な金額が、真昼名義の地方銀行の口座へと、すでに正式に振り込まれていたのだ。
「そ、聡美さん……!? な、何ですかこの金額……!? 桁が、桁がふたつくらい間違ってませんか!?」
「間違ってないわよ、バカねぇ」
聡美は優しく、けれど心底誇らしげに目を細めた。
「百貨店のプレミアムギフトの原料仕入れ価格を、正規の相場で計算したの。大手との直接取引だから中間マージンも引かれないし、ルミナスベリーのあの香りと希少性を考えたら、これでも正当な対価よ。真昼ちゃんが汗水垂らして山から採ってきて、丁寧に乾燥させてくれた最高品質の素材なんだから、堂々と胸を張って受け取りなさい」
真昼の手の中で、振込明細書の紙がカタカタと震えていた。
百七十万円。
それは、中堅商社で激務に追われていた頃、理不尽な残業代を削られ、ボーナスをカットされながら、何ヶ月もボロボロになってすり減らして稼いでいた額を、遥かに凌駕する大金だった。
しかも――この金額があれば。
真昼がずっと頭の片隅で抱え続けていた、現実的な懸念のすべてが氷解する。
祖母タエが遺してくれた、築百年の古民家。
雨漏りの心配があった母屋の大屋根の全面瓦葺き替え工事。
冬場の寒さが厳しかった、隙間だらけの風呂場とキッチンの配管リフォーム工事。
それらの老朽化した修繕費用を、すべて一括で支払っても――まだ手元に、当面の生活費と業務スーパーでの大量買い出し資金が、十分すぎるほど余るのだ。
「真昼ちゃん」
聡美がカウンター越しに身を乗り出し、真昼の華奢な両肩を、ポンと力強く叩いた。
その瞳には、一人の自立した女性を心から認める、温かな敬意が宿っていた。
「これで、誰に気兼ねすることもないわ。真昼ちゃんはもう、ただの無職の居候でも、逃げてきた元OLでもないのよ。……うちのカフェ『野良時計』の、そして全国の大手百貨店を相手にする、唯一無二の『専属契約ハーブ農家』なんだから!」
「……っ……聡美さん……」
「胸を張りなさい。あんたの作ってきたものは、ちゃんと世の中に認められて、正当なお金を稼ぎ出せる本物の宝物だったのよ」
その瞬間。
真昼の胸の奥底で、頑丈に鍵をかけられていた分厚い氷の扉が、音を立てて砕け散った。
***
(……あぁ……私……)
視界が、急激に涙で滲んでいく。
会社を辞めてから今日まで、心のどこかに常にへばりついて離れなかった、冷たくて鋭いトゲ。
『自分は社会から逃げ出した落伍者なんじゃないか』
『祖母の遺産を食いつぶしているだけで、いつか貯金が底をついたらどうするんだ』
『またあの終電のホームで、冷たいコンビニ飯をかじりながら、怒号に怯えて頭を下げる地獄の日々に戻らざるを得ないのではないか――』
毎晩、布団に入るたびに真昼の胸を締め付けていたあの底知れない恐怖が。
今、この瞬間――完全に、雲散霧消していったのだ。
自分はもう、誰かに命を削られて生きる必要はない。
自分の手で素材を見つけ、自分の手で加工し、美味しいと喜んでくれる人たちへと届け、正当な対価を得て、誇りを持って生きていくことができる。
現代の生活基盤は、完全に、盤石なものとして確立されたのだ。
「……う……ぅ……聡美さん……っ!」
真昼は振込明細書を胸に抱きしめ、ぽろぽろと大粒の涙を零した。
都会にいた頃には決して流せなかった、温かくて、誇らしい涙。
「ありがとうございます……! 私……頑張ります……! もっともっと、良いハーブとベリーを届けてみせますから……!」
「ええ、頼りにしてるわよ! ……さあ、泣いてないで、通帳記帳してきなさい! 自分の力で稼いだ数字を見るの、最高に気持ちいいんだから!」
聡美がカラカラと豪快に笑い、真昼にティッシュの箱を差し出してくれた。
***
カフェを辞し、町の信用金庫のATMで通帳記帳を済ませた真昼は、軽トラックの運転席で、印字されたばかりの通帳をじっと見つめた。
真新しい黒インクで刻まれた、百七十万円を超える数字。
古民家の屋根の修理代を振り込んでも、通帳の残高はしっかりと厚みを保っている。
通帳を閉じると、信じられないほど心が軽く、空が高く見えた。
夕暮れ時。
古民家へと戻った真昼は、縁側に腰を下ろし、初秋の涼やかな風を胸いっぱいに吸い込んだ。
庭の柿の木が、夕陽を浴びて黄金色に照り輝いている。
縁側の木肌に手を滑らせると、祖母タエがこの家を遺してくれた温もりが、手のひらからじんわりと伝わってくるようだった。
「おばあちゃん……私、ちゃんと自分の足で立てるようになったよ」
もう、怯えることは何もない。
都会の過酷な激務にすり減っていた自分は、もう過去の残影だ。
現代側でしっかりと稼ぎ、税金を払い、古民家を守りながら――。
そして、あの押し入れの向こうの森で、大好きな人たちに温かいご飯を作り続ける。
ふたつの世界を跨ぐこの二重生活は、逃避でも夢物語でもなく、真昼が自らの意志で選んだ、確固たる『我が人生』なのだ。
「……よしっ!」
真昼は立ち上がり、奥納戸へと向かった。
首元の真鍮の鍵に指を触れ、押し入れの襖を開ける。
向こうから吹き抜けてくるのは、大好きな針葉樹の清冽な香りと、薪のかすかな匂い。
テラスの扉を開けると、そこには、真昼の帰りを待ちわびていた純白の神獣ベルが、「わふっ!」と満面の喜びを湛えて駆け寄ってきた。
「ただいま、ベル!」
真昼はベルをぎゅっと抱きしめ、夕暮れの森の空を見上げた。
明日の朝もまた、ここには白エプロンを着けたジークフリートが、薪を割って待っている。
大根の桂剥きを教えながら、黄金の出汁を引いて、美味しい朝ごはんを一緒に食べよう。
確かな自立の切符を手に入れた元OLの胸には、明日へと続く美味しい日々への希望が、初秋の星空よりも明るく、誇らしく輝いていたのだった。




