第47話:静かな雨音と、木を削る無骨な指先
森の木々を濡らす雨は、早朝の仄暗い時間から、途切れることなくしとしとと降り続いていた。
初秋の冷たい大気を含んだその雨粒は、新調されたばかりのナラ材の屋根板を小気味よく叩き、まるで静謐な子守唄のような優しい水音となってログハウスの室内を満たしている。
かつてなら雨漏りを警戒して桶をいくつも並べなければならなかったはずの山小屋は、鍛冶師バルトと男たちが張り替えてくれた頑丈な屋根のおかげで、一滴の水すら通さない。
部屋の中央では、石造りの暖炉に赤々と薪が爆ぜ、パチッ、パチッと心地よい火の粉を散らしながら、室内を春の陽だまりのような柔らかな温もりで包み込んでいた。
朝の鍛錬も、外回りの巡回も中止となった定例非番の日。
ジークフリートは、朝食を終えたあとも宿舎へ戻る素振りを見せず、暖炉の前の丸太ベンチに腰を下ろしていた。
身につけているのは、分厚い甲冑でも堅苦しい隊服でもない。
柔らかく洗いざらした生成りのリネンシャツに、黒いスラックス。
膝の上には厚手の革布を広げ、その無骨で傷だらけの指先には、研ぎ澄まされた一本の細身の細工ナイフが握られていた。
――シュッ、サクッ、スゥッ……。
規則正しく、息を呑むほど静かに響く削り音。
彼が削り出しているのは、手のひらに収まるほどの、濃い飴色をした小さな木片だった。
森の深部、過酷な風雪に耐えて長い年月を生き抜いた銘木――緻密な木目を持ち、鉄のように硬く、水や油を弾く特性を持つ『沈水木』の端材だ。
ジークフリートの長い睫毛が伏せられ、青氷の瞳は、刃先が木肌を薄く削ぎ落とすミリ単位の軌道へと一点に注がれている。
その彫刻のような横顔には、戦場で魔獣を屠る冷徹な剣士の気配はなく、ただひたむきにひとつの祈りを木肌へと刻み込む、無口な職人のような静けさが漂っていた。
「……ジークさん、手元、暗くないですか? ランタンを近くに置きましょうか」
キッチンスペースで大鍋を洗っていた真昼が、割烹着の袖をまくり、心配そうに声をかけた。
ジークフリートの手がピタリと止まり、ゆっくりと顔を上げる。
「いや、問題ない。暖炉の火明かりだけで十分に手元は見えている。……邪魔をしてすまないな、真昼。非番の日に、こうして長居をしてしまって」
「ううん、全然邪魔なんかじゃありませんよ。むしろ、雨の日にこうして誰かがそばにいてくれるのって……すごく落ち着きます」
真昼が屈託なく微笑むと、ジークフリートの耳の先端が、暖炉の火の照り返しとは明らかに違う淡い朱色にふわりと染まった。
彼は誤魔化すように視線を膝の上の木片へと戻し、再びシュッ、と静かに刃先を滑らせた。
屋根を打つ雨音。
暖炉の薪が爆ぜる音。
そして、木を削るリズミカルな擦過音。
外の世界の冷たさを完全に遮断した山小屋の中は、息が詰まるほど濃密で、けれど永遠に続いてほしいと思えるほど穏やかな空気に満ちていた。
「ジークさん、お昼ごはん、もうすぐできますからね。雨で身体が冷えちゃったでしょうから、とびきり温まるものを作ります!」
「……うむ。貴殿の料理なら、何であれありがたくいただく」
ジークフリートが小さく口元を緩めるのを見届けて、真昼は二連かまどの前へと向き直った。
***
今日のように、秋の冷雨がしとしとと降り続く寒い日。
真昼が迷うことなく選んだ献立は、故郷である山梨の郷土料理――『かぼちゃと平打ち麺のとろとろ煮込みほうとう風』だった。
冷えた胃腸を内側からじんわりと温め、滋養に富んだ根菜の甘みと味噌のコクが渾然一体となった、日本の家庭的な煮込み料理の最高峰。
「ほうとうの命は、平たい麺と、煮崩れて汁に溶け込むかぼちゃ!」
真昼が作業台に並べたのは、現代のスーパーで仕入れてきた食材たちだった。
まずは、厚みと幅が特徴的な『ほうとう用生平打ち麺』。
通常のうどんとは異なり、生地を塩水ではなく真水で打つため、下茹でをせずに打ち粉がついたまま直接汁に投入して煮込むことができる。麺から溶け出した小麦粉のデンプンが、汁全体にとろみをつけ、冷めにくい極上の熱々スープを作り出すのだ。
そして、たっぷりの野菜たち。
皮が濃い緑色で、果肉が鮮やかな濃黄色に熟した『栗かぼちゃ』。
これを一口大よりも少し大きめの、厚みのある乱切りにしていく。
トントントン、と三徳包丁がまな板を叩く。
さらに、泥付きの大根といちょう切りの人参、ささがきにしたごぼう、手で一口大にちぎった平茸と椎茸、斜め薄切りにした長ネギ、そしてコクを出すための豚バラ肉の薄切り。
「バルトさんのかまど、今日も頼りにしてるよ」
真昼は二連かまどの左側の火床に薪をくべ、火力を中火へと整えた。
黒鉄の天板の上に据え付けたのは、肉厚の萬古焼の特大土鍋。
中には、ジークフリートが今朝一番に汲んでくれた精霊の湧き水に、利尻昆布と煮干しをじっくり水出しした濃厚な出汁が張られている。
出汁がふつふつと沸き立ってきたところで、まずは火の通りにくい根菜――大根、人参、ごぼう、そして豚バラ肉を投入。
豚肉から澄んだ脂が滲み出て、アクを丁寧にすくい取ると、澄んだ出汁の表面にキラキラと旨味の油膜が広がる。
そこへ、主役のかぼちゃをどっさりと投入した。
「かまどの火で、じっくり煮崩していくよ……」
味付けのベースは、祖母タエ直伝の手前味噌と、コクを深めるための信州白味噌をブレンドしたもの。
この段階で、味噌の全量のうち三分の一だけを溶き入れる。
最初からすべての味噌を入れてしまうと香りが飛んでしまうが、少量の味噌で根菜を煮込むことで、野菜の芯まで味噌の旨味と塩気がしっかりと染み渡るのだ。
蓋をして、弱火でコトコトと煮込むこと十五分。
蓋の隙間から、甘いかぼちゃの湯気と、味噌の香ばしい薫香が立ち上り始めた。
竹串を刺すと、かぼちゃの角がほろりと崩れる。
真昼は土鍋の蓋を取り、平打ちの生麺を、打ち粉を軽く落としながらパラパラと鍋全体へと広ぎ入れた。
菜箸で優しく麺をほぐし、野菜の隙間へと沈めていく。
――グツグツ……ボコッ、ボコッ……。
打ち粉が溶け出し、さらさらとしていた出汁が、みるみるうちに黄金色のとろりとしたスープへと変化していく。
煮崩れたかぼちゃの果肉が黄色い絵の具のように汁に溶け込み、スープ全体が鮮やかな山吹色に染まり上がる。
平たい麺が、そのかぼちゃの甘みと豚肉の脂、根菜の旨味を凝縮した濃厚な味噌スープを、吸い込むようにしてふっくらと煮上がっていく。
仕上げに、残りの味噌をすべて溶き入れ、斜め切りの長ネギを散らして火を止めた。
立ち上る濃密な白い蒸気。
部屋中を制圧したのは、甘く、香ばしく、どこまでも包容力に満ちた、日本の冬の温もりの香りだった。
「よしっ、もうひとつの準備!」
真昼は右側の火床の熾火の上に、魚焼き用の焼き網を置いた。
その上に並べたのは、現代の古民家の納戸から持ってきた、純白の『角餅』を二個。
遠火の強火でじっくりと炙る。
――パチッ、ジュゥゥ……。
表面が白く乾き、やがてぷっくりと風船のように膨らんで、こんがりとしたキツネ色の焦げ目がついていく。
香ばしい焼き米の匂いが、土鍋の湯気と混ざり合う。
「ジークさん、できましたよ! 熱いうちに食べましょう!」
真昼は大きなお盆に、熱々の土鍋と取り分け用の深鉢、そしてこんがり焼けた餅を乗せ、暖炉の前の丸太テーブルへと運んだ。
***
「……これは、見事な黄金色の汁だな」
細工ナイフを置き、革布を畳んだジークフリートが、感嘆の声を漏らした。
深鉢に取り分けられたほうとうは、息を呑むほど具だくさんで、湯気を濛々と吹き上げていた。
山吹色に濁ったとろとろの味噌スープの中に、幅一センチ以上はある極太の平打ち麺が横たわり、形を残したホクホクのかぼちゃ、柔らかく煮込まれた豚肉、大根、人参、きのこがぎっしりと身を寄せ合っている。
その隣の平皿には、網で焼かれて表面を香ばしく膨らませた、二つの焼き餅。
「山梨の『ほうとう』っていう煮込みうどんです。麺がすごく平たくて、かぼちゃが汁に溶けてとろとろになってるんですよ。……すごく熱いから、フーフーしながら食べてくださいね」
「ああ……いただきます」
ジークフリートは胸の前で手を合わせると、黒檀の塗り箸を手に取った。
まずは、とろみを帯びた黄金色のスープを木のスプーンですくい、一口含む。
「……………………ッ」
ジークフリートの喉仏が、大きく上下した。
尖った塩気は、どこにもない。
まず舌を包み込んだのは、煮崩れたかぼちゃが放つ、濃厚でまろやかな大地の甘み。
そこに、豚肉から溶け出した良質な脂のコクと、昆布と煮干しの力強い出汁、そして長期熟成された手前味噌の芳醇な風味が重なり合い、舌の上で重厚なハーモニーを奏でている。
とろみがあるため、熱が一切逃げない。
熱いスープが食道を滑り落ち、胃袋へと届いた瞬間――。
冷たい雨音を聞きながら強張っていた内臓の壁が、まるで温かい毛布でくるまれたかのように、じんわりと、芯から解きほぐされていく。
ジークフリートは箸を伸ばし、平打ちの太い麺を引っ張り上げた。
ずっしりとした重み。
表面には、かぼちゃの黄金色のスープがとろりと絡みついている。
フーフーと息を吹きかけ、口の中へ手繰り込む。
――ハフッ、ツルッ、モチモチッ……!
「……っ! 麺の……コシと弾力が、いつもの麺とはまるで違う……!」
ジークフリートの青い瞳が見開かれた。
煮込まれているのに、決してドロドロに溶けていない。
噛み締めると、平たい麺の中心に確かな小麦のコシとモチモチとした強い粘りがあり、噛むほどに甘みが出汁と混ざり合っていく。
続いて、角の崩れかけた大ぶりのかぼちゃを一口。
舌の上に乗せた瞬間、ホロリと崩れ、舌の体温でカスタードクリームのように滑らかに溶けて消えていく。
さらに、豚肉のジューシーな旨味と、ごぼうの野趣あふれるシャキシャキとした食感が完璧なリズムを刻む。
「……美味いな。身体の芯から、熱が湧き上がってくるようだ」
「ジークさん、この焼き餅も、途中でスープに浸して食べてみてください!」
真昼に促され、ジークフリートは香ばしく焦げ目のついた焼き餅を箸で挟み、黄金色のスープの底へとそっと沈めた。
とろみのある汁をたっぷりとまとった熱々の餅。
口へ運ぶ。
――モチィッ……!
表面の香ばしいお焦げの苦みと、内側のどこまでも伸びる柔らかな餅の甘み。
それが、かぼちゃ味噌の濃厚なスープを吸い込んで、言葉を失うほどの多幸感となって口いっぱいに広がる。
「……っ! 香ばしい餅が、汁を吸って……何重にも美味さを増している……! たまらん……胃袋の底から、幸福で満たされていくようだ……!」
額にうっすらと汗を浮かべながら、夢中で麺を手繰り、具材を平らげ、最後の一滴のスープまで飲み干したジークフリートは、椀を置き、天を仰いで深いため息をついた。
***
「……ふぅ。ごちそうさまでした、真昼。……全身の血が、心地よく巡っている」
「お粗末様でした! 綺麗に食べてくれて嬉しいです」
真昼が空になった器を片付け、温かいほうじ茶の湯呑みをテーブルへと置く。
暖炉の火は依然として赤々と爆ぜ、外の雨音は、先ほどよりも少しだけ遠く、穏やかな響きへと変わっていた。
足元では、真昼から味付け前の柔らかく煮たかぼちゃと鰹節をもらったベルが、満腹になって暖炉の前で横倒しになり、「ふしゅる……」と心地よさそうに寝息を立てている。
食後の静寂が、ふたりの間を包み込んだ。
お茶を一口すすったジークフリートは、しばらく何かを躊躇うように視線を伏せていたが――やがて、決心したように革布の包みへと手を伸ばした。
そして、先ほどまで彼が削り出していたものを、小さな布の包みからそっと取り出したのだ。
「……真昼」
「はい?」
「これを……受け取ってくれないだろうか」
ジークフリートの両手から、真昼の前へと差し出されたもの。
それを見た瞬間、真昼は思わず息を呑んだ。
「……わぁっ……!」
初秋の柔らかな光を浴びて、テーブルの上に置かれていたのは――。
息を呑むほど滑らかに、美しく磨き上げられた、一本の木製スプーンと、一本の木製フォークだった。
素材は、あの鉄のように硬い『沈水木』。
深い飴色をした木肌は、気の遠くなるような回数ペーパーをかけられ、蜜蝋を丹念に擦り込まれたことで、まるで上質な琥珀か鼈甲のように、しっとりとした上品な光沢を放っていた。
角という角はすべて優しく丸められ、手作業でしか生み出せない、温かな曲線を描いている。
「森の硬い銘木を削って作った」
ジークフリートは少し照れくさそうに視線を泳がせながら、けれど真摯な声音で語り始めた。
「刃物を通すのも一苦労するほどの硬木だが、その分、熱にも水にも極めて強く、長年使い込んでも歪むことがない。……あなたの小さな手に合うように、持ち手の太さと長さを、少し小ぶりに削り込んであるのだ。……日頃の、朝食の感謝の印だ」
ジークフリートの無骨な指先。
剣ダコと古傷に覆われたその手は、硬い木を削り続けたせいで、ところどころが赤く擦れ、木屑と蜜蝋の匂いが染み付いていた。
名門貴族の出身でありながら、高価な宝飾品を買い与えるのではなく。
真昼が料理を口に運ぶその瞬間を思い描き、彼女の小さな手のひらのサイズを何度も測るようにして、自分の手で、一本の木から削り出してくれたのだ。
「……ジークさん……」
真昼は震える手で、その木製スプーンをそっと持ち上げた。
指先に触れた瞬間――。
真昼の目元が、じわりと熱くなった。
(……すごい……)
冷たさなど微塵もない。
木の温もりが、肌に吸い付くように馴染む。
重すぎず、軽すぎず、絶妙なバランスで重心が手のひらの中央に収まる。
持ち手の窪みは、まるで最初から真昼の指の形を知っていたかのように、寸分の狂いもなく親指と人差し指にフィットした。
どれほどの時間をかけ、どれほどの集中力と愛情を込めて削り出してくれたのかが、指先を通じて、痛いほど真っ直ぐに心へと伝わってくる。
「……すごい……本当に、私の手にぴったりです……!」
真昼はスプーンを胸に抱きしめるようにして、顔を上げた。
瞳に大粒の涙を浮かべながら、満面の、これ以上ないほど輝く笑顔を向けた。
「ありがとうございます、ジークさん……! こんなに素敵な贈り物、生まれて初めてもらいました。……一生の宝物にしますね!」
「……そうか。気に入ってもらえたなら、苦労した甲斐があった」
ジークフリートの口元に、春の陽光のような、柔らかで優しい笑みがふわりと広がった。
彼はほっと安堵したように息をつくと、真昼が握りしめるスプーンを確かめるように、そっと自らの右手を伸ばしたのだ。
外では、雨がしとしとと屋根を叩き続けている。
暖炉の火がふたりの影を長く揺らし、温かなほうじ茶の湯気が静かに漂う中――。
ふたつの世界を結ぶ小さな山小屋の時間は、雨音の静寂に包まれながら、またひとつ、かけがえのない温もりをふたりの胸の奥底へと刻み込んでいたのだった。




