第45話:騎士の決断と、森に誓う終生
夜の帳が完全に上がり、シルヴァの森に清冽な初秋の夜明けが訪れていた。
木々の天蓋を抜けて降り注ぐ朝の光は、淡い琥珀色から凛とした白金色へと移ろい、露を抱いたナラの葉先をプリズムのように輝かせている。
昨夜の星空の下で開かれた、あの大鍋のおでんと肉巻きおにぎりの祝宴の余韻は、穏やかな朝気の中にまだかすかに溶け残っていた。だが、今朝のログハウスのキッチンに立つ真昼の背筋は、心地よい緊張感によってすっと美しく伸びていた。
「よし……! 今朝のごはんは、ジークさんが迷いなく己の道を切り拓くための、一番力強い味方にしなきゃね」
今日、シルヴァ辺境伯邸の広間にて、王都から訪れた特別査察使エドガー子爵との最終会談が行われる。
名門ヘスラー公爵家の権力闘争、有力侯爵令嬢との政略結婚、そして中央への栄転という名の飼い殺し――それらすべての理不尽に対し、ジークフリートが騎士として、そして一人の男として、終生の決断を下す運命の日だった。
真昼が選んだ今朝の献立は、日本の伝統的な朝餉の最高峰――『銀だらの西京焼き風定食』。
合わせるのは、とろりとした喉越しが胃壁を優しく包む『なめこと豆腐の味噌汁』、そして萬古焼の土鍋で炊き上げた『新米の純白白米』だった。
真昼は古民家の冷蔵庫から、昨日から仕込んでおいたガラス容器を大事そうに取り出した。
蓋を開けると、ふわりと立ち上ったのは――米麹のふくよかで甘やかな薫香と、純米酒の芳醇なアロマ。
容器の中に敷き詰められていたのは、京都の白味噌をベースに、純米本みりん、純米酒、そして少量の薄口醤油を黄金比率で練り合わせた特製の『味噌床』だった。
その淡い山吹色の味噌の布団の間に、ガーゼを一枚挟んでじっくりと漬け込まれていたのは、大ぶりに切り分けられた極上の『銀だら』の切り身。
ガーゼを介して漬け込むことで、魚の表面に余分な味噌がこびりつかず、焦げ付きを防ぎながら、味噌の甘みと旨味のエキスだけを銀だらの身の芯まで浸透させるのだ。
「かまどの火で、香ばしく焼き上げよう!」
バルトが造り上げてくれた『石造り二連かまど』の左側の火床。
真昼は細く割った乾燥ナラの薪をくべ、炭火のような安定した熾火の層を作った。
黒鉄の天板の上に、魚焼き網を据える。
ガーゼをそっと剥がすと、現れた銀だらの身は、白味噌の糖分とアミノ酸を吸って、まるで濡れた象牙のように艶やかな透明感を帯びていた。
網の上に、皮目を下にして静かに乗せる。
――ジュワァァァッ……チリチリチリ……。
静かな朝の台所に、極上の焼き音が響き渡った。
銀だらの脂が熱い網の上で弾け、味噌の糖分と混ざり合って、瞬く間に魅惑的な薫煙を立ち上らせる。
立ち上る湯気と香ばしさは、ただの焼き魚とは次元が違っていた。
米麹の華やかで優しい甘みと、醤油の焦げる香気、そして脂ののった白身魚特有の上品な薫香が、煙突のドラフトへと吸い込まれながら、ログハウス中を満たしていく。
焦がしては台無しになる。真昼は火床の吸気弁をこまめに調整し、遠火の弱火でじっくりと、皮目はパリッとキツネ色に、身の内側はふっくらと蒸し焼きにするように焼き上げていった。
隣の火床では、小鍋の味噌汁が仕上がりを迎えていた。
煮干しと昆布から引いた清らかな出汁に、現代の業務スーパーで手に入れた瑞々しい『なめこ』と、一口大の絹ごし豆腐。
溶き入れたのは、祖母タエ直伝の手前味噌だ。
なめこから溶け出した自然なとろみが汁全体をまろやかに包み込み、小口切りにした青ネギが鮮やかな緑の彩りを添える。
「……焼けた!」
網の上で、銀だらの表面に絶妙な焦げ目がつき、箸で突けばジュワリと透明な脂が溢れ出す最高の瞬間を見極めて火から下ろす。
織部焼の長角皿に盛り付けられた銀だらは、黄金色の照りを放ち、大根おろしが涼やかに添えられた。
土鍋の蓋を開ければ、ピカピカに炊き上がった新米の白米が、眩い湯気を吹き上げている。
――カツ、カツ。
ウッドデッキの階段を上る、迷いのない足音が響いた。
***
扉が開き、姿を現したのはジークフリートだった。
その身には、傷ひとつなく磨き上げられた、純銀の重装甲冑。
肩からはヘスラー公爵家の紋章が刺繍された濃紺の儀礼用正装マントを羽織り、腰には家宝たる白銀の佩刀を帯びている。
昨日のような迷いや苦悩の影は、その彫刻のような美貌のどこにも見当たらなかった。
青氷の瞳は前方を凛と見据え、全身から放たれているのは、決戦に臨む将の研ぎ澄まされた静寂。
「……おはよう、真昼」
「ジークさん、おはようございます!」
真昼は笑顔で迎え、丸太テーブルの席へと彼を導いた。
甲冑を擦り合わせながら着席したジークフリートの前に、出来立ての『銀だらの西京焼き風定食』が配られる。
「今朝は、白味噌にじっくり漬け込んだ銀だらの焼き魚です。……しっかり食べて、お腹に力を込めていってくださいね」
「ああ……心して、いただく」
ジークフリートは胸の前で両手を合わせると、黒檀の塗り箸を手に取った。
長角皿の中央で香ばしい湯気を立てる、黄金色の銀だら。
箸先をそっと身に入れると、何の抵抗もなく、フルリと大きな塊がほぐれた。
断面から立ち上る、閉じ込められていた味噌と魚の甘い蒸気。
ジークフリートは一口分を挟み上げ、口の中へと運んだ。
――ハフッ、ジュワァァッ……。
「……………………ッ」
ジークフリートの喉が、微かに震えた。
咀嚼した刹那、舌の上に広がったのは――信じられないほど上品で、濃厚な『甘美な旨味』だった。
銀だらの身は驚くほど柔らかく、繊維の隙間から上質な脂がじゅわりと滲み出る。
そこに絡みつく、白味噌の丸みのある甘みと、酒の芳醇なコク。
味噌が魚の臭みを完全に消し去り、旨味だけを何倍にも引き立てている。皮の焦げ目の香ばしさが、甘い脂をキリリと引き締め、一切のくどさを感じさせない。
ジークフリートは間髪入れずに、大茶碗の白米をかっこんだ。
――ハフッ、モグモグッ。
新米の清らかなデンプンの甘みが、銀だらの味噌の塩気と脂を完璧に受け止める。
すかさず、熱々のなめこの味噌汁を一口。
――ず、ずずっ……。
つるりとしたなめこの心地よい喉越しと、豆腐の滑らかさ、そして出汁の効いた味噌の温もりが、食道を通って胃袋へと染み渡っていく。
「……美味い……」
ジークフリートの青氷の瞳に、確かな熱が宿った。
一口食べるごとに、全身の血管にエネルギーが満ち溢れ、心臓が力強く脈打つのが分かる。
迷いなど、微塵も湧かなかった。
この一杯の味噌汁の温もりが、この一膳の飯の滋味が、自分が守るべき世界のすべてなのだと、細胞の隅々が確信していた。
ジークフリートは最後の一粒、一滴まで綺麗に平らげると、箸を置き、深く息を吐き出した。
そして立ち上がり、真昼の目を真っ直ぐに見つめた。
「真昼」
「はい」
「……行ってくる。我が誓いを、果たしにな」
「はい! いってらっしゃい、ジークさん!」
真昼が満面の笑顔で送り出すと、足元で丸くなっていたベルが「わふっ」と短く力強く一声鳴いた。
ジークフリートは頷き、濃紺のマントを翻して、朝日の中へと歩み出していった。
***
シルヴァ辺境伯邸、二階の『大謁見の間』。
高い吹き抜けの天井から吊るされたシャンデリアが冷たい光を放ち、磨き抜かれた白大理石の床に重苦しい影を落としていた。
長い黒檀の会談テーブルの奥に腰掛けていたのは、王都から派遣された特別査察使、エドガー子爵だった。
金糸の刺繍が施された豪奢な絹の礼服に身を包み、傲慢そうに顎を反らせている。
だが――その顔色は、隠しきれない苛立ちと焦燥で濁っていた。
彼の背後に控えているはずの従者長ギルバートと私兵たちが、昨日の森での失態により、全身泥まみれの傷だらけで使い物にならなくなっていたからだ。不法侵入と横領未遂の濡れ衣が暴かれ、査察使側の面目は完全に丸潰れとなっていた。
ギィィ……と重厚な扉が開かれた。
歩み入ってきたのは、白銀の甲冑を纏ったジークフリートだった。
その背後には、冷徹な眼光を宿した副官クラウスと、分厚い書類鞄を抱えた財務官オズヴァルトが影のように従っている。
三人は一糸乱れぬ足取りでテーブルの前へと進み出ると、軍礼を執ることなく、静かにエドガー子爵の正面へと立った。
「……フン、ようやく現れたか、ジークフリート」
エドガー子爵は扇子をパチンと閉じ、尊大な態度を繕いながら冷笑を浮かべた。
「昨日は貴殿の配下の野蛮な者どもが、私の従者に対してずいぶんと無礼を働いてくれたようだが……まあよい。田舎の警備兵どもの粗暴さなど、今さら咎める気にもならん。……本題に入ろう」
エドガーは懐から、真紅の公爵家の封蝋が押された公式書状を取り出し、テーブルの上へと放り出すように滑らせた。
「ヘスラー公爵閣下、ならびに王都中央監察庁からの正式な辞令だ。……ジークフリート、貴殿の辺境での武勲を認め、王都中央近衛軍・第一騎兵連隊長への栄転が決定した。……さらにだ」
エドガーは勝ち誇ったように目を細め、身を乗り出した。
「王都屈指の名門、ローゼンベルク侯爵家より、貴殿を長女エレオノーラ様の婿養子として迎えたいとの正式な打診があった。……公爵家の三男坊である貴殿にとって、これ以上の過分な栄誉はあるまい。王都へ戻り、名門令嬢を娶ってヘスラー公爵家の中央での地盤を盤石にすることこそが、貴殿の血統に課せられた唯一絶対の務めだ!」
エドガーの言葉は、まるで絶対の恩赦を施すかのような傲慢さに満ちていた。
拒絶など許されない。王都の貴族社会において、家の繁栄のための政略結婚は絶対の義務であり、それに背くことなどあり得ない――そう信じ切っている瞳。
だが。
ジークフリートの表情は、一片の揺らぎすら見せなかった。
眉ひとつ動かさず、青氷の瞳でエドガーを静かに見据えている。
冷たい沈黙が大広間を支配する中、ジークフリートはゆっくりと右手を腰へと伸ばした。
――カチャリ。
彼が外したのは、自らの佩刀だった。
ヘスラー公爵家から授けられた、白銀の鞘に青い魔鉱石が埋め込まれた、騎士の象徴たる宝剣。
ジークフリートはその佩刀を両手で持ち上げると――迷うことなく、テーブルの中央、エドガーが差し出した書状の真上へと、ドンと音を立てて置いたのだ。
「な……何をするのだ、ジークフリート!?」
エドガーが狼狽して声を上擦らせる。
ジークフリートは背筋を極限まで伸ばし、大広間の空気を震わせるほどの、低く、澄み渡った声で告げた。
「私の剣と命は――この辺境の地と、守るべき民のためにある」
一言、一言が、大理石の石壁に厳かに反響する。
「中央の権力争いなど、私には一切不要だ。……王都の虚飾も、侯爵家の威光も、近衛軍の将官の椅子すらも、私の心には一片の価値もない。……栄転の話は、謹んで拒絶する」
「き、貴様ッ……狂ったか!?」
エドガー子爵が顔を真っ赤にして立ち上がった。
テーブルを両手で叩き、怒声を張り上げる。
「公爵家への反逆だぞ! 家督の意向に背き、王都の命令を拒絶するなど……貴族としての地位も、騎士としての身分もすべて剥奪され、平民へと身を落とすことになるのだぞ! そんな泥臭い辺境の地で、一生を終える気かッ!?」
「構わん」
ジークフリートは即座に、一片の迷いもなく言い放った。
その瞳には、かつて王都で感情を殺し、操り人形のように生きていた頃の影など、どこにもなかった。
誇りと、自由と、そして愛する居場所を見出した男の、不動の輝き。
「地位も名誉も、必要とあらばすべて返上しよう。私は、このシルヴァの地で生き、この地で剣を振るい、この地で骨を埋める。……それが、私という人間の、生涯をかけた決断だ」
「ぐ、ぬぅぅぅっ……! ええい、ならば辺境伯に直訴して貴殿を更迭させ――」
「それは不可能です、エドガー子爵殿」
冷淡極まりない声が、エドガーの言葉を遮った。
前に進み出たのは、財務官オズヴァルトだった。
オズヴァルトは眼鏡のブリッジを押し上げると、黒い革鞄から、青い絹の表紙で装丁された一枚の重厚な公文書を取り出した。
そして、エドガーの目の前へ、バサリと広げて見せたのだ。
「な……これは……!?」
エドガーの息が止まった。
羊皮紙の最下部には、シルヴァ辺境伯家の最高権威を示す、金箔と深紅の封蝋による『領主直筆の公認印』が、寸分の狂いもなく押されていた。
「標題『シルヴァ辺境警備騎士団長・任期無期限延長受諾書』」
オズヴァルトが朗々と読み上げる。
「辺境伯閣下は、ジークフリート殿の卓越した防衛手腕と領民への貢献を鑑み、現職への留任を【無期限】で正式に承認されました。領内自治権に基づき、中央人事局であっても、領主の合意なき解任および異動命令は無効と定められています」
「ば、馬鹿な……! 辺境伯が、公爵家に逆らうというのか!?」
「逆らうのではありません、正当な法と権利を行使しているだけです」
オズヴァルトは冷酷な笑みを浮かべ、さらに懐から、もうひと束の書類の端をチラリと覗かせた。
「……加えて、エドガー子爵殿。貴殿の従者長ギルバートが関与した、過去三年間にわたる王都監査費の着服送金記録……。これについて、王都監察庁へ即座に告発状を送付する準備も整っております。……もし此度の人事を不服として中央で騒ぎ立てるおつもりなら、子爵閣下、貴殿ご自身の監督責任も徹底的に追及されることになりますが……いかがなさいますかな?」
「……………………ッッ!?」
エドガー子爵の顔面が、青から赤へ、そして土気色へと目まぐるしく変色した。
完璧なチェックメイト。
ジークフリートの揺るぎない覚悟と、オズヴァルトが張り巡らせた絶対の法的包囲網の前に、エドガーの振りかざす権威など、ただの紙屑同然だった。
エドガーはガタガタと震える手でテーブルの上の書状を掴み取ると、悔しさに唇を噛み切り、叫ぶように捨て台詞を吐き捨てた。
「お、覚えていろ……! 田舎貴族の野蛮人どもが……! 後悔しても、二度と王都の敷居は跨がせんからなッ!!」
エドガー子爵は絹の礼服の裾を乱暴に払うと、這々の体で大広間から逃げ去っていった。
重厚な扉がバタンと閉ざされ、静寂が広間に戻る。
王都からの嵐は、完全に、永遠に吹き払われたのだ。
***
謁見の間を出て、爽やかな秋風が吹き抜ける回廊を歩く三人。
中庭の木々からは、黄金色に色づき始めた葉がハラハラと舞い落ち、どこまでも澄み渡る青空が広がっていた。
「……ふぅ。これで、すべて片付きましたね」
オズヴァルトが眼鏡を外し、懐紙でレンズを拭きながら小さく息を吐いた。
「エドガー子爵の失脚は免れません。王都のヘスラー公爵家も、裏金の件を公表されたくなければ、二度とジークフリート殿に手出しはできないでしょう。……完璧な勝利です」
「オズヴァルト殿、見事な立ち回りでした。感謝いたします」
クラウスが深々と頭を下げると、オズヴァルトは「当然の職務を果たしたまでです」と素っ気なく返しながらも、その口元には微かな満足の笑みが浮かんでいた。
そして――。
先頭を歩いていたジークフリートが、ふと足を止めた。
腰に佩刀を結び直した彼は、回廊の手すりに手をかけ、遠く西の山並み――あの深い森のログハウスがある方角を、じっと見つめていた。
その横顔には、重い鎖から解き放たれた男の、驚くほど清々しく、爽やかな光が満ち溢れていた。
ジークフリートはゆっくりと振り返ると、クラウスに向かって、かつて誰も見たことがないほど屈託のない、輝くような笑顔を向けたのだ。
「クラウス」
「は、はい! 何でしょうか、団長!」
「明日の朝食の手伝い、絶対に遅れるなよ」
「……え?」
クラウスが目を丸くする。
ジークフリートは真面目腐った顔で、胸を張ってこう告げたのだ。
「明日の朝、私は真昼から……『大根の桂剥き(かつらむき)』を教わる予定なのだ。薄く均一に刃を通す技法、剣の修行にも通じる至高の極意と聞く。貴様が寝坊して出汁引きの邪魔をしては困るからな」
「……………………は?」
クラウスの口から、間抜けな声が漏れた。
公爵家との決別を果たし、名門の地位を投げ打った王国屈指の英雄が、最初に口にした言葉が「明日の朝食の手伝い」と「大根の桂剥き」――。
「だ、団長……」
クラウスは思わず両手で額を押さえ、深いため息をつきながら苦笑いを浮かべた。
「完全に……料理人の顔になってますよ、あなた……」
「何を言う。朝餉の仕込みは、一日の活動の根幹を成す最重要任務だぞ」
大真面目に言い返すジークフリートに、オズヴァルトまでもが「やれやれ」と肩をすくめて吹き出し、回廊には男たちの明るい笑い声が響き渡った。
青空の向こう、森の奥深く。
あそこには、自分たちを待ってくれている、世界で一番あたたかな食卓がある。
金糸の髪を秋風になびかせながら、ジークフリートの足取りは、愛する居場所へと向けて、どこまでも軽やかに、力強く踏み出されていたのだった。




