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第44話:星降るウッドデッキと、おでん種争奪戦

深い森の天蓋を押し広げるようにして、宵闇が静かに夜空を支配していった。

初秋の澄み切った大気には一片の雲もなく、頭上を見上げれば、息を呑むほど無数の星々が満天に瞬いている。現代の街明かりの下では決して見ることのできない、銀河の川が白銀の帯となって夜空を縦断し、時折、淡い青白い燐光を放つ流れ星が尾を引いて木々の向こうへと吸い込まれていく。

ナラのウッドデッキの四隅に掲げられた真鍮ランタンが、ぽっと柔らかな山吹色の光を床板に落とし、夜風に揺れるたびに光と影が優しくワルツを踊っていた。

昼間の緊迫した戦闘の気配など、もはやどこにも残っていない。

卓上を満たしているのは、黒鉄の大鍋から立ち上る利尻昆布と厚削り鰹節の芳醇極まりない出汁の湯気と、漆塗りの大皿から放たれる照り焼きダレと豚バラ肉の香ばしい焦がし醤油の薫煙だった。


「さあみなさん、席に着いてください! まずは乾杯しましょう!」


真昼がエプロンの裾を払って声をかけると、ウッドデッキを埋め尽くしていた屈強な男たちが、そわそわとした様子で丸太ベンチへと腰を下ろした。

真昼が奥納戸の押し入れゲートをくぐり、現代の古民家から運んできたのは――保冷ケースの中で砕いた氷に埋もれていた、透明なガラス瓶の群れだった。

地元の名水と国産果汁で作られた、ご当地の『冷たい地サイダー』。

緑色のレトロな王冠が打たれたガラス瓶の表面には、冷たさに触れた森の湿気がびっしりと結露し、星明かりを浴びて宝石のようにきらめいている。


「嬢ちゃん、こりゃ酒じゃねえのか? だが、見たこともねえ硝子瓶だな」

「お酒じゃないですよ、バルトさん。私の故郷の『サイダー』っていう、シュワシュワ弾ける冷たい飲み物です。今日はいっぱい汗をかいたから、アルコールより先に水分と糖分を身体に入れてほしくて!」


真昼は栓抜きを手に取り、手際よくシュポッ、シュポッと王冠を跳ね上げていく。

小気味よい開栓音とともに、瓶の口からプシュッと白い冷気の煙が吹き上がり、柑橘と砂糖の爽快な甘い香りが夜気に弾け飛んだ。

全員の手に行き渡った、キンキンに冷えたガラス瓶。

ジークフリートが瓶を胸の高さへと掲げ、全員を見渡した。青氷の瞳に、ランタンの温かな灯火が宿る。


「……此度の不当なる侵入に対し、我が騎士団、ならびに領の友らが示した連係は見事であった。真昼の日常を、我らの安らぎの地を、誰一人傷つけさせずに守り抜いたことをここに称える。……真昼、心尽くしの料理に感謝する」

「ふふ、どういたしまして! それでは……乾杯!」

「「「乾杯ッッ!!」」」


ガチン、と澄んだガラスの触れ合う音が星空に響き渡った。

男たちが一斉に瓶を傾け、冷たい地サイダーを喉へと流し込む。


――ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ……シュワァァッ!


「……ぶはぁぁぁぁぁぁっッ!!」


先陣を切って吠えたのは、新米騎士ヨハンだった。

喉仏を激しく上下させ、瓶の半分を一気に煽ったヨハンは、目をカッと見開いて叫んだ。


「な、なんすかこれぇぇっ!? 甘いのに、喉の奥がパチパチ爆発して、すっげぇ冷たいっす! 身体の中の熱が、一瞬で吹き飛んでいくみたいだぁぁっ!」

「……うむ、美味いな」


ジークフリートもまた、瓶口を離して深く息を吐き出した。喉を通過した炭酸の刺激に、わずかに目元を細めている。


「喉越しが驚くほど清々しい。果実の甘みがありながら、後味に一切の濁りがない。……戦いのあとの乾きを癒やすには、これ以上のものはないな」

「オズヴァルト殿、ちびちび飲んでないで一気にいけよ! 美味えぞ!」

「言われずとも分かっていますよ、バルト殿。……炭酸の刺激が、疲弊した思考を明晰にしてくれますね」


オズヴァルトが眼鏡を押し上げながら満足げに頷き、ルッツも両手で瓶を抱えて「おいしーい!」と声を弾ませる。

冷たいサイダーによって胃腸が心地よく刺激され、男たちの五感は、目の前に並ぶ至高のご馳走を受け入れる準備を完全に整えた。


***


「さあ、冷めないうちにどうぞ! まずはその『肉巻きおにぎり』からいっちゃってください!」


真昼の合図が響いた瞬間、ヨハンの手が神速の如き速さで伸びた。

漆塗りの大皿の頂点、ピラミッドの頂に君臨していた、もっとも大ぶりでタレがたっぷり絡んだ肉巻きおにぎりを鷲掴みにする。

熱々の俵型のおにぎり。

幾重にも巻き付けられた豚バラ肉は、強火で焼きつけられてカリッとしたキツネ色の焼き目を纏い、水飴のように煮詰められた特製甘辛ダレが全体を艶やかにコーティングしている。表面に散らされた白ごまが、香ばしい油の匂いを漂わせていた。

ヨハンは大口を開け、豪快にそのど真ん中へとかぶりついた!


――ガブッッ! ジュワァァァァッッッ!!


静かな夜の森に、肉汁が弾け飛ぶ音がはっきりと響いた。

その瞬間、ヨハンの全身が感電したかのようにビクンと跳ね上がった。


「……………………ッッ!?」


噛み締めた刹那、薄切りの豚バラ肉のカリッとしたクリスピーな衣を突き破り、中から洪水のように溢れ出してきたのは――豚の良質な脂の甘みと、特製ダレの濃厚な旨味だった。

濃口醤油の香ばしさ、本みりんときび砂糖の重厚な甘み、そして生姜の爽快な刺激。

それらをたっぷりと吸い込んだ片栗粉のとろみ衣が、肉の旨味を逃さず舌の上に押し寄せる。

だが、真の爆弾はその内側に隠されていた。

肉の層を抜けた歯先が、みっしりと詰まった純白の新米へと到達した瞬間――。


(ご、ご飯が……! 米が、肉の脂とタレを全部吸い込んでやがる……!!)


固めに結ばれていた俵ご飯は、口の中でハラリと優しくほどけ散った。

外側から染み込んだ豚の肉汁と甘辛ダレを、米粒の一粒一粒がスポンジのように抱え込んでいる。

噛めば噛むほどに、新米本来の清らかな甘みと、豚バラの濃厚なコクが混ざり合い、口の中でひとつの完成された『肉丼』が炸裂したかのようだった。


「う……うめぇぇぇぇぇぇぇっっッッ!!」


ヨハンは両手でおにぎりを握りしめたまま、ベンチの上で悶絶した。


「な、なんすかこれ! 肉の脂を吸った米がヤバいっす!! 外側がカリッカリで、中のお米がふっくらしてて……タレだけでご飯三杯いけますよこれぇぇぇっ!!」

「がははっ! 小僧、美味いものを食うと叫ぶ癖は相変わらずだな!」


バルトもまた、大きな手で肉巻きおにぎりをふたつ同時に掴み上げ、大口で喰らいついた。

バリッと豪快な咀嚼音が響く。


「……くぅぅぅっ! この甘辛いタレと生姜の風味、豚の脂と相性抜群じゃねえか! 肉を巻いて焼くなんざ、どこの宮廷料理人にも思いつかねえ力技だぜ! 米が進んで止まらねえ!」

「ルッツ、お前も大きな口で食え。熱いから気をつけろよ」


クラウスが優しく声をかけると、ルッツは両手でおにぎりを抱え、フーフーと息を吹きかけながらパクリと頬張った。

小さな口の周りにタレをいっぱいつけながら、ルッツは目を丸くして足をパタパタと揺らした。


「あまじょっぱくて、お肉がカリカリしてて……すっごく美味しい! 真昼さん、僕これ大好き!」

「ふふ、いっぱい食べてね、ルッツくん」


真昼が微笑みながら、小皿にタレを少し足してやる。

男たちが夢中で肉巻きおにぎりを頬張り、あっという間にピラミッドの半分が消滅していった。


***


「……さて、みなさん。今夜のもうひとつの主役、いっちゃいましょうか!」


真昼が両手に鍋つかみをはめ、テーブルの中央に据えられた黒鉄の大鍋の木蓋に手をかけた。

男たちの視線が、一斉に大鍋へと注がれる。

ことり。

真昼が木蓋を静かに持ち上げた、その瞬間――。


――ボワァァァァァッッッ!!


初秋の冷たい夜気を一瞬で押し戻すような、圧倒的な蒸気の柱が立ち上った。

そして、その湯気とともに解き放たれたのは――利尻昆布のどこまでも深く澄み渡る海の滋味と、厚削り鰹節の力強くスモーキーな薫香。

何時間もかけて弱火で静かに煮含められたことで、具材すべてのエッセンスが溶け合った、まさに至高の『黄金出汁の香り』だった。


「う……おおおおっ……!?」


ジークフリートの喉仏が、ごくりと音を立てて上下した。

湯気の晴れた鍋の中には、絵画のように美しく、神々しいまでの光景が広がっていた。

琥珀色に透き通る出汁の海。

その中で、出汁を限界まで吸い込んで芯まで茶褐色に透き通った、極太の大根たち。

三角に切り分けられたふっくらとした厚揚げ、琥珀色に染まったつやつやのゆで卵、結び昆布、鹿の子の切れ目が入った板こんにゃく。

そして、コラーゲンがとろとろに溶け出し、琥珀色のスープをまとって艶めく牛すじ串。


「『おでん』です! 出汁が芯まで染みてますから、熱いうちにどうぞ! ……あ、それと、この黄色い薬味を使ってくださいね」


真昼が卓上に置いたのは、小さな陶器の小鉢に入った、鮮やかな黄色のペースト――現代の『和辛子(ねりがらし)』だった。


「和辛子です。西洋のマスタードとは違って、ツンと鼻を抜ける鋭い辛さがありますから、具材の端っこにちょんとつけて食べてみてください」


説明を聞き終えるやいなや、鍛冶師バルトが大きなお玉を握りしめた。

狙いを定めたのは、鍋の底で堂々と鎮座していた、厚さ四センチの巨大な輪切り大根。

小鉢へと引き上げられた大根は、自重で崩れそうなほどに出汁をたっぷりと含み、ランタンの光を浴びて琥珀色に輝いている。

バルトは塗り箸を構え、大根の中央へと箸先を当てた。


――スゥッ……。


力を込める必要など、どこにもなかった。

まるで温かい水の中に刃を滑り込ませたかのように、何の抵抗もなく、大根がふたつに割れたのだ。

パカッと開いた断面。

芯の芯まで、白い部分は一ミリたりとも残っていなかった。

完全に黄金出汁の色に染まり上がった果肉から、湯気とともにじゅわりと澄んだスープが溢れ出す。

バルトは和辛子を箸先でほんの少しだけ大根の角に乗せると、大口を開けて熱々の一塊を放り込んだ。


――ハフッ、ジュワァァァァァッッッ!!


刹那。

バルトの毛むくじゃらの顔が、驚愕と歓喜に歪んだ。


「……………………ッッ!?」


噛む必要すらなかった。

舌と上顎で優しく挟んだだけで、大根の繊維がほろりと淡雪のように崩れ散り、内側に閉じ込められていた信じられないほどの量の熱い出汁が、口いっぱいに洪水となって溢れ出してきたのだ!

昆布のまろやかな甘み。鰹節の奥深いコク。

そして、下茹でによってエグみを完全に抜かれた大根自身の、どこまでも清らかな大地の甘み。

そこへ――。

ツゥゥゥゥンッ……!!

和辛子の鮮烈な辛味が、一撃で鼻腔の奥を突き抜けた。

だが、痛い辛さではない。

出汁の濃厚な旨味をキュッと引き締め、舌の感覚を極限まで研ぎ澄ませる、神業のようなアクセント!


「……くぅぅぅぅぅぅっッ!!」


バルトは天を仰ぎ、太い拳でテーブルを叩いた。


「うめぇ……! なんだこの大根は……! 箸を入れただけで崩れちまうほど柔らかいのに、噛んだ瞬間にジュースみてえに出汁が溢れ出してきやがる……! この黄色い辛味もたまらねえ! ……くぅぅ、この出汁の染み具合、神業だぜ!!」


バルトの絶叫が、導火線に火をつけた。

大鍋を取り囲む男たちの目の色が、一瞬にして猛獣のそれへと変わった。


「す、すげぇ……! 俺も大根いくっす! いや、その前にこの肉串を――」


ヨハンがお玉を伸ばし、大鍋の端に並んでいた牛すじ串を、一度に二本掴み上げようとした。

その瞬間――!


カチャリッ!


金属の箸が、ヨハンの伸ばしたトングの手首を寸分の狂いもなく叩いた。

副官クラウスだった。

眼鏡の奥の瞳を青白く光らせ、冷徹な表情でヨハンを睨みつけている。


「おいヨハン。貴様、新米の分際で牛すじを二本も同時に取るなど言語道断だ! 軍規違反に等しい暴挙であると知れ!」

「い、痛ってぇぇっ! クラウス副官、ケチくさいこと言わないでくださいよ! 俺、午後の追撃戦で一番走ったんすから、牛すじ二本くらい当然の権利っす!」

「黙れ! 牛すじのコラーゲンが出汁に溶け出し、全体の調和を保っているのだ! 一本ずつ、ありがたくいただくのが礼儀というものだ!」

「なっ……! そう言うクラウス副官こそ、自分の小鉢にあの琥珀色のゆで卵をふたつもキープしてるじゃないですか! 卵を独占するのは職権乱用ですッ!!」

「な、何だと!? これはキープではない、味の染み具合を客観的に観察するための――」

「嘘つけぇぇぇっ! 絶対自分だけで食う気配だったっす!!」


普段は冷静沈着で規律を重んじる副官と、直立不動で敬礼を返すはずの新米騎士が、鍋を挟んで子どもじみた大激論を繰り広げている。

箸とトングが空中でカチカチと火花を散らし、おでん種を巡る熾烈な牽制が繰り広げられる。

その横で、少年ルッツが「あ、牛すじ一本もーらいっ!」と器用に隙を突いて牛すじ串をかっさらい、ハフハフと柔らかくとろける肉を頬張って「んま〜いっ!」と笑い声を上げる。


「ああっ! ルッツ、抜け駆けはずるいっす!」

「貴様が油断しているからだ、ヨハン!」


ワーワーと騒ぎ立てる男たちの喧騒をよそに。

丸太ベンチの端では、財務官オズヴァルトが、至極優雅に己の小鉢と向き合っていた。

小鉢の中央には、出汁をたっぷり吸ってふっくらと膨らんだ、三角の厚揚げ。

オズヴァルトは和辛子を箸先でほんの少し、ちょんと厚揚げの角に乗せた。

箸で切り分け、静かに口の中へと運ぶ。


――ジュワッ、トロン……。


「……………………っ」


オズヴァルトの肩が、ふわりと落ちた。

油抜きされた厚揚げの表面は香ばしく、内側の豆腐は驚くほど滑らかで絹のよう。

噛むごとに、大豆の優しい甘みと、昆布と鰹節の上品な出汁が口いっぱいに広がり、鼻を抜ける和辛子の清涼感が、胃袋を優しく目覚めさせていく。

熱い湯気が立ち上り、オズヴァルトの銀縁眼鏡を真っ白に曇らせていた。

彼は眼鏡を外すことすらせず、曇ったレンズの奥で目を細め、ふぅ……と深くて甘い、至福の息を漏らしたのだ。


「……美味い。出汁が、内臓の隅々まで染み渡っていくようだ。……騒がしい連中を相手にするのが馬鹿らしくなるほどに、完璧な調和だ……」


足元では、真昼から特別に味付け前の出汁でじっくり煮込んだ柔らかい大根の芯と、削りたての極上鰹節をもらった神獣ベルが、小皿を前足で抱え込むようにして夢中でハフハフと平らげていた。

時折、騒ぎ立てるヨハンたちの足元をすり抜け、「まったく、騒がしいやつらだ」とでも言うように短く「ふすっ」と鼻を鳴らしている。


笑い声と、湯気と、箸の鳴る音。

星空の下のウッドデッキは、まるで祭りの夜のように、賑やかで温かな幸福の熱気で満たされていた。


***


そんな喧騒から、ほんの少しだけ離れたウッドデッキの端。

手すりの向こうに広がる、夜露に濡れた針葉樹の森と、満天の星々を見渡せる特等席。

真昼は空になった大皿を片付け、手すりに両手を預けて、夜風を胸いっぱいに吸い込んでいた。

心地よい秋の冷気が、火照った頬を優しく冷ましてくれる。

背後からは、まだヨハンが「出汁で割ったサイダーを飲んでみるっす!」と意味不明な挑戦をしてクラウスに怒鳴られている声が聞こえてきて、真昼は思わずクスリと笑った。


――カツ、カツ。


控えめな、けれど力強い足音が近づいてきた。

真昼が振り返ると、そこに立っていたのはジークフリートだった。

白銀の甲冑を外し、濃紺の活動服の袖をまくった姿。胸元には、まだあの真っ白なリネンエプロンが掛けられている。

彼の手には、半分ほど残った冷たい地サイダーの瓶が握られていた。


「……ジークさん」

「……真昼」


ジークフリートは静かに歩み寄ると、真昼の隣、手すりの横へと腰を下ろした。

肩が触れ合いそうなほど、近い距離。

ふたりの間を、初秋の夜風がさわさわと通り抜けていく。

頭上には、こぼれ落ちそうなほどの星々の瞬き。

ランタンの山吹色の明かりが、ジークフリートの彫刻のように整った横顔を、淡く照らし出していた。

彼は夜空を見上げるでもなく、ただ静かに、真昼の横顔を見つめていた。

青氷の瞳。

昼間の冷徹な刃のような眼光はどこにもなく、そこには、どこまでも深く、澄み渡った、名状しがたいあたたかな光が揺らめいていた。


「……賑やかだな」


ジークフリートが、低く穏やかな声で呟いた。


「あいつらが……あのように、立場も階級も忘れ、子どもに戻ったように飯を奪い合って笑う姿など、王都にいた頃は夢にも見たことがなかった。……私も、そうだ。剣の重みも、公爵家の名も忘れ……ただ、美味い飯を食い、笑い合うことの幸福を、ここで初めて知った」


「……ジークさん」


真昼が小さく呼びかけると、ジークフリートはゆっくりと身体を向けた。

手すりに置かれた彼の無骨な手が、微かに動く。

真昼の手のすぐ隣。触れ合うか触れ合わないかの、互いの体温が伝わってくるような距離。


「真昼」


「はい?」


「……ありがとう」


静かな、けれど魂の底から絞り出されたような響きだった。

ジークフリートの瞳が、真昼を真っ直ぐに射抜いている。


「……守ったはずの私たちが……こうして、あなたに救われている」


「……っ」


真昼の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

ジークフリートは自嘲するように、けれど愛おしそうに口元を綻ばせた。


「不当なる査察使を追い払い、境界を守り抜いた気でいた。……だが、戦いを終えて戻ってきた私たちの身体を温め、強張っていた心を解きほぐし、再び明日へと生きる力を与えてくれたのは……あなたの作った、この温かい食卓だった」


ジークフリートは夜空を仰ぎ、そして再び、真昼の瞳を見つめ返した。


「あなたの引く出汁が、あなたの握る飯が……私たちの命を、確かに繋ぎ止めてくれているのだ。……この場所を守るためなら、私は何度でも剣を抜こう。王都のいかなる権力が立ちはだかろうと、我が命尽きるまで、あなたのこの笑顔を守り抜く」


夜風に揺れるランタンの明かり。

その光を受けて揺れるジークフリートの瞳の奥に、真昼の姿が、はっきりと映り込んでいた。

真昼の顔が、じわりと熱を帯びていく。

心臓が、早鐘のようにトクン、トクンと激しく音を立てていた。

胸いっぱいに広がる、熱い感謝と、愛しさと、そして名づけようのない甘美な感情。

真昼は満面の、嘘偽りのない笑顔を咲かせた。

涙で潤んだその笑顔は、初秋の澄み切った星空よりも、ランタンの灯火よりも、ずっと眩しく輝いていた。


「……私の方こそ、ありがとうございます、ジークさん」


真昼の声は、夜風に乗って、優しくジークフリートの胸へと溶け込んでいった。


「ジークさんたちが守ってくれるから、私はここで、安心してご飯を作れるんです。……誰が来たって、怖くありません。明日も、明後日も……ずっとずっと、美味しいご飯を作って待ってますからね」


「……ああ」


ジークフリートの口元に、極上の、春の雪解けのような笑みが浮かんだ。

ふたりの影が、ランタンの光の中で寄り添うように重なり合う。

手すりの上で、ジークフリートの大きな指先が、ほんの数ミリだけ動き――真昼の華奢な小指に、そっと、温かく触れ合わされた。

ピシリと走る、小さな甘い電流。

どちらも手を引くことはなく、ただ静かに、その温もりを確かめ合っていた。


星降る森のウッドデッキ。

仲間たちの賑やかな笑い声と、大鍋から立ち上る優しい出汁の湯気。

ふたつの世界を結ぶ小さな食卓の夜は、誰にも引き裂くことのできない絶対の絆と、確かな愛の温もりに包まれながら、どこまでも穏やかに、深く更けていくのだった。

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