第43話:戦士たちへの特大重箱と、出汁染みる大鍋
正午を過ぎ、不届きな侵入者たちを完全に撃退した広場には、秋の始まりを告げる涼やかな静寂が戻っていた。
急ぎで握った大皿山盛りの塩むすびと冷たい麦茶をすべて平らげた男たちは、夕刻の査察使エドガー子爵への最終報告と、領内巡回の公務を果たすため、一度砦の宿舎へと引き揚げていった。去り際、鍛冶師バルトが「夕方にはまた腹を空かせて戻ってくるからな、嬢ちゃん!」と豪快に笑い、副官クラウスが「夕食の手伝いには必ず馳せ参じます」と礼儀正しく一礼していった。
ウッドデッキの手すりに寄りかかり、秋風に吹かれながら男たちの背中を見送った真昼は、静かに自らの両手を見つめた。
(……みんな、私のためにあそこまでしてくれたんだ)
名門貴族の権力闘争に巻き込まれそうになりながらも、平然と剣を構えて立ちはだかってくれたジークフリート。
職人の意地と誇りをかけて、巨大な槌を叩きつけて道を塞いでくれたバルト。
一分の隙もなく切っ先を突きつけ、冷徹に退路を絶ってくれたクラウス。
法と数字の絶対防壁を築き、王都の巨悪を論理でねじ伏せてくれたオズヴァルト。
そして、森を駆け回り、命がけで侵入者を追い散らしてくれたヨハンとルッツ。
誰ひとりとして、自分の保身など考えていなかった。
ただ、この小さなログハウスと、押し入れの向こうの食卓を守るためだけに、全員がひとつになって戦ってくれたのだ。
「……塩むすびだけじゃ、全然足りないよね」
真昼の瞳に、あたたかく、そして力強い炎が灯った。
命がけで日常を守り抜いてくれた男たちに、自分が返せる最大限の誠意とは何か。
それは、言葉を尽くした感謝ではない。
彼らが一日を終えてこの森へ帰ってきた時、全身の疲労と緊張を一瞬で吹き飛ばし、魂の底から「生きていてよかった」と歓喜できるような、とびきりの『特大ご褒美飯』を用意することだ。
「よしっ! 総力を挙げて、仕込みに入ろう!」
真昼は胸元の真鍮の鍵をぎゅっと握りしめ、足元で丸くなっていた純白の神獣ベルに声をかけた。
「ベル、ちょっとお買い物に行ってくるね。すぐ戻るから、お留守番お願いできる?」
「わふっ!」
ベルが頼もしげに胸を張り、真昼を見送るように短く一声鳴いた。
真昼は奥納戸の押し入れゲートをくぐり、現代の古民家へと滑り込むと、迷うことなく軽トラックの鍵を手に取った。
***
軽トラックを走らせ、真昼が向かったのは、町の外れにある大型業務スーパーだった。
平日の午後、業務用食材が天井近くまで積み上げられた広大な店内を、真昼は大型カートを押して猛スピードで駆け巡る。
「今夜は……男六人の胃袋を完全に満たさなきゃいけないんだから、半端な量じゃダメ!」
まずは、今夜の第一の主役――『肉巻きおにぎり』のための食材だ。
真昼が精肉コーナーで迷わず選んだのは、赤身と脂身が美しい層を成す、薄切りの『豚バラ肉スライス』だった。パックではなく、業務用の一キロ入り大容量トレイを二つ。計二キログラムの豚バラ肉をカートに放り込む。
これだけの量があれば、大柄な俵型のおにぎりを二十個以上、隙間なく幾重にも巻き包むことができる。
続いて、今夜の第二の主役であり、秋の冷え込む夜に絶対に欠かせない『おでん』の具材コーナーへ。
ここが腕の見せ所だった。
冷凍コーナーの棚から、真昼は業務スーパーの名品である『冷凍・牛すじ串』の特大袋を三つ手に取った。下茹で処理が施され、竹串に丁寧に刺された牛すじ肉は、じっくり煮込むことでコラーゲンが溶け出し、出汁に極上のコクを与えてくれる。
練り物コーナーでは、出汁を濁らせない上質な『厚揚げ』を六パック。
結び目があらかじめ作られた、肉厚の『早煮昆布(結び昆布)』を大袋で二つ。
ぷりぷりの弾力を持つ『板こんにゃく』を四枚。
さらに、鶏卵コーナーから、新鮮な国産卵の十個入りパックを三つ。
青果コーナーでは、ずっしりと重く、水分を限界まで蓄えた丸々と太い『泥付き大根』を丸ごと三本。
調味料コーナーで、濃口醤油、本みりん、純米酒、きび砂糖、そして大容量の『厚削り鰹節』をカートへ追加する。
「よし、これで完璧! 急いで戻らなきゃ!」
軽トラの荷台に満載の物資を積み込み、山道を駆け戻った真昼は、押し入れゲートを何往復もしてログハウスのキッチンへと食材を運び込んだ。
***
秋の陽が少しずつ傾き始めた午後三時。
ログハウスのキッチンスペースでは、鍛冶師バルトが組み上げてくれた『石造り二連かまど』が、轟々と力強い吸気音を立てていた。
真昼は左右の火床に、ジークフリートが割ってくれた極上の乾燥ナラの薪をくべ、火力を自在に操りながら、二つの巨大な仕込みを同時にスタートさせた。
「まずは、おでんの『黄金出汁』から!」
左側の強火の火床に据え付けたのは、大人十人分が余裕で収まる、深底の黒鉄大鍋。
中には、ジークフリートが今朝汲んできてくれた、澄み切った精霊の湧き水が並々と注がれている。
そこへ、真昼が惜しげもなく投入したのは、幅広の『利尻昆布』の特大角板を四枚。
弱火でじっくりと温度を上げ、六十度前後の適温を保ちながら、三十分かけて昆布の奥深いアミノ酸と海のミネラルを水の中へと抽出していく。
水面が微かに揺らぎ、小さな気泡が立ち始めた沸騰直前――真昼は躊躇なく、菜箸で昆布を静かに引き上げた。昆布を煮立たせてしまうと、余分なぬめりと雑味が出て、出汁が濁ってしまうからだ。
そして、ここからが真昼のこだわりだった。
沸騰させた昆布出汁の中へ、両手いっぱいに掴んだ『厚削り鰹節』を、雪崩のように投入する!
――サァァァッ……。
熱湯の中に沈んでいく、厚切りの鰹節たち。
通常の薄削り花かつおとは異なり、厚削り節は煮立てても粉々にならず、芯から力強くスモーキーな薫香と重厚なコクを絞り出すことができる。
弱火でコトコトと煮出すこと十分。
立ち上ってきたのは――鼻腔を打つどころか、ログハウスの丸太の壁を染め上げるかのような、深く、気高く、圧倒的なまでに濃厚な『一番出汁の芳香』だった。
真昼は大きな竹ザルに清潔な晒布を敷き、黄金色の出汁を一気に濾し分けた。
大鍋の底に残ったのは、濁りひとつなく、鏡のように透き通った、淡い琥珀色の至高のスープ。
味付けは、薄口醤油、純米酒、本みりん、そしてほんの少しの粗塩だけ。具材から後から染み出る旨味を計算し、この時点では「少し上品すぎるかな」と感じるほどの、極限まで澄み切った塩梅に整える。
「次は、具材の下拵え!」
バルトが研ぎ澄ましてくれた燕三条の三徳包丁が、まな板の上で唸りを上げる。
泥付き大根の皮を厚めに剥き、厚さ四センチの極太の輪切りにしていく。
トントントン、とリズミカルな音。
真昼は包丁を寝かせ、大根の角を薄く削ぎ落としていく――ジークフリートが得意とする、あの『面取り』の技だ。面取りを施すことで、長時間の煮込みでも煮崩れを防ぎ、美しさを保つことができる。さらに、裏面に十字の隠し包丁を深さ三分の一まで入れる。
米のとぎ汁を張った別の鍋で、大根を十五分ほど下茹でする。大根特有の苦味とエグみを完全に抜き去り、繊維を優しく開かせることで、後から注ぐ黄金出汁をスポンジのように吸い込ませるのだ。
卵は固茹でにし、氷水で急冷してつるりと殻を剥く。
厚揚げは熱湯を回しかけて余分な油を抜き、三角に切り分ける。
板こんにゃくは両面に鹿の子状の細かな切れ目を入れ、一口大の三角に切ってから下茹でする。
そして、解凍した牛すじ串も、一度熱湯でサッと茹でこぼして余分な脂とアクを洗い流す。
「よし、大鍋に集結!」
大鍋の黄金出汁の中へ、下拵えを終えた具材たちが、整然と並べられていった。
底には、出汁を吸うのに最も時間のかかる大根と板こんにゃく。
その上に、結び昆布、厚揚げ、牛すじ串、そして純白のゆで卵。
落とし蓋をし、二連かまどの吸気弁を細く絞る。
火床の薪は、炎を立ち上がらせず、赤々と光る熾火の極弱火。
グラグラと沸騰させては、出汁が濁り、具材の旨味が逃げてしまう。表面が微かに、ゆら……ゆら……と揺れる程度の温度を保ちながら、二時間、じっくりと、静かに煮含めていく。
時間が経つにつれ、純白だった大根が琥珀色の出汁を芯まで吸い込んで透き通り、ゆで卵の表面が艶やかな茶褐色へと染まり上がっていく。
***
大鍋から漂う出汁の香りが森の木々へと溶け出していく中、真昼は右側の火床の前に立った。
もうひとつのメインディッシュ――『肉巻きおにぎり』の調理だ。
「ご飯も、完璧に炊き上がってる!」
萬古焼の大土鍋の蓋を開けると、ピカピカの新米が、湯気とともに眩い輝きを放っていた。
真昼は手水にほんの少しの塩をつけ、熱いご飯を手のひらに取った。
今朝の塩むすびのような三角形ではない。
肉を均一に巻きやすくするため、真昼はご飯を、きっちりと身の詰まった小ぶりの『俵型』に握っていった。手のひらの圧力を均等にかけ、少し固めに結ぶのがコツだ。焼いている最中に崩れないよう、しっかりとした芯を作る。
バットの上に、美しく整えられた俵ご飯が二十四個、行儀よく並べられた。
「ここからが、お肉の出番!」
真昼はまな板の上に、薄切りの豚バラ肉を広げた。
俵ご飯を端に乗せ、斜めの角度から、隙間が一切できないように、クルクルと螺旋を描くように巻きつけていく。
一枚で足りなければ、二枚目を直角に交差させて巻き、ご飯の白い部分を完全に覆い尽くす。
手の中でキュッと握り込み、豚肉とご飯を完全に密着させる。
そして――仕上げに、茶こしを使って、片栗粉を表面全体に薄く、均一にまぶした。
この片栗粉の薄い衣こそが、加熱された豚肉の肉汁を内側に閉じ込め、後から絡めるタレをとろりと吸い寄せる最強のコーティングになるのだ。
「かまどの火力で、一気に焼き上げるよ!」
右側の火床に細い薪をくべ、強めの中火へと火力を上げる。
黒鉄の天板の上に据えたのは、巨大な鉄製フライパン。
油は引かない。豚バラ肉自身が抱え込んでいる良質な脂だけで十分だからだ。
フライパンがカンカンに熱せられたところで、巻き終わりを下にして、肉巻きおにぎりを並べていく。
――ジュワァァァァァッッッ!!
並べた瞬間から、耳朶を打つ激しい焼き音とともに、純白の蒸気が立ち上った。
豚バラ肉の脂が熱い鉄板で溶け出し、パチパチと心地よいリズムを刻む。
巻き終わりの部分が熱で瞬時に焼き固まり、ご飯と肉が完全に一体化する。
真昼は菜箸を巧みに操り、転がすようにして全面を均一に焼きつけていった。
カリッ。サクッ。
表面の片栗粉が豚の脂を吸って、黄金色のクリスピーな焼き目を纏っていく。
余分に出てきた脂は、清潔なキッチンペーパーで手早く拭き取る。こうすることで、タレが油っぽくならず、キリッとした美しい仕上がりになるのだ。
全面が香ばしいキツネ色に焼き上がった、その瞬間――。
真昼はあらかじめ調合しておいた『特製甘辛ダレ』のボウルを手に取った。
濃口醤油大さじ六、本みりん大さじ六、純米酒大さじ四、きび砂糖大さじ三、そしてたっぷりのすりおろし生姜。
それを、熱々のフライパンの中央へと、一気に注ぎ入れた!
――ジャァァァァァァッッッッ!!
瞬間。
フライパンから、爆発的な蒸気の柱が立ち上った。
醤油の焦げる香ばしい薫煙と、みりんの甘やかなアルコールの香り、そして生姜の鮮烈な刺激が、部屋中に濛々と充満する。
真昼はフライパンを大きく揺すり、タレを泡立てながら、肉巻きおにぎりに幾重にも絡めつけていった。
グツグツと煮詰まるタレ。
片栗粉の衣がタレをぐんぐんと吸い込み、水分が飛ぶにつれ、シャバシャバだったタレが、水飴のように濃厚で艶やかな飴色のソースへと変化していく。
照り、輝く。
フライパンの中で転がる二十四個の肉巻きおにぎりは、まるで磨き上げられた赤銅の宝玉のように、ギラギラと眩い光を放ち始めた。
「よしっ……完璧な照り!」
真昼は火を止め、大判の漆塗りの角皿の上に、出来立ての肉巻きおにぎりを盛り付けていった。
八個、六個、四個、二個。
ピラミッドのように高く、美しく積み上げられた肉巻きおにぎりの巨塔。
その頂点から、フライパンに残った濃厚なタレをトロリと回しかけ、仕上げに指先でひねり潰した白いりごまをパラパラと雪のように散らす。
大皿の肉巻きおにぎりから立ち上る、暴力的なまでの甘辛い醤油と豚肉の脂の匂い。
そして、大鍋の蓋の隙間から静かに漏れ出る、利尻昆布と厚削り節の凛とした至高の出汁の薫香。
ふたつの相反する、けれど完璧に調和した美食の香気が、煙突から森の空へと吸い込まれ、夕暮れの木々を優しく包み込んでいった。
***
森が、息を呑むほど美しい紫紺と茜色のグラデーションに染まる頃。
真昼はウッドデッキの欄干に吊るされた真鍮のランタンに、ひとつずつ火を灯していった。
ぽっ、と灯る温かな山吹色の光。
初秋の夜風がひんやりと肌を撫で、ナラの床板の上に優しい影を落としている。
足元では、ベルが尻尾をリズミカルに左右に振りながら、森の小道の方角をじっと見つめていた。
――ザッ、ザッ、ザッ……。
――カチャリ、ガシャン……。
木立の向こうから、待ち望んでいた足音が響いてきた。
それも、ひとつやふたつではない。
大柄な男たちが肩を並べ、談笑しながら歩んでくる、賑やかで力強い足音だった。
「……おいおい、見ろよ! 煙突からとんでもねえ匂いが吹き出してやがるぞ!」
「ええ……街道の入り口まで、この甘辛いタレの香りと、信じられないほど深い出汁の匂いが届いておりました……!」
「うおおおおっ! 腹減ったぁぁぁっ! 俺、午後の巡回中ずっと、真昼さんのご飯のことしか考えてなかったっす!」
現れたのは、任務をすべて完了させたシルヴァ辺境警備騎士団の面々だった。
先頭を歩くジークフリートは、すでにあの物々しい白銀の重装甲冑を外し、動きやすい濃紺の活動服姿に戻っていた。だが、その胸元には――いつものように、糊のきっちりきいた真っ白なリネンエプロンが、誇らしげに掛けられている。
その後ろには、眼鏡を光らせたクラウス、肩を回すバルト、腹を押さえるヨハン、書類鞄を抱えたオズヴァルト、そして木の実のカゴを抱えた少年ルッツ。
階段を駆け上がってきた男たちが、ウッドデッキの中央、ランタンの光の下に置かれたテーブルを見た瞬間――。
「「「……………………ッッ!?」」」
全員の呼吸が、同時に止まった。
言葉を失い、目を見張り、金縛りに遭ったかのようにその場に立ち尽くす。
テーブルの中央に鎮座していたのは――。
バルトが作ってくれた黒鉄の大鍋。
木蓋が外されたその中では、黄金色に澄み渡った出汁の海の中で、琥珀色に透き通る極太の大根が、味が染みて茶色くなったゆで卵が、とろとろに煮込まれた牛すじ串が、ふつふつと、静かに湯気を吹き上げていた。
そして、その隣には。
漆塗りの大皿の上に、ピラミッドのようにそびえ立つ、照り輝く濃褐色の肉巻きおにぎりの山。
甘辛いタレのツヤと、香ばしい白ごまの粒が、ランタンの灯りに照らされてダイヤモンドのように乱反射している。
「……みなさん」
白い割烹着姿の真昼が、両手を胸の前で合わせ、満面の笑顔で男たちを出迎えた。
その瞳には、夕暮れの光よりも温かな、心からの感謝と労わりの光が満ち溢れていた。
「今日一日、本当にお疲れ様でした。……私の日常を守ってくれた、勇敢な戦士のみなさんへ。……今夜は、特大のご褒美ご飯です!」
澄んだ夜空の下、初秋の風が木々を揺らす。
冷えた空気を一瞬で温めるような湯気と、出汁と醤油の極上の香りに包まれて――。
ふたつの世界を結ぶ小さな食卓の、最高に誇らしく、あたたかな宴の幕が、今まさに上がろうとしていた。




