第41話:絶対防壁の男たちと、神獣の冷たい威圧
――ピキィィィィィンッッッ!!
大気が悲鳴を上げた、まさにその瞬間だった。
ウッドデッキの階段に足をかけ、下卑た笑みを浮かべていた私兵たちの動きが、まるで時を止められたかのようにピタリと硬直した。
風が止まったのではない。
大気中の熱という熱が、一瞬にして根こそぎ奪い去られたのだ。
「……ひ……っ?」
階段の一番下にいた私兵の喉から、引き攣った乾いた音が漏れた。
彼らの踏み出そうとした革靴の爪先から、ギチギチと音を立てて純白の霜が走り、ナラの木肌を、そして地面の熊笹を一瞬で白銀に凍りつかせていく。
視界のすべてが青白く染まり、息を吸い込もうとした肺腑の奥が、氷の針を直接突き刺されたかのように激痛を訴えた。
震える視線の先――ウッドデッキの最前線に立っていたのは、あの愛らしいはずの純白の毛玉だった。
「グルルルルルルルッ……」
ベルだった。
外見は依然として、膝の上に乗るほどの小さな白い獣の姿のまま。
だが、その身体から立ち上っていたのは、陽炎などという生易しいものでは断じてなかった。
蒼白の光を帯びた、絶対零度の冷気の嵐。
神話の時代よりこの広大なるシルヴァの原生林を統べ、幾千の魔獣をひれ伏せさせてきた、白狼の守護神。
その真なる神気――人間を塵芥のように消滅させぬよう、わずか数パーセントだけ加減して解放されたその『神威』が、重力そのものを何倍にも押し潰すような圧倒的な圧力となって、広場全体に叩きつけられていた。
ザザザザッ! と周囲の木々が一斉に激しく震え、梢にいた無数の小鳥たちが狂ったように悲鳴を上げて青空へと飛び去っていく。
天蓋を揺らす地鳴りのような咆哮が、音ではなく直接、男たちの脳髄へと響き渡る。
「あ……が……っ、な、何だ……これは……!?」
従者長ギルバートの脂ぎった顔から、一瞬で血の気が引いた。
全身の毛穴から吹き出る冷や汗。
膝の関節がガタガタと小刻みに震え、万力で地面に縫い止められたかのように、一歩たりとも足を動かすことができない。
本能が、DNAの奥底に刻まれた生命の警報が、耳をつんざくほどの爆音で叫んでいた。
(動くな。呼吸をするな。一歩でも前に進めば、魂ごと凍結されて砕け散る――!)
怯える私兵のひとりが、恐怖のあまり錯乱し、震える手で剣の柄を握り直そうとした。
その、刹那だった。
「――そこまでだ、王都の羽虫どもがぁッ!!」
ドォォォォォォォンッッッッ!!
空気を破裂させるような轟音とともに、私兵の鼻先わずか数センチの地面に、巨大な鉄の塊が叩きつけられた。
土煙が爆発し、砕け散った小石が私兵たちの顔面を容赦なく打ち据える。
地面を陥没させ、深々と突き刺さっていたのは――大人が二人掛かりでようやく持ち上がるような、黒鉄の巨大な鍛冶槌だった。
その柄を片手で軽々と握りしめ、熊笹の藪を力任せになぎ倒して現れたのは、熊のような体躯を誇る大男――騎士団専属鍛冶師バルトだった。
「てめえら、どこの馬の骨か知らねえがな……! 俺と弟子たちが心血注いで磨き上げたこのナラの床板に、泥だらけの薄汚ねえ靴を乗せようたぁ、いい度胸じゃねえか!!」
バルトの筋骨隆々の太い腕に、怒筋が青々と浮き彫りになる。
火床の熱を浴び続けた無精髭の顔面は紅蓮の怒りに染まり、背負った鍛冶槌から立ち上る鉄と油の匂いが、私兵たちの退路を完全に塞ぎ止めた。
「ひっ……き、騎士団の鍛冶師……!? な、なぜ貴様のような下賤な職人が――」
ギルバートが悲鳴混じりに叫びかけた、その喉元へ。
――ヒュンッ……ピタリ。
音すら置き去りにした一閃。
青白い刃先が、ギルバートの喉仏の皮膚に、触れるか触れないかの距離でピタリと静止していた。
刃から放たれる冷徹な殺気が、ギルバートの喉の産毛をチリチリと逆撫でる。
剣を構えたまま、音もなくギルバートの背後へと回り込んでいたのは――副官クラウスだった。
「……動くな。唾を飲み込む隙間に、貴様の喉笛を切り裂くぞ」
クラウスの声には、怒りすら含まれていなかった。
ただ、命令を完璧に遂行する冷酷な機械のような、絶対零度の静寂。
銀縁の眼鏡の奥で光る双眸は、ギルバートという存在を人間としてすら認識しておらず、ただ害虫を駆除する作業員のように冷ややかだった。
「く、クラウス副官……!? 貴様、王都の特別査察使の従者であるこの私に刃を向けるのか!? 反逆だぞ! 公爵家への反逆罪で一族郎党――」
「反逆? 笑わせるな」
木立の奥から、乾いた靴音とともに、もうひとつの声が静かに重なった。
ツカ、ツカ、ツカ。
現れたのは、黒のスーツ風官服を几帳面に上まで留め、腕いっぱいに分厚い羊皮紙の帳簿を抱えた男――財務官オズヴァルトだった。
その銀縁眼鏡が初秋の光を反射して白く光り、整えられた冷徹な唇の端が、嘲笑うようにわずかに吊り上がっている。
「公爵家の名を騙る前に、己の足元をよく見ることですね、ギルバート殿」
オズヴァルトは手にしていた分厚い公式文書の束から、真紅の封蝋が施された一枚の羊皮紙をバッと音を立てて引き抜いた。
そして、ギルバートの鼻先に突きつけるようにして、滑らかに、だが毒を含んだ声で朗々と読み上げたのだ。
「標題『シルヴァ辺境伯領・第十七号特別保全区指定令』。……この先半径一キロメートルに及ぶ森林区域は、辺境伯の公式承認のもと、財務部が直轄管理する【絶対不可侵特区】に指定されています」
「な……何だと……!?」
「無許可の立ち入りは、領内法第十四条に基づき、現行犯として即座に身柄を拘束、ならびに抵抗した場合は現場での即時無力化が法的に認められている。……つまり、クラウス殿が今ここで貴殿の首を刎ね飛ばしたとしても、領内法上は『不法侵入者に対する正当防衛および公務執行』として処理され、王都のいかなる法廷でも不問に付されるということです」
「ば、馬鹿なッ! そんな田舎法など、王都の査察使たる我らには通用せん! 我らはジークフリートが平民の女を囲い、軍の物資を横領している確固たる疑惑に基づいて捜査に――」
「横領? これは傑作だ」
オズヴァルトは冷笑を深めると、抱えていた別の黒い革表紙のファイルを、バサリと広げてみせた。
そこには、精緻極まりない数字と印章がびっしりと並んでいた。
「ここにある施設、ならびに資材は、過酷な任務に従事する騎士団の健康維持を目的とした正規の『補給保全拠点』として、財務官である私が一銭の狂いもなく正式に決済を下したものだ。横領などという事実は一ミリたりとも存在しない。……それよりも、だ」
オズヴァルトは眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、灰色の瞳をギラリと細めた。
その声のトーンが、一段と低く、冷酷な響きを帯びる。
「……王都の査察使従者長、ギルバート殿。貴殿が過去三年間にわたり、王都財務局の地方監査費から私的に着服したとされる、総額八万四千ゴールドに及ぶ使途不明金……。その詳細な送金記録と、貴殿が裏社会の闇金融へ流した裏帳簿の写しが、なぜか私の手元にあるのだが……これについて、王都の査察使エドガー子爵殿、ならびに中央監察庁の前に公開しても構わんのかな?」
「……………………ッッ!?」
ギルバートの顔面が、今度こそ完全に崩壊した。
目玉が飛び出さんばかりに見開かれ、顎が外れたようにガクガクと震える。
なぜ、辺境の地のいち財務官が、自分が王都で最も隠し通してきた致命的な暗部を、証拠ごと握っているのか。
オズヴァルトの頭脳と情報網。それは、辺境の予算を守るためなら、王都の大貴族の脛の傷すら徹底的に調査し尽くす「予算の処刑人」としての本領だった。
「不服があるなら、受けて立ちますよ。……貴殿の首が飛ぶのと、私兵どもが森の土の肥やしになるのと、どちらが早いか試してみますか?」
神獣ベルの放つ、骨の髄まで凍結させる絶対零度の神気。
バルトの振るう、人間を一撃でミンチに変える巨大な鍛冶槌の重圧。
クラウスの喉元に突きつけられた、寸分の狂いもない白銀の切っ先。
そして、オズヴァルトが突きつけた、己の人生を完全に破滅させる法律と数字の絶対防壁。
――四重の、完璧なるチェックメイト。
「ひ……っ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃっっッッ!!」
ギルバートの口から、人間のものとは思えない無様な悲鳴が上がった。
膝の力が完全に抜け、ぐにゃりと折れ曲がると、泥まみれの地面の上へと、尻餅をついて無様に転がり落ちたのだ。
後ろに控えていた私兵たちも、すでに戦意など完全に喪失し、ガタガタと歯の根を鳴らしながら、後ずさりして腰の剣を取り落としていた。
***
「……ふん。口ほどにもねえ腰抜けが」
バルトが鼻を鳴らし、肩の鍛冶槌をドンと地面に下ろした。
クラウスは冷ややかに切っ先を下げ、チッと舌打ちを鳴らして剣を鞘へと収める。
オズヴァルトは書類を几帳面に閉じると、冷淡な眼光で地面に這いつくばるギルバートを見下ろした。
「……身柄の拘束は、後ほどジークフリート殿とエドガー子爵の面前で行います。それまで、せいぜいその薄汚れた手足を震わせて待っていることですね」
ウッドデッキの上で、一部始終を見守っていた真昼は、ようやく胸元に当てていた手の力をふっと抜いた。
ベルが神気をすっと収め、くるりと真昼を振り返って「わふっ」と短く鳴く。
いつもの愛らしい、ぽてぽてとした白い毛玉の姿に戻ったベルの頭を、真昼は膝をついて抱きしめた。
「ベル……守ってくれて、ありがとうね」
そして、顔を上げる。
デッキの前には、自分の平穏を守るために、己の誇りと武器を掲げて立ち塞がってくれた、頼もしすぎる男たちがいた。
だが――全員の額には、張り詰めた殺気と緊張の余波で、びっしりと冷たい汗が滲んでいた。
砦から全速力で森を駆け抜けてきたのだろう。男たちの肩はかすかに上下し、その瞳には、まだ戦闘の熱気配が燻っている。
(みんな、私のために……息を切らして駆けつけてくれたんだ……)
真昼の胸の奥が、熱い感謝で満たされていく。
ならば、今すぐ自分にできることは何か。
殺気立っていた彼らの神経を優しく鎮め、身体の奥底から熱を冷まし、失われた活力を一瞬で取り戻すための――最高の一杯を用意することだ。
「みなさん! ちょっと待っててくださいね!」
真昼は身を翻し、ログハウスの台所へと駆け込んだ。
***
「気付けには……絶対に、あれが一番!」
真昼が奥納戸の押し入れゲートをくぐり、現代の古民家の台所から運んできたのは、ガラス製の大きな密閉キャニスターだった。
蓋を開けると、ふわりと立ち上ったのは――鼻腔を突き抜けるような、どこまでも爽快で、甘酸っぱい紫蘇の芳香。
キャニスターの中に満たされていたのは、初夏に古民家の庭で採れた赤紫蘇を使い、真昼が丁寧に仕込んでおいた『自家製しそシロップ』だった。
たっぷりの水で煮出した赤紫蘇の葉から抽出した、深い赤褐色の煮汁。
そこへ、きび砂糖を加えてじっくりと溶かし込み、最後に――純度の高い『クエン酸』と『純リンゴ酢』を注ぎ入れた瞬間の奇跡。
濁った赤褐色だった液体が、酸の力によってアントシアニンが一気に覚醒し、まるで溶け出したルビーのように、息を呑むほど鮮やかで透明感のある深紅へと発色した、あの魔法のシロップだ。
紫蘇特有の清涼感あふれる香りと、クエン酸のシャープな酸味、そしてきび砂糖の丸みのある甘み。疲労回復と自律神経の安定には、これ以上ない特効薬。
「これを、キンキンの炭酸水で割る!」
真昼はテーブルの上に、現代から持ち込んだ透明なガラスのトールグラスを四つ並べた。
それぞれの底に、深紅のしそシロップを惜しげもなく注ぎ入れる。
そこへ、古民家の冷凍庫から運んできた、カチ割りの純度の高い角氷を、カラカラと音を立ててグラスの縁までぎっしりと詰め込む。
そして――。
業務用の強炭酸水のペットボトルのキャップを、プシュッ! と心地よい音を立てて開けた。
氷の隙間を縫うように、冷たい炭酸水を勢いよく注ぎ込む。
――シュワァァァァァッッッ!!
グラスの中で、鮮烈な泡のダンスが始まった。
無数の微細な気泡が、深紅のシロップを巻き上げながら、光を乱反射して立ち上っていく。
底の濃いルビー色から、上層の淡いロゼピンクへと広がる、美しいグラデーション。
マドラーで底から静かにひと回しすると、カラン、コロンと涼やかな氷の音が響き、炭酸の弾けるシュワシュワという清涼な音とともに、部屋中を一瞬にして洗い流すような、甘酸っぱい紫蘇のアロマが弾け飛んだ。
「よしっ……できた! 『自家製しそジュースのソーダ割り』!」
大きなお盆の上に四つのグラスを並べ、真昼は足早にウッドデッキへと運んだ。
***
ウッドデッキの前では、バルト、クラウス、オズヴァルトの三人が、依然として周囲の警戒を解かずに立ち尽くしていた。
地面に転がったまま震えているギルバートたち私兵の処分をどうするか、低い声で議論を交わしている。
その張り詰めた空気の中へ、カツン、と涼やかな音を立ててお盆が差し出された。
「みなさん、本当にお疲れ様でした! ……まずはこれ、飲んで一息ついてください!」
真昼の明るい声。
男たちが振り返った瞬間、その視線は、グラスの中で美しく泡立つルビー色の液体へと釘付けになった。
「……こ、これは……?」
クラウスが目を見張る。
透明なガラスの器の中で、宝石のように輝く真紅のジュース。
表面では、見たこともないほど細かな無数の泡がパチパチと涼やかな音を立てて弾け、そこから立ち上っているのは、熱気配で重かった頭を芯から覚醒させるような、鮮烈で爽快な香り。
「『しそジュースのソーダ割り』です。私の故郷で、疲れた時や心を落ち着かせたい時に飲む、特別なジュースなんですよ。……炭酸が抜けないうちに、どうぞ!」
真昼が笑顔でグラスを手渡すと、男たちは互いに顔を見合わせ、それから喉を激しく鳴らした。
先陣を切ったのは、喉をカラカラに渇かせていた鍛冶師バルトだった。
太い手でグラスを鷲掴みにし、大口を開けて一気に喉へと流し込む!
――ゴクッ、ゴクッ、シュワァァァッッ!!
バルトの喉仏が、激しく波打った。
その瞬間。
バルトの毛むくじゃらの顔面が、驚愕のあまりカッと見開かれた。
「……………………ッッ!?」
口の中に入った刹那、パチパチパチッ! と弾け飛んだのは、暴力的なまでに爽快な『炭酸の刺激』だった。
舌を心地よく刺激する泡の波。
だが、真の衝撃はその直後に訪れた。
炭酸の刺激の奥から、怒涛の勢いで押し寄せてきたのは――赤紫蘇の、どこまでも気高く清々しい大地の薫香と、クエン酸のキリッとした鮮烈な酸味!
そして、それらをまろやかに包み込む、きび砂糖の優しい甘み。
「……っ! ぶはぁぁぁぁぁっ!!」
バルトはグラスを一気に飲み干し、魂の底から叫んだ。
「な、なんだこのパチパチ弾ける水は……!? 酸っぱくて、甘くて……そしてこの鼻を抜ける薬草のような清涼感! 喉を通るたびに、カッカと熱くなってた頭の血が一瞬で冷えて、全身の汗がスッと引いていきやがる……!!」
「……私も、いただきます」
続いてクラウスが、震える手でグラスを傾けた。
――ず、ずずっ、シュワッ……。
炭酸が喉を駆け抜けた瞬間、クラウスの眼鏡がカランと音を立てて微かにズレた。
「……あ……っ! す、素晴らしい……! 冷たい泡が、疲労で澱んでいた食道を清流のように洗い流していくようです……! 甘酸っぱさが絶妙で、胃袋にじんわりと力が戻ってくる……! このような天上の気付け薬が、この世にあったとは……!」
最後に、オズヴァルトが慎重にグラスを口元へ運んだ。
一口含んだ瞬間、彼の灰色の瞳が、感嘆に揺れ動く。
「……美味い。クエン酸の酸味が、過労で凝り固まった脳の神経を解きほぐしていくのが分かります。……人工的なシロップではない、本物の大地の滋養だ。真昼殿、あなたの差し出すものは、常に我々の想像を遥かに超えてくる……」
男たちの表情から、先ほどの険しい殺気配が、みるみるうちに綺麗さっぱり消え去っていった。
ルビー色のソーダ割りは、戦闘の熱気に浮かされていた彼らの心と身体を、奇跡のような清涼感で満たしていた。
足元では、真昼から冷たい湧き水と削りたての極上鰹節をもらったベルが、満足そうに「わふっ」と短く喉を鳴らした。
ウッドデッキに差し込む初秋の木漏れ日。
地面に転がったまま、完全に戦意を失って震えるギルバートたちを見下ろしながら、男たちの手には、空になったグラスと、確かな勝利の余韻が握られていた。
森の聖域を守り抜いた、絶対防壁の男たちと小さな守護神。
一杯の爽快なしそジュースの泡とともに、仲間たちの絆は、誰にも侵すことのできない不落の城壁となって、初秋の青空の下に誇らしくそびえ立っていたのだった。




