第40話:忍び寄る靴音と、踏み荒らされかけた境界
白銀の甲冑を鳴らし、決然たる眼差しで砦へと戻っていったジークフリートを見送ったあと、森には奇妙な静けさが訪れていた。
木々の天蓋を透かして差し込む初秋の陽光は、昨日までよりも淡く、冷涼な青空の下でナラのウッドデッキを静かに照らし出している。
遠くで小鳥が一声、二声とさえずる以外、大気を揺らす音はない。
だが、その静けさは、穏やかな日常のそれというよりも、嵐が訪れる直前の、気圧が急激に下がっていくときのような、張り詰めた緊張感を孕んでいた。
「……大丈夫。ジークさんは、絶対に負けない」
真昼はログハウスのキッチンスペースで、独り言のように小さく呟いた。
土鍋に残っていた五目炊き込みご飯をおひつへと移し、かまどの灰を綺麗にならす。
王都から向かっているという査察使。名門ヘスラー公爵家の都合で押し付けられようとしている、有力侯爵令嬢との政略結婚。
理不尽な巨大な権力に対し、ジークフリートは自らの立場も名誉もすべて投げ打って、この森の食卓を守るために立ち向かおうとしている。
その重い覚悟を受け止めた真昼の胸の奥底には、もう迷いや恐れはなかった。
自分にできることは、彼が帰ってきたときに、いつもの温かい笑顔で迎え入れられるよう、この聖域を何ひとつ変わらない清潔さと温もりで保ち続けることだけだ。
「よしっ、まずは洗濯物を干しちゃおう!」
真昼は気合を入れ直すと、古民家側の洗濯機で洗い上げたばかりの洗濯物を抱え、押し入れゲートをくぐってウッドデッキへと運び出した。
シーツ、リネンのクロス、ジークフリートが使っている真っ白なエプロンの予備、そして日々の手ぬぐいたち。
手入れの行き届いたナラのウッドデッキの端から端へと麻紐を張り、竹の洗濯バサミで一枚ずつ留めていく。
パン、パン、と手のひらでシワを伸ばすたび、石鹸の清々しい香りと、天日干しの湿り気が初秋の風に乗ってふわりと広がった。
白いリネンが風を孕んで帆のように膨らみ、木漏れ日を浴びてキラキラと輝く。
「くぅん」
足元では、純白の神獣ベルが、真昼の足首にぴったりと身を寄せていた。
いつもなら日だまりでお腹を出して昼寝を決め込むはずのベルだが、今朝はどこか神経を尖らせているらしく、時折、鼻先を高く上げて森の奥の風の匂いを嗅ぎ取っている。
その瑠璃色の瞳には、小さな身体に似合わぬ鋭利な警戒の光が宿っていた。
「ベル、いい子ね。……ちょっと休憩にしようか。冷たいお茶と、甘いおやつを用意してあるから」
真昼はベルの頭を優しく撫で、室内から大きなお盆を運んできた。
***
丸太テーブルの上に置かれたのは、素朴ながらも息を呑むほど美しい、初秋の小さなお茶セットだった。
ひとつは、昨日のうちに現代の古民家の台所でじっくりと仕込んでおいた、作り置きの甘味――『さつまいものレモン煮』。
真昼が選んだのは、地元の直売所で手に入れた、皮が鮮やかな赤紫色をしたホクホク系の『鳴門金時』だった。
一センチほどの厚さの輪切りにし、水にさらして余分なデンプンとアクを丁寧に抜き去る。皮の縁を薄く剥くことで、煮崩れを防ぎ、断面を美しく仕上げる一手間。
厚手の琺瑯鍋に重ならないように並べ、ひたひたの湧き水と、きび砂糖、そして地元産の上質なアカシア蜂蜜を大さじ二杯。
そこへ、皮ごと薄切りにした新鮮な国産無農薬レモンを、まるで花びらのように隙間なく敷き詰める。
落とし蓋をして、ごくごく弱火でコトコトと二十分。
沸騰させず、レモンの爽やかな酸味と香りを、さつまいもの芯までゆっくりと浸透させていく。
火を止めたあと、煮汁ごと一晩冷暗所でじっくりと寝かせたことで、果肉は黄金色に透き通り、皮の赤紫色との鮮やかなコントラストを描き出していた。
青磁の小皿に盛り付けられたさつまいもは、煮汁の蜜をまとって琥珀色に照り輝き、添えられたレモンの輪切りから、ツンと鼻腔をくすぐる涼やかで甘酸っぱい芳香が立ち上っている。
そして、合わせる飲み物は、ガラスのトールグラスに注がれた『冷たいほうじ茶』。
萬古焼の急須で濃いめに抽出した香ばしいほうじ茶を、急冷して氷をぎっしり浮かべたものだ。
カラン、と氷が涼やかな音を立て、グラスの表面には細かな水滴がびっしりと結露している。
「いただきます」
真昼は竹の楊枝を手に取り、さつまいものレモン煮をひとつ刺した。
指先に伝わる、しっとりとした柔らかな弾力。
口元へと運び、パクリと口に含む。
――ハフッ、ほろり……ジュワッ。
噛み締めた瞬間、真昼の目元がふわりと緩んだ。
舌の上で、ほくほくとしたさつまいもの果肉が優しく崩れていく。
砂糖と蜂蜜の丸みのある甘みが広がり、その直後――レモンの鮮烈で爽快な酸味が、口いっぱいにパッと花開いた。
さつまいも特有の喉に詰まるような重たさは微塵もない。
レモンのクエン酸が甘みをキュッと引き締め、皮の微かなほろ苦さが絶妙なアクセントを添えている。
すかさず、冷たいほうじ茶を口に含む。
――ず、ずずっ……カラン。
焙煎された茶葉の香ばしい薫香と、キリリと冷えた冷気が、レモンの甘酸っぱさと完璧に溶け合い、身体の中に溜まっていた熱と不安を、すうっと洗い流していく。
「……うん、美味しくできてる。ジークさんにも、後で食べさせてあげたいな……」
その素朴で優しい甘みに心を落ち着かせ、真昼が小さく息を吐き出した――まさに、その時だった。
***
ログハウスから南西へ数百メートル。
領主直轄の「特別保全区域」として、オズヴァルトが厳重に立ち入りを禁止したはずの深い森林の境界線。
鬱蒼とした針葉樹の巨木が立ち並び、獣道すら途絶えたその険しい山肌を、無遠慮に踏み躙るような足音が近づいていた。
――ザッ、ザッ、バキッ!
――ガシャリ、ジャラリ……。
「ええい、鬱陶しい枝だ! 払え! さっさと道を切り拓かんか、無能どもめが!」
苛立ちに満ちた、甲高く濁った怒声が響く。
藪を剣の鞘で乱暴に払いのけ、森の奥へと進んできたのは、五人の武装した男たちだった。
中心に立つのは、王都の流行を取り入れた派手な羽飾りのついたベレー帽をかぶり、仕立ての良い紫色の従者服に身を包んだ男。
王都から訪れた特別査察使エドガー子爵の従者長――ギルバートだった。
三十代半ばのその顔立ちは、過剰な美食と酒によってぶよぶよと脂ぎり、細く吊り上がった小さな瞳には、狡猾さと底意地の悪さが滲み出ている。
泥水で汚れた自らの高級な革靴を見下ろし、ギルバートは忌々しそうに舌打ちを鳴らした。
「まったく、辺境の田舎貴族どもが……! 査察使様が直々に王都への栄転と、名門侯爵家との輝かしい婚姻の話を持ち寄ってやったというのに、あの小倅、ジークフリートめ……! 『我が剣は辺境の民のためにある』などとほざいて、平伏するどころか剣の柄に手をかける始末……!」
ギルバートの引き攣った唇の端から、嘲笑が漏れた。
今朝、辺境伯邸の謁見の間で行われた査察使とジークフリートの会談。
公爵家の権威を盾に高圧的な態度で婚姻を迫ったエドガー子爵に対し、ジークフリートは微動だにせず、氷のような冷徹さでその要求を全面拒絶したのだ。
主君の面目を丸潰れにされたギルバートは、激しい屈辱と怒りに煮え湯を飲まされていた。
だが――ギルバートは、ただの無能な従者ではなかった。
王都の権謀術数の渦の中で生き抜いてきた男特有の、下劣で鋭い「嗅覚」を持っていた。
「ふん……だが、あの堅物騎士団長の仮面も、ここまでだ」
ギルバートは懐から、一枚の薄汚れた羊皮紙を取り出した。
それは、宿舎の不満分子である下級兵士たちを金で買収し、聞き出させたジークフリートの「不審な行動記録」のメモだった。
『団長は毎朝早朝四時に宿舎を抜け出している』
『森の奥の立ち入り禁止区域へと一人で向かっている』
『副官のクラウスも、鍛冶師のバルトも、何やら森の奥に通い詰めている』
『すれ違いざまに、身に纏っているのは鉄と汗の匂いではなく、甘く香ばしい、嗅いだこともない美味そうな匂いだ』
それらの情報を繋ぎ合わせた瞬間、ギルバートの脳内で、下卑た邪推が確信へと変わったのだ。
「清廉潔白を気取ってはいるが、所詮は血気盛んな若造よ。……過酷な辺境任務の気晴らしに、立ち入り禁止の森の奥深くに掘っ立て小屋を建て、素性の知れぬ平民の女を囲っているに違いない」
ギルバートはニチャリと下品な笑みを浮かべ、後ろに控える四名の私兵たちを振り返った。
私兵たちは、王都の裏社会で雇い入れた、柄の悪い傭兵崩れの男たちだ。腰には抜き身のショートソードを佩き、無精髭を生やした顔に下劣な笑みを浮かべている。
「いいか、貴様ら。相手は所見ではただの平民の女だ。……公爵家の三男坊に手籠めにされ、森の奥に隠されている哀れな愛人よ。力尽くで締め上げて吐かせれば、ジークフリートが軍の資材を横領して女を養っていた動かぬ証拠になる!」
ギルバートは拳を握りしめ、歪んだ欲望に瞳を濁らせた。
「公爵家の至宝と謳われた男が、平民の女に狂って軍務を私物化していたとあれば、王都に対する前代未聞の重大スキャンダルだ! その弱みを握って突きつければ、あの傲慢な団長とて首を縦に振らざるを得ん! 侯爵令嬢との婚姻を無理やりにでも結ばせ、功績を上げた私は、エドガー様から王都の直参執事の地位を取り立ててもらえるのだ……!」
出世欲と私利私欲。
他人を陥れ、踏み台にすることしか頭にない男の、浅ましい妄執。
木立の隙間に、オズヴァルトが打ち立てた『領主直轄特別保全区域・立ち入り禁止』と刻まれた真新しい木の立て看板が見えてきた。
ギルバートはその看板を一瞥すると、嘲笑とともに軍靴の先で蹴り飛ばした。
――バキッ!
「田舎貴族の法など、王都の査察使たる我らには通用せんわ! 行くぞ! 森の愛人殿のツラを拝み、たっぷりと可愛がってやる!」
ギルバートを先頭に、下品な笑い声を上げながら、私兵たちが神聖な森の境界線を土足で踏み越えていった。
***
――サァァッ……。
風が、止まった。
木漏れ日が揺れるウッドデッキの上で、冷たいほうじ茶のグラスを傾けていた真昼の耳に、ふと、違和感が滑り込んできた。
鳥のさえずりが、完全に途絶えていた。
梢を渡るさわさわという心地よい葉音すらも消え失せ、森全体が、何かに怯えるように息を殺している。
「……え?」
真昼が顔を上げた、その時だった。
――ピシリッ。
空気が、凍りついた。
背筋を、冷たい氷の針で直接撫でられたかのような、強烈な悪寒。
そして――。
――ズゥゥゥゥン……。
真昼の足元から、大気を震わせるような、極めて低く、重々しい地鳴りのような音が響いた。
真昼は息を呑み、視線を落とした。
「……ベ、ベル……?」
そこにいたのは、いつもの愛らしい、ぽてぽてとした白柴のような子犬の姿ではなかった。
ベルの全身の純白の被毛が、針のように鋭く逆立っていた。
四本の脚はナラの床板に深々と爪を立て、背中を弓なりに引き絞り、頭を低く垂れている。
その小さな口の端からは、純白の鋭利な牙が剥き出しにされ、喉の奥底から――まるで地底のマグマが煮え滾るかのような、怒号の唸り声が響いていたのだ。
――グルルルルルルルッッ……!!
瑠璃色の瞳は、もはや愛嬌の欠片も残していなかった。
神話の時代よりこの森を護り続けてきた、白狼の守護神――その真なる峻烈な神気が、漏れ出る冷気となってウッドデッキの床板を霜のように白く染め上げていく。
ベルの視線は、ウッドデッキの南西――森の小道へと続く木立の隙間を、寸分の狂いもなく射抜いていた。
――ザッ、ザッ、ザッ……!
――バキッ、メキメキッ!
静寂を無残に切り裂く、下品で無秩序な足音。
森の生き物たちに対する敬意も、自然への畏怖も微塵も持ち合わせない、破壊するためだけに踏み固められる乱暴な靴音だった。
洗濯物の白いシーツが、突如吹き抜けた湿った不快な風にバタバタと大きく揺れる。
木立の向こうの熊笹が、力任せになぎ倒された。
そして――。
「……ほう。なるほど、これは驚いたな」
粘つくような、耳障りな声とともに。
木々の影から、紫色の派手な服を着たギルバートと、抜き身の刃を手にした四人の私兵たちが、姿を現した。
ギルバートはウッドデッキの前に立ち止まると、見事に掃き清められた広場と、新調されたナラの美しい屋根、そして干された白い洗濯物を、値踏みするようにねっとりとした視線で見回した。
そして、その下卑た灰色の瞳が――デッキの中央、割烹着を着て立ち尽くす真昼の姿を捉えた瞬間。
ギルバートの口元が、獲物を罠に追い詰めたハイエナのように、醜悪に吊り上がった。
「これは傑作だ……! こんな山奥に、これほど小綺麗な愛の巣を設えていたとはな。……おい、娘。貴様が、ジークフリートの囲っている平民の女郎か?」
吐き捨てられた、あまりにも下劣な侮蔑の言葉。
真昼の背筋に、冷たい怒りが走った。
怯えよりも先に、ジークフリートへの侮辱と、この神聖な食卓を土足で汚そうとする男たちへの激しい憤りが、真昼の胸の奥底で燃え上がる。
真昼は一歩も引かず、割烹着の裾を握りしめ、ギルバートを真っ直ぐに見据えた。
「……あなたたちは、誰ですか? ここは立ち入り制限区域です。勝手に入ってきていい場所じゃありません。すぐに出て行ってください!」
毅然とした真昼の拒絶。
だが、ギルバートはその言葉を嘲笑うように、鼻でせせら笑った。
「威勢のいいことだ。平民の分際で、王都の査察使たる我らに指図する気か? ……ふん、観念するんだな。ジークフリートが貴様を囲い、公金を横領していた証拠はすでに掴んでいる。……おい、貴様ら! その女を捕らえろ! 小屋の中を徹底的に家宅捜索し、団長の私物をすべて押収するのだ!」
ギルバートが顎で指図すると、私兵の男たちが下品な笑みを浮かべ、剣を構えてウッドデッキの階段へと一斉に足をかけた。
泥だらけのブーツが、ナラの清らかな床板を踏みにじろうとした――その、刹那だった。
――ピキィィィィィンッッッ!!
大気が、悲鳴を上げた。
ウッドデッキの最前線へと身を躍らせた純白の毛玉――ベルの全身から、暴風のような絶対零度の神気が、爆発的に解き放たれようとしていた。
そして同時に、森の奥から、木々を薙ぎ倒さんばかりの勢いで駆け抜けてくる、ひとつの激しい足音が近づいていた。
境界線を巡る、決定的な衝突の瞬間。
平穏だった森の聖域に、今まさに、戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。




