第4話:静寂を裂く地響きと、銀の騎士
夜明け前の青い薄闇が、古民家の高い天井を静かに包み込んでいた。
ちち、と遠くの竹林で小鳥が一声鳴き、それに呼応するように東の空が白み始める。柱時計の振り子が、コチ、コチ、と確かな一定のリズムで時を刻んでいた。
真昼は薄い掛け布団を静かに押し上げ、寝息を立てる足元の白い毛玉――ベルを起こさないよう、音を立てずに敷布団から抜け出した。
素足に触れる畳の冷たさが心地いい。
洗面所で冷たい井戸水を手ですくい、顔を洗う。掌を伝う水は驚くほど澄んでいて、肌に触れた瞬間に眠気が綺麗に霧散していった。
タオルで水気を拭き取り、真昼はまず台所へと向かった。
昨夜のうちに、ひとつだけ大切な仕込みをしておいたのだ。
台所の北側、ひんやりとした風が通る棚の上に置いてある、ガラス製の円筒キャニスター。
真昼はそれを両手で持ち上げ、窓から差し込む淡い朝の光に透かしてみた。
中に満たされているのは、清らかな井戸水と、十センチ四方に切り分けた肉厚の利尻昆布が一枚。
昨晩からじっくりと時間をかけて冷蔵庫ならぬ冷暗所で寝かせておいた「水出し昆布出汁」だ。
水の中でたっぷりと水分を吸った昆布は、縮んでいた繊維を優しく緩め、まるで生き返ったかのように艶やかな深緑色の帯となって底に沈んでいる。
ガラス越しに見る水は、ほんのりと淡い黄金色を帯び、光の加減でわずかにとろみを含んで揺らめいていた。
蓋を開け、鼻を近づけてみる。
火を入れたときのような強い薫香ではない。だが、深く息を吸い込むと、澄み渡る海の底を思わせる、どこまでも上品で清らかなグルタミン酸の香りが、微かに鼻腔をくすぐった。
「うん、綺麗に出てる……」
急激に熱を加えず、冷水の中でゆっくりと時間をかけて引き出された昆布出汁は、雑味や苦みが一切出ず、驚くほど角のない澄んだ旨味を蓄える。
これを使って、今朝は何を作ろうか。
昨日のルミナスベリーの甘いトーストも最高だったが、やはり日本人たるもの、朝には熱い出汁の湯気と味噌の香りが恋しくなる。昨日のうちに古民家の蔵から見つけ出しておいた小さな萬古焼の土鍋で、具だくさんの汁物を作るのもいいかもしれない。
そう思いながら出汁のキャニスターに蓋を戻した時、足元でカサリと衣擦れの音がした。
「くぅ……ん」
見下ろすと、いつの間にか起きてきたベルが、真昼のスウェットの裾に前足をちょんと乗せて見上げていた。
朝日に照らされた純白の被毛が、淡い光の輪をまとっている。首元の鈴のような毛房をふわりと揺らし、瑠璃色の瞳を細めて真昼に挨拶をするように小さく首を傾げた。
「おはよう、ベル。起こしちゃった?」
「わふ」
短く喉を鳴らし、ベルは真昼の足首にすり寄ってきた。
その温もりを感じながら、真昼は微笑んでその小さな頭を撫でる。
昨日は一日中、森の散策とジャム作りに夢中になっていたが、今日はあのログハウスの本格的な掃除と手入れをする予定だった。あの小屋はおそらく、生前の祖母タエが時折訪れて心を休めていた大切な場所だ。埃を払い、床を水拭きして、もっと居心地のいい空間に整えたい。
真昼は土間から棕櫚の箒と、使い古しの清潔な雑巾、そして小ぶりな真鍮のバケツを取り出した。
「よし、ベル。あっちの小屋のお掃除に行こうか」
「わふっ!」
ベルは真昼の言葉を完全に理解している様子で、嬉しそうに尻尾を振ると、先導するように軽快な足取りで奥納戸へと走っていった。
薄暗い納戸の奥。
首から提げた真鍮の鍵を握りしめ、押し入れの襖に手をかける。
カラリ、と引き戸を滑らせると、いつものように湿り気を帯びた針葉樹と冷涼な朝露の香りが、真昼の全身を優しく包み込んだ。
敷居をまたぎ、ふかふかの苔の絨毯へ足を踏み入れる。
朝霧が薄く立ち込める森は、静まり返っていた。木々の梢の間から木漏れ日が幾筋も差し込み、足元に咲く青い小花の露をきらきらと輝かせている。遠くで聴き慣れない小鳥の澄んだ声が響くだけの、完全なる静寂。
――はずだった。
木立の隙間を抜け、ログハウスの前の小さな広場が見え始めた、まさにその瞬間。
――ズ、ドォォォォォォンッッ!!!
大気を引き裂くような、凄まじい衝撃音が森を揺るがした。
「きゃっ……!?」
地面から突き上げるような地響きに、真昼は思わず足を取られ、持っていた真鍮のバケツを取り落とした。カランコロンと甲高い金属音が足元で跳ねる。
地震ではない。何かが爆発したかのような、あるいは巨大な雷がすぐ目の前に落ちたかのような、暴力的で指向性のある破壊の音だった。
衝撃波が木々の枝を激しく揺らし、青々とした葉が無数に舞い散る。
「グゥゥルルルルル……ッ!」
真昼の前に飛び出したベルが、これまでに聞いたこともないような低い、地鳴りのような唸り声を上げた。
振り返った真昼は息を呑んだ。
いつもは真昼の膝の上でトロトロに蕩けている愛らしい子犬のような姿のベルが、背中の純白の毛を針のように逆立て、瑠璃色の瞳に鋭利な神性を宿してログハウスのテラスへ駆け上がっていたのだ。
その小さな身体から、ピリピリと肌を刺すような冷たい魔力の余波が、陽炎のように立ち上っている。
「ベ、ベル……!? 待って、危ないよ!」
真昼は恐怖で震える足に力を込め、箒を固く握りしめてテラスへと駆け上がった。
ベルはログハウスの分厚い木の扉の前に立ち、外の広場を警戒するように喉を鳴らし続けている。
扉の隙間から、外の様子を窺うしかない。
真昼は息を殺し、木製のドアノブに手をかけ、数センチだけそっと扉を引いた。
軋み音を立てないよう慎重に開けたその隙間から、広場を見下ろした真昼の視界に飛び込んできたのは――およそ現実とは思えない、圧倒的な異様を放つ光景だった。
「……な、に……あれ……」
広場の中央。
そこには、昨日の散策の時には確かに横たわっていたはずの、大人が二人掛かりでも抱えきれないほどの太さを持つ巨木の倒木があった。何十年も雨風に晒され、硬化していたはずのその巨大な丸太が。
まるで、巨大な刃物で一刀両断されたかのように、真っ二つに両断されて左右へと転がっていたのだ。
切断面は驚くほど滑らかで、摩擦熱によるものか、白く焦げたような煙がゆらゆらと立ち上っている。粉砕された無数の木屑が、まるで雪のようにあたり一面に降り注ぎ、森の朝霧と混ざり合って白く煙っていた。
そして。
その破壊の中心に、ひとつの人影が仁王立ちしていた。
白銀の、全身甲冑。
胸当てや肩当てには、細密な彫金で威厳ある鷲と剣の紋章が刻まれている。朝日を浴びて鈍い光を反射するその白銀の鎧は、実戦の過酷さを物語る無数の浅い刀傷が刻まれながらも、息を呑むほどに美しく磨き上げられていた。
両手で握りしめられているのは、身の丈ほどもある重厚な両手半剣。
分厚い刀身の切っ先には、両断された丸太から飛び散った細かな木の粉が付着し、朝露を吸って湿り気を帯びていた。
「…………」
男は、微動だにせず立っていた。
兜は身につけていない。
露わになったその容貌に、真昼は思わず息を呑んだ。
朝風に揺れる髪は、まるで朝一番の陽光をそのまま細く紡ぎ上げたかのような、混じり気のない豪奢な金糸。
眉骨から鼻梁へと抜けるラインは、古代の彫刻家が心血を注いで削り出したかのように鋭く整い、非の打ち所がない美貌を誇っている。
だが、その顔には、生きた人間らしい温かみが微塵も存在しなかった。
氷河の底を思わせる、冷徹で、感情を削ぎ落とした青氷の瞳。
シルヴァ辺境警備騎士団長、ジークフリート・フォン・ヘスラー。
森の奥深くに突如として現れた伝説の神獣の気配を察知し、部下の制止を振り切って単身で追跡してきた、辺境最強の騎士だった。
ジークフリートの青い瞳が、わずかに動いた。
森の木屑が舞い落ちる中、彼がその視線を向けた先は――真昼が潜んでいる、ログハウスの扉のわずかな隙間だった。
――ヒュッ、と喉が鳴った。
目が合った。
物理的な距離にして二十メートル以上離れているはずなのに、まるで抜き身の刃の切っ先を、直接喉笛に突きつけられたかのような錯覚。
全身の産毛が逆立ち、心臓が凍りついたように止まりかける。
都会のオフィスで、取引先の怒号を浴びた時の恐怖など足元にも及ばない。これは、明確な「死」の気配だ。一歩でも動けば、あの丸太のように一瞬で両断されるのではないかという原初的な恐怖が、真昼の足を床に縫い止めた。
ジークフリートは剣の切っ先を地面に向けたまま、静かに、だが重々しい足取りでウッドデッキの階段へと歩みを進めてきた。
ガシャリ、ガシャリ、と金属の具足が鳴るたび、真昼の心臓が早鐘を打つ。
テラスの階段を上がりきり、扉の前に立ったジークフリートは、真昼を見下ろすようにして冷酷な声を放った。
「……姿を現せ。神獣の気配を追ってここまで来たが……何者だ。この森の最深部に人間が住まう建造物が存在するなど、領の警備記録には一切存在しない」
低く、地を這うような、威厳に満ちたバリトン。
その声を聞いた瞬間、真昼の背後でベルが「グルルッ」と牙を剥き出しにしかけたが、真昼は咄嗟に手を伸ばし、ベルの背中をそっと抑え込んだ。
ここでベルをけしかけたら、本当に取り返しのつかない戦いになってしまう。
真昼は震える手で箒を握り直し、意を決して扉を押し開けた。
「あ、あの……っ!」
朝光の中に身を晒す。
ジャージのズボンに、祖母の古い木綿の割烹着。手には棕櫚の箒。
白銀の甲冑を纏う威風堂々たる美貌の騎士と、あまりにも不釣り合いすぎる日本の元OLの姿に、ジークフリートの青氷の眉がわずかに寄った。
相手は人間。それも、武器すら持たない小柄な娘だ。
ジークフリートの視線が、真昼の足元で低く唸るベルへと落ちた。
純白の被毛、首元の鈴のような毛房、そして幼体とはいえ隠しきれない神聖な気圧。
ジークフリートの瞳に、明らかな動揺が走る。
「……白狼の、神獣……? まさか、このような小娘に従っているというのか……? 貴様、王都の魔導士か、あるいは――」
そこまで言いかけた、ジークフリートの声が。
唐突に、掠れるように途切れた。
「……え?」
真昼は、思わず彼の顔を見つめた。
先ほどまでは恐怖のあまり直視できなかったが、至近距離で対峙して初めて、彼の「異様」がはっきりと見えたのだ。
威圧感に満ちていたその声音には、押し殺せない微かな震えが混じっていた。
そして、その顔色。
美しい金髪とは対照的に、肌の色は白を通り越して、土気色に淀んでいる。頬はげっそりと削げ落ち、唇は水分を完全に失って白くひび割れていた。
額からこめかみにかけて、大粒の脂汗がびっしりと浮き上がり、朝露のように顎へと滴り落ちている。
その呼吸は、極めて浅く、速い。
ヒュー、ヒュー、と喉の奥から笛のような苦しげな音が漏れている。
そして何よりも。
重厚な大剣を握りしめているはずの彼の左手が、甲冑の隙間から滑り込み、自らの『みぞおち』のあたりを、爪が食い込むほどの異常な力で強く、強く押さえつけていた。
(……これ、知ってる)
真昼の脳裏に、強烈な既視感が走った。
かつて、四年間勤めた商社のオフィス。
連日の徹夜残業と理不尽な重圧に耐えかね、締め切り当日の朝にデスクの横で突然倒れ込んだ、営業部の主任の姿。
激痛で顔を歪め、脂汗を流しながら、みぞおちを抱えて蹲っていたあの姿と、目の前の騎士の様子が完全に一致していた。
過労。
睡眠不足。
極度の精神的ストレス。
そして、荒れ果てた胃壁が悲鳴を上げ、自らの胃酸で内臓を焼き尽くすような――重度の、急性胃痙攣。
「……貴様……答えろ……何者、だ……」
ジークフリートは必死に威厳を保とうと、剣の柄を握り直そうとした。
だが、その指先はすでに自分の意思に従わないかのように激しく震えていた。
青氷の瞳の奥で、焦点が定まらなくなっていく。
白銀の騎士団長は、敵の刃によってではなく。
自らを極限まで削り続けた過労と心労、そして激痛によって、今まさに真昼の目の前で限界を迎えようとしていた。
「……くっ……」
ジークフリートの膝が、甲冑の重みに耐えかねたように、ガクンと大きく折れ曲がった。
大剣の切っ先がウッドデッキの床板に突き刺さり、辛うじて前のめりに倒れ込むのを防ぐ。
荒い呼気とともに、彼の口から苦痛に満ちた呻き声が漏れ出した。
冷徹な騎士の仮面が剥がれ落ち、そこにはただ、痛みに耐えかねて今にも崩れ落ちそうな、限界を迎えた一人の青年の姿があった。
「あ、危ない……っ!」
恐怖など、一瞬で吹き飛んでいた。
相手が異世界の騎士だろうと、大剣を持っていようと関係ない。
目の前で、自分と同じように激務に身をすり減らし、倒れかけている人間がいる。
真昼は箒を放り出すと、倒れゆく白銀の騎士に向かって、迷うことなく駆け寄っていた。




