第3話:青い木の実と、おばあちゃんの銅鍋
障子越しに差し込む柔らかな朝の光が、古い畳の上に幾何学的な四角い模様を描き出していた。
ちちち、と遠くの梢で小鳥が啼いている。
目覚ましのアラーム音も、けたたましく鳴り響くスマートフォンのバイブレーションもない朝。昨夜、黄金色の卵雑炊を食べ終えたあと、真昼は縁側近くに敷いた薄い敷布団の上で、まるで泥のように深い眠りに落ちていた。
重力に逆らえなかった身体が、驚くほど軽い。
東京にいた頃は、どれだけ長く眠っても頭の芯に鉛が詰まっているように重く、起床した瞬間から「会社に行きたくない」という絶望が胸を圧迫していたものだった。だが今朝は、肺の隅々まで澄んだ空気が行き渡り、手足の先までぽかぽかと温かい血が巡っているのがはっきりと自覚できた。
「……ん」
寝返りを打とうとして、太もものあたりに心地よい重みと、極上の温もりを感じて動きを止める。
薄い掛け布団の上。真昼の足のあいだにすっぽりと収まるようにして、真っ白な毛玉が小さく丸まっていた。
昨日の泥だらけの姿が幻だったかのように、艶やかな白銀の毛並みが朝の光を浴びてきらきらと輝いている。規則正しく上下する小さな背中。耳の先をぴくぴくと揺らしながら、安心しきった様子で寝息を立てていた。
真昼が起き上がろうとわずかに身じろぎした瞬間、その白い耳がピンと跳ね上がった。
「くぅ……ん」
細められた瞼の奥から、吸い込まれそうなほど澄んだ瑠璃色の瞳が覗く。
子犬――いや、あの神秘的な光をまとった白い生き物は、前足をぐっと伸ばして大きな伸びをすると、真昼の顔を見上げて小さく鼻を鳴らした。
そして、短い尻尾をちぎれんばかりに左右へと振りながら、真昼の膝の上へとよじ登ってきたのだ。
ざらりとした温かい舌が、真昼の頬を遠慮がちに、けれど熱烈にペロリと舐め上げる。
「あはは、おはよう。もう元気いっぱいだね」
両手で抱き上げると、昨日のような衰弱した震えは微塵もなかった。
羽毛のようにふわりと軽い身体からは、微かに日だまりと乾いた干し草のような、甘く清らかな香りが漂っている。
よく見ると、首の周りの純白の毛並みが、まるで小さな鈴のようにふっくらと丸く襟巻き状に膨らんでいた。動くたびに、風鈴が鳴るような微かな気配をまとっている。
「首のところに、鈴をつけてるみたい。……ねえ、あなたのこと、なんて呼べばいいかな」
真昼が首元を優しく指先で撫でながら問いかけると、白い生き物は誇らしげに胸を張り、ピンと背筋を伸ばした。
瑠璃色の瞳に、どこか尊大で高潔な光を宿しながら、
「――わふっ」
と、短く凛々しい声で鳴いてみせる。
まるで「我には悠久の時を生きる神聖なる名があるのだぞ」とでも主張しているかのようだ。
だが、そのサイズはどう見ても両手にすっぽり収まるもふもふの子犬である。真昼は思わず目元を緩ませ、人差し指でその小さな鼻先をちょんと突いた。
「鈴……鈴だから、『ベル』はどう? ベルちゃん。可愛いし、呼びやすいでしょう?」
瞬間、白い生き物は「なっ……!?」と言わんばかりに目を見張り、不服そうに唇を尖らせた。
神獣としてのプライドが許さないのか、「ぐるる……」と喉の奥で精一杯の低い威嚇音を絞り出そうとする。
だが、真昼はまったく動じることなく、そのまま彼の極上のチャームポイントである純白の顎の下に指を滑り込ませた。
カリカリ、と爪の先で心地よいポイントを優しく掻いてやる。
「ほら、ベル。ベルちゃん、いい名前だよ」
「ふ、ふにゃ……っ……ぐる……ぅ……ふあぁぁ……」
途端に、神獣の威厳は跡形もなく霧散した。
顎を撫でられたベルは、トロトロにとろけた表情を浮かべ、トサリと真昼の手のひらの上に重たい頭を預けてしまった。後ろ足がだらしなく畳の上に放り出され、喉からは先ほどの卵雑炊のときと同じ「ゴロゴロゴロ……」という盛大な甘え声が漏れ出す。
「ふふ、やっぱりベルね。よろしくね、ベル」
「くぅぅん……」
完全に骨抜きにされたベルは、真昼の腕の中にすり寄って、観念したように小さく鼻を鳴らしたのだった。
***
簡単な身支度を整え、真昼は古民家の奥納戸へと向かった。
首から提げた真鍮の鍵を握りしめ、押し入れの襖を開ける。
すうっと流れ込んできたのは、昨夜よりもさらに澄み渡った、朝露に濡れる深い森の冷涼な空気だった。
ベルは真昼の足元をすり抜けると、慣れた足取りでひょいと押し入れの敷居を飛び越え、向こう側の苔の絨毯の上へと着地した。
そして数歩進んでは立ち止まり、真昼の方を振り返って「早くおいで」と促すように尻尾を振る。
「待って、今行くから。……本当に、不思議な場所だなあ」
真昼もスリッパからスニーカーに履き替え、肩に祖母の遺品だった竹編みの手提げカゴを下げて、押し入れの向こう側へと足を踏み入れた。
朝の光が差し込む森は、息を呑むほどに神秘的だった。
幾重にも重なる天蓋のような枝葉の隙間から、幾筋もの光の柱が降り注ぎ、森の空気全体が淡いエメラルドグリーンに発光しているかのように見える。昨日は気づかなかったが、足元には名も知らぬ小さな青い花が露を抱いて咲き乱れ、踏みしめる苔からは踏むたびに清涼なハーブのような芳香が立ち上っていた。
ログハウスの前を通り過ぎ、ベルは森の奥へと続く細い獣道のような小道を、ぽてぽてとした足取りで軽快に進んでいく。
時折、木の根を器用に飛び越えながら、真昼がついているか確認するように振り返る姿がたまらなく愛らしい。
五分ほど歩いたところで、木々の密度がふっと薄れ、ぽっかりと開けた小さな日だまりの斜面に出た。
「わぁ……」
真昼の口から、感嘆の息がこぼれた。
斜面の一角に、膝丈ほどの低木が群生していた。
その枝という枝に、たわわに実っているのは、見たこともない美しい木の実たちだった。
形状は、ぷっくりと太った大粒の野いちごやブルーベリーに近い。だが、その色彩が尋常ではなかった。
木漏れ日を浴びた果実は、まるで深海の水滴をそのまま閉じ込めたかのような、透き通った深い青紫色をしており、その中心から淡い青白い光の粒――ルミネッセンスのような燐光を微かに放っていたのだ。
「これ……木の実? 光ってる……」
「わふっ!」
ベルが誇らしげに胸を張り、低木の前足でちょんちょんと枝を揺らした。
青紫の果実が小さく揺れ、朝露が宝石のようにきらりと落ちる。
ベルは真昼を見上げ、「美味しいよ、食べてごらん」と言わんばかりに首を傾げた。
毒々しい色ではない。むしろ、眺めているだけで喉の奥が潤うような、清らかな水菓子のような気品を漂わせている。
真昼は屈み込み、一番大粒で、陽光を浴びて青く輝いている一粒に指を伸ばした。
触れた瞬間、指先にひんやりとした朝露の冷たさが伝わる。皮は薄く、今にも弾けそうなほど果汁をパンパンに湛えていた。ぷつり、と軸から離れる感触すら心地よい。
鼻先に近づけると、甘酸っぱいベリーの濃厚な香りと共に、どこかミントやユーカリにも似た、鼻腔の奥をすっきりと通り抜ける爽快な香気が漂った。
意を決して、唇を開き、口の中へと放り込む。
――プチッ。
前歯で薄い皮を破った瞬間、真昼の全身を衝撃が貫いた。
「っ……!」
溢れ出したのは、暴力的なまでに瑞々しい果汁だった。
ブルーベリーを何倍も濃厚にしたような、深みのある濃密な甘み。
だが、ただ甘いだけではない。直後にやってくるのは、高級なマスカットをまるごと齧ったかのような、信じられないほど華やかで澄み切ったマスカット香だった。
舌の上で果汁が弾けるたびに、喉の奥が洗われていくような錯覚に陥る。
そして何より驚いたのは、飲み下した直後のことだった。
冷たい果汁が喉を通り、胃の腑に落ちた瞬間、胸の奥からすうっと清涼な風が吹き抜けるような感覚が広がったのだ。
都会での激務の記憶、将来への不安、奥歯を噛み締める癖のせいで強張っていた首筋のコリ――そうした重苦しい澱のようなものが、果実の生命力によって、一瞬で綺麗に洗い流されていくようだった。
「美味しい……! なにこれ、信じられないくらい美味しい……!」
思わず叫ぶと、ベルが嬉しそうに「くぅん!」と喉を鳴らし、真昼の足首に自分の身体を擦り付けてきた。
真昼は夢中になって手を動かした。
持ってきた竹編みのカゴの中に、熟した青い実をひとつひとつ、丁寧に摘み取っていく。
朝露に濡れた果実がカゴに落ちるたび、コロン、コロンと澄んだ音が響く。あっという間に、カゴの底は見事な青紫色のグラデーションで埋め尽くされ、小さな宝石箱のようになった。
「すごいね、ベル。こんな素敵な場所を教えてくれてありがとう。……よし、これで美味しいジャムを作ろう!」
採れたての果実を抱え、真昼はベルと共に森の小道を戻った。
押し入れゲートをくぐり抜け、古民家側の台所へと降り立つ。
***
真昼はまず、勝手口の棚の奥から、ひとつの特別な道具を取り出した。
淡い飴色に鈍く光る、年季の入ったフランス製の『ジャム用銅鍋』。
祖母タエが若かりし頃、街の料理道具店で清水の舞台から飛び降りる思いで買ったという、一生モノの鍋だった。底が広く、熱伝導率が極めて高い銅鍋は、短時間で一気に水分を飛ばし、果実の鮮やかな色とフレッシュな香りを閉じ込めるのに最も適している。
「おばあちゃん、大事に使わせてもらうね」
流水で丁寧に洗った青い果実――真昼は心の中でこれを『ルミナスベリー』と呼ぶことにした――をザルにあげ、清潔なキッチンペーパーで優しく水気を拭き取る。
重さを量ると、ちょうど五百グラム。
銅鍋の中に、青く輝くルミナスベリーをざらざらと移し入れる。
そこへ加えるのは、白砂糖ではなく、古民家の台所にあった未精製の『きび砂糖』だ。果実本来の力強い風味を邪魔せず、まろやかなコクを与えるため、糖度は控えめの四十パーセント、二百グラムを計量して振りかけた。
さらに、酸味の輪郭をくっきりと立たせ、ペクチンのゲル化を促すために、生搾りのレモン果汁を大さじ一杯回しかける。
「全体に砂糖が馴染むまで、少しだけ置いて……」
木べらで優しく底からすくい上げるように混ぜ合わせると、きび砂糖が果実の表面の水分を吸って、じわりと艶やかな蜜の膜を作り始めた。
十分ほど待ち、ベリーから自然な果汁が滲み出してきたところで、コンロの火をつけた。
中火にかける。
コトコト、クツクツ……。
熱伝導に優れた銅の鍋肌が素早く熱を伝え、鍋の縁から小さな泡が立ち上がり始める。
木べらを一定のスピードで動かし、焦げ付かないように鍋底を撫でる。
加熱が進むにつれ、信じられない光景が鍋の中で繰り広げられた。
熱で皮が破れ、濃厚な青紫色の果汁が溶け出すと、きび砂糖の琥珀色と混ざり合い、息を呑むほどに深い、夜空のようなロイヤルブルーのシロップへと変化していったのだ。
そして――。
「……っ、ふあぁ……」
立ち上る白い湯気とともに、暴力的なまでに華やかな香りが台所いっぱいに爆発した。
濃厚なベリーの甘酸っぱさに、マスカットの花のような高貴な芳香、そしてきび砂糖のキャラメルのような香ばしさが重なり合う。
ただ甘いだけの匂いではない。胸のすくような、どこか高原の風を感じさせる爽やかな香気が、古民家の古い柱や梁にまで染み渡っていく。
足元で座り込んでいたベルが、鼻をひくひくと動かし、待ちきれないように前足を真昼の足にちょこんと乗せてきた。
「ベル、もうちょっとだからね。ちゃんと灰汁を取らないと、透明感が出ないから」
沸騰してくると、表面にふつふつと白っぽい泡状のアクが浮き上がってくる。
真昼は小さな平お玉を使い、表面を滑らせるようにして丁寧かすくい取っていく。このひと手間を惜しまないことで、雑味のない、澄み切った極上のジャムに仕上がるのだ。
木べらですくい上げると、最初はサラサラと流れていた果汁が、わずかにとろみを帯びて、へらの先からぽた、ぽたと重たげに滴るようになってきた。
果実の粒は適度に残し、噛んだときのプチッとした食感を残すのが真昼のこだわりだ。
冷水を入れた小皿にシロップを一滴落とし、散らずに底に留まるのを確認して、真昼は火を止めた。
「完璧……!」
熱沸消毒したガラス瓶に移すと、まだ湯気を立てるジャムは、光を吸い込む宝石のサファイアのように美しく輝いていた。
***
さて、ここからが朝の贅沢の真骨頂だ。
真昼は食パンの袋を開けた。昨日、都会から引っ越してくる途中のベーカリーで買っておいた、少し厚切りの山型食パン。
魚焼きグリルに火を入れ、弱火でじっくりと食パンを焼き上げる。
パチパチと表面が香ばしく色づき、キツネ色の焼き目がついたところで取り出す。
木のプレートの上に、こんがりと焼けたトーストを置く。
表面に薄く有塩バターを滑らせると、パンの熱でバターがじゅわりと音を立てて溶け、小麦の香ばしさと乳脂肪の甘い香りが立ち上った。
そこへ、先ほど炊き上がったばかりの、まだ温かいルミナスベリーのジャムを、木のスプーンでたっぷりと二杯、惜しげもなくトーストの中央へと落とす。
「いただきます……!」
手を合わせ、両手で温かいトーストを持ち上げる。
ジャムの重みでわずかにしなるパンを、大口を開けて思い切りかじった。
――サクッ、ジュワッ。
耳元で響いたのは、トーストの極上のクラストが弾ける軽快な音。
そして次の瞬間、口の中いっぱいに広がったのは、未だかつて経験したことのない味のシンフォニーだった。
香ばしく焼けたパンの小麦の風味と、有塩バターの塩気。
その上に、温かくトロリとしたルミナスベリーのジャムが、怒涛の勢いで押し寄せてくる。
熱を加えたことで、生の時よりもさらにベリーのコクと甘みが凝縮されており、噛み締めるたびに果実の粒がプチプチと弾けて、フレッシュなマスカット香が鼻腔を突き抜けていく。
バターの塩気が、ベリーの甘酸っぱさを極限まで引き立てていた。
濃厚なのに、後味はどこまでも澄み切っていて、まったくくどさがない。
噛むごとに、脳の奥がじわじわと多幸感で痺れていくのが分かった。
「……んんん〜っ……! 美味しい……幸せすぎる……!」
思わず目を閉じ、両手でトーストを抱え直す。
ほんの数日前まで、冷え切ったオフィスの片隅で、賞味期限の切れかけたコンビニのおにぎりを水で流し込んでいた自分が嘘のようだ。
誰にも急かされず、誰の機嫌も伺わず。
朝の柔らかな光の中で、自分の手で摘んできた果実を、自分の手で丁寧に煮詰めて、焼きたてのパンに乗せて食べる。
ただそれだけのことが、こんなにも人間の心を救うものなのか。
乾ききっていた真昼の心の隙間に、温かいジャムの甘みがじわりと染み渡り、強張っていた全身の細胞が、歓喜の声を上げながら解けていくのが分かった。
「わふっ」
足元から、待ちきれないような短い声が上がった。
見下ろすと、ベルが真昼の足元でお行儀よくお座りをし、真昼の手元のトーストをキラキラとした瑠璃色の瞳で見つめていた。
真昼は小さく笑い、トーストの耳の柔らかい部分を一口分だけ千切った。ジャムは砂糖が入っているため、ほんの爪の先ほどだけ味見程度につけてやり、人肌に冷ましてからベルの口元へ差し出す。
「はい、ベルもお味見。熱くないからね」
ベルはぱくりと真昼の指先ごとくわえ込むようにして、トーストを受け取った。
もぐもぐと小さな口を動かした瞬間、ベルの丸い耳がピーンと真上に立ち上がった。
サクサクのパンと、自分が見つけてきた果実の甘い香りに大興奮したのか、「はふっ、はふっ!」と喉を鳴らし、真昼の指先までペロペロと綺麗に舐め上げる。
そして、満足そうに「くぅ〜ん」と甘えた声を出しながら、真昼のスニーカーの上に自分の前足を重ねてきた。
「美味しいね、ベル。この森には、まだまだ私の知らない美味しいものがたくさんあるのかな」
真昼が優しく頭を撫でると、ベルは目を細めて誇らしげに喉を鳴らした。
外では、初夏の爽やかな風が古民家の庭の木々を揺らし、木漏れ日が縁側を優しく照らしている。
押し入れの向こうに広がる、未知の豊かな森。
そこで手に入る大自然の恵みと、祖母が遺してくれたこの台所の温もり。
それらがひとつに重なり合ったとき、真昼の胸の奥にあった将来への重い暗雲は、朝霧のように静かに晴れ渡っていた。
――だが、この時の真昼はまだ知らなかった。
この静かで甘やかな朝の平穏を揺るがすような、凄まじい地響きと、白銀の甲冑を纏った「予期せぬ来訪者」が、すぐ翌朝に迫っているということを。




