第5話:冷徹団長の空腹と、土鍋の豚汁
「……う、ご……くな……」
ジークフリートは、掠れた呼気とともに低く絞り出した。
己を縛る鋼のような自制心だけで、白銀の巨躯を支えている。だが、膝の震えは止まらない。
カシャン、と甲冑の草摺が擦れ合う乾いた音が響くたび、彼の膝がわずかに撓み、大剣の刃がテラスの床板へとさらに数ミリ深く食い込んでいった。
剣を杖代わりにしていなければ、とっくに無様に床へ転がっていただろう。
視界が白く明滅していた。眼球の裏側でドクドクと不快な拍動が暴れ狂い、みぞおちの奥底では、灼熱に焼かれた鉄の杭をねじ込まれているかのような激痛が渦巻いている。
それでも、騎士団長としての矜持が、見知らぬ不審者の前で倒れ伏すことを許さなかった。
青氷の瞳を濁らせまいと見開き、立ちはだかる小娘を睨み据えようとする。
「動くな、と……言っている……貴様、何者……だ……っ!」
威嚇の言葉は、しかし最後まで続かなかった。
突如として腹筋が異常な痙攣を起こし、息を吸い込むことすらできなくなったのだ。肺腑が酸素を求め、喉の奥からヒュウ、と情けない風鳴りが漏れる。
その瞬間、目の前の少女が動いた。
「――っ、ちょっと! 大丈夫ですか!?」
逃げるでもなく、怯えるでもない。
真昼は手にしていた棕櫚の箒を放り出すと、甲冑を纏った大男の威圧感など完全に頭から抜け落ちた様子で、一目散に駆け寄ってきたのだ。
慌てふためいた足取りでウッドデッキを駆け抜け、膝をついて崩れかけそうになるジークフリートの分厚い鉄の腕へ、迷うことなくその華奢な両手を伸ばした。
「グゥゥゥルルルルッ……!」
小屋の扉の前で、低い雷鳴のような唸り声が響き渡った。
純白の毛並みを逆立て、神獣ベルがテラスの床を爪で引っ掻きながら、ジークフリートに向かって鋭い敵意を剥き出しにしている。
その瑠璃色の瞳には、触れれば魂ごと凍てつかせるような神罰の冷気が宿っていた。主たる真昼に害をなそうとするならば、この場で塵芥に変えてくれるとでも言わんばかりの威圧。
だが、真昼は振り返りもせず、叱りつけるようにその小さな白い影へ声を張り上げた。
「ベル、待って! 威嚇しちゃダメ! この人、敵じゃないよ、ただ具合が悪いだけみたいだから!」
「グルッ……くぅ……?」
ぴたり、と地響きのような唸り声が止まった。
ベルは真昼の真剣な横顔を見つめ、納得がいかないとばかりに尖った耳を左右に揺らしたものの、主の懇願に折れたのか、ふしゅる、と鼻から長い息を吐き出して牙を引っ込めた。
そして、前足を揃えて床に座り直し、警戒の眼差しを緩めぬまま、じっとふたりの様子を見守る姿勢に入った。
「…………な……」
ジークフリートの思考が、激痛の向こう側で完全に硬直した。
白狼の神獣。
太古の神話において、森を侵す軍勢を一息の吹雪で氷山へと変えたと伝えられる、絶対不可侵の森の守護者。
歴代の領主ですら、その姿を一目拝むことすら叶わなかった伝説の存在が――。
割烹着姿の、魔力の一片すら感じられない平民の小娘に「待って」と一喝されただけで、まるで飼い犬のように従順に引き下がったのだ。
あり得ない。到底、理解が追いつかない。
貴様は何者だ、神獣にどんな呪詛をかけたのだと問い詰めようとした。だが、舌が麻痺したように強張り、声にならない。
胃壁を内側から爪で引き裂かれるような強烈な痛みの波が、容赦なく第二波、第三波として押し寄せてくる。
脂汗が滝のように顎を伝い、ジークフリートの視界が急速に黒く塗り潰されていった。
「顔が真っ白ですよ! あ、危ないから剣を離してください……って、重っ!?」
真昼はジークフリートの身体を支えようと肩の下に潜り込んだが、総鉄製の全身甲冑と鍛え抜かれた巨躯の重みは、成人女性一人の腕力でどうにかなるものではなかった。ずしり、と岩石のような質量が肩にかかり、真昼の膝がぐらつく。
それでも彼女は手を離さなかった。
冷たい鉄の感触の隙間、首筋から漏れ出る彼の体温が、驚くほど冷え切っていることに気づいたからだ。
「事情聴取でも何でも後でいくらでも聞きますから! とにかく、座ってください!」
真昼は必死に踏ん張り、ジークフリートをテラスの頑丈な木製ベンチへと誘導した。
大剣の柄から強引に指を一本ずつ剥がし、切っ先を安全な壁際へと立てかける。
ドサリ、と鈍い金属音を響かせてベンチに腰を下ろしたジークフリートは、もはや反論する力すら残っていない様子で、背もたれに頭を預け、浅く荒い息を繰り返していた。
彫刻のように整った顔立ちは青黒く沈み、唇は砂漠のように渇いて白くひび割れている。
胸当てを外す余裕すらないのか、彼の右手は依然として、甲冑の合わせ目からみぞおちのあたりを万力のような力で握りしめていた。
「……はぁっ……く……ふぅ……」
「息、整えてくださいね。ゆっくり……吸って、吐いて……」
真昼はベンチの横にしゃがみ込み、背中をさすろうとしたが、鉄の甲冑越しでは温もりも伝わらない。
ふと、彼の腰回りにぶら下がっている革袋に目が留まった。
水筒らしき鉄の水瓶は、振ってみてもチャプンとも音がしない。完全に空だった。
雑嚢の口からわずかに覗いていたのは、まるで石炭のように黒く硬質化した、親指ほどの干し肉の欠片。歯を立てることすら躊躇われるような、泥に汚れた非常食の残骸だった。
「……あなた、いつから何も食べてないんですか?」
真昼の問いかけに、ジークフリートは薄く目を開けた。
焦点の合わない青氷の瞳が、真昼の心配そうな顔を捉える。騎士としての威厳を保とうとするプライドが、かすかな抵抗となって唇を動かさせた。
「……三日……いや、四日、か……。領境の山林に……王都からの不穏分子が潜伏したとの報を受け……不眠不休で追跡を……」
「四日!? 不眠不休で!?」
「泥水を啜り……干し肉をひと欠片……噛んだだけだ……。任務を果たすまでは……一刻の猶予も……」
「馬鹿言わないでください!!」
パシッ、と静かな森に乾いた音が響いた。
真昼が思わず、ジークフリートの鉄の手甲を平手で叩いていた。
叩かれたジークフリート本人はおろか、遠巻きに見ていたベルまでもが「わふ?」と目を丸くする。
「な……なにを……」
「四日間もご飯も食べずに歩き回って、泥水と干し肉だけ!? それ、ブラック企業どころの騒ぎじゃないですよ! 命を何だと思ってるんですか!」
「ぶらっく……? きぎょう……?」
聞き慣れない異世界の単語にジークフリートが呆気にとられるのも構わず、真昼は怒気を含んだ瞳で彼を睨みつけた。
怒っているのは、彼に対してではない。
自分をすり減らし、限界を超えてなお「任務だから」「責任があるから」と自分を痛めつけ続ける、その痛々しい姿に対してだった。
かつての自分が重なる。終電の冷たいベンチで、胃の痛みに耐えながら「明日も行かなきゃ」と思い詰めていた、あの呪いのような思考回路。
放っておけば、この人は本当に胃に穴が空いて野垂れ死ぬ。
「動いちゃダメですからね。絶対に、そこから一歩も動かないでください!」
真昼は立ち上がると、振り返ってテラスを駆け下りた。
木立の小道を全速力で疾走し、奥納戸の押し入れゲートへ飛び込む。
畳の部屋を転げるようにして古民家の台所へ走り込んだ。
(胃が空っぽで、極度のストレスで荒れ果ててる……。刺激の強いものは絶対にダメ。固いものも消化できない。でも、冷たい水じゃ内臓が冷えて逆効果……!)
真昼は勝手口の流し台の前で、大きく深呼吸をした。
焦るな。こういう時こそ、丁寧に、けれど素早く。
幸いなことに、今朝の真昼は早起きをして、ある料理の「仕込み」をあらかじめ終わらせていたのだ。
台所の北側。大型の保温調理鍋と、二重構造のステンレス製スープジャー。
蓋を開けた瞬間、ふわっと立ち上る湯気とともに、どこか懐かしく、胸の奥をぎゅっと掴まれるような香ばしい匂いが台所いっぱいに広がった。
――根菜たっぷりの、田舎風豚汁。
早朝、あの澄み切った水出し昆布出汁を火にかけ、厚削りの本枯節をひとつかみ放り込んで引いた、力強い一番出汁。
鉄の深鍋に純正のごま油をごく少量引き、まずは薄切りの豚バラ肉をじっくりと炒める。肉の表面が白くなり、良質な脂がじわりと溶け出したところで、乱切りにした大根、人参、そして皮をこそげてささがきにした泥付きごぼうを投入したのだ。
油を纏わせながら炒めることで、根菜の繊維の奥深くに眠る大地の甘みが引き出される。特にごぼうは、油と熱に出会うことで、暴力的なまでに芳醇な野趣の香りを放ち始める。
そこへ、黄金色の出汁を一気に注ぎ入れる。
ジュワッという快音とともに立ち上る湯気。アクを丁寧に、幾度もすくい取りながら、火を弱めてコトコトと煮込むこと三十分。
仕上げに溶き入れたのは、祖母タエの手前味噌――大豆の粒がわずかに残り、ふくよかな塩気と深い麹の甘みを持つ、二年熟成の田舎味噌だった。
さらに、薄く斜め切りにした長ネギを火を止める直前に散らし、余熱で甘みを引き出してある。
スープジャーの保温機能のおかげで、豚汁は今まさに、すべての具材に出汁と味噌が芯まで染み渡り、最高の食べ頃を迎えていた。
「これなら……絶対に、あの人の胃袋を救える」
真昼は急いで作業台へ向かった。
もうひとつ、絶対に欠かせない相棒がある。
木製のおひつの蓋を開ける。
立ち上る純白の湯気の向こうに現れたのは、萬古焼の土鍋で今朝炊き上げたばかりの、ピカピカと輝く白米だった。米粒のひと粒ひと粒がピンと立ち、宝石のように透明感を湛えている。
真昼は清潔な布巾で手を濡らし、粗塩を指先にちょんと取って、両の掌に薄く伸ばした。
余計な具材など入れない。
ただ、炊きたての熱い米を両手で包み込み、優しく、空気を抱き込ませるようにして三度、四度と角を整える。
キュッ、キュッ。
掌を通して伝わる熱が、真昼の肌をじんわりと温める。
手塩だけで結んだ、手のひらサイズの三角おむすび。米本来の甘みと、出汁のような粗塩のミネラルだけで勝負する、究極の素朴飯だ。
大きめの竹編みのお盆の上に、大ぶりの木椀を取り出す。
スープジャーから、熱々の豚汁をたっぷりと注ぎ入れた。
琥珀色に透き通った大根、鮮やかな人参、柔らかく煮崩れた豚バラ肉、そして出汁を吸ってとろとろになった長ネギ。表面には、ごま油の上品な油膜がキラキラと浮かび、湯気を閉じ込めている。
その隣に、清潔な竹皮を敷き、握りたての塩むすびをふたつ並べた。
木のスプーンと、祖母の形見の塗り箸を添える。
さらに、白湯を注いだ陶器の湯呑みを乗せると、真昼はお盆をしっかりと両手で抱え込んだ。
「よしっ……冷めないうちに!」
再び納戸の押し入れゲートをくぐる。
敷居をまたぎ、朝霧がわずかに残る異世界の森へと足を踏み入れた。
***
ログハウスのテラスに戻ると、ジークフリートは先ほどと同じ姿勢でベンチに座り込んでいた。
だが、その呼吸はさらに乱れ、荒い呼気とともに頭をだらりと垂れている。甲冑の隙間から覗く首筋は、まるで死人のように血の気が引いていた。
テラスの隅に控えていたベルが、真昼の気配を察して立ち上がり、「わふっ」と短く鼻を鳴らした。お盆から漂う凄まじい出汁の香りに、神獣の鼻先がピクピクと激しく反応している。
「団長さん! 戻りました、待たせてごめんなさい!」
真昼はベンチの前の木製テーブルに、抱えてきたお盆をことりと置いた。
その瞬間だった。
――ふわあぁっ……。
朝の冷涼な森の空気を押し除けるようにして、圧倒的な温もりのヴェールが広がり始めた。
深く香ばしいごま油の薫香。
土の力強さを思わせるごぼうの芳香と、昆布と鰹節が織りなす重厚な出汁の香気。
そして、それらをすべて優しく包み込む、熟成された大豆と麹の、どこまでも甘やかで温かい味噌の匂い。
さらに、握りたての白米から立ち上る、混じり気のない純粋な湯気。
「…………っ!?」
垂れ下がっていたジークフリートの頭が、弾かれたように跳ね上がった。
青氷の瞳が、驚愕と混乱に揺れ動く。
嗅いだことがない匂いだった。
貴族の夜会で供される、香辛料を過剰に使った野蛮な肉料理の匂いでもなければ、宮廷料理人が作る、バターとクリームで塗り固められた重苦しいソースの匂いでもない。
もっと根源的で、原始的で、内臓の奥底が直接「それを受け入れろ」と命じてくるような、抗いようのない生命の香り。
「これ……は……」
「具だくさんの豚汁と、塩むすびです」
真昼は木椀をジークフリートの目の前、手を伸ばせばすぐに届く位置へと滑らせた。
椀から立ち上る白い湯気が、彼の青白い頬を優しく撫で、強張っていた表情をわずかに緩ませる。
「胃がびっくりしないように、まずは汁を少しだけ飲んでみてください。ごぼうも大根も、箸で切れるくらい柔らかく煮込んでありますから。……さあ、冷めないうちにどうぞ」
真昼は木のスプーンを椀に添え、自分は少し離れた位置に控えて、優しく微笑みかけた。
ジークフリートの喉仏が、ごくり、と激しく上下した。
乾ききっていた口腔内に、信じられないほどの唾液がじわりと溢れ出してくる。
四日間の飢餓。限界を超えた肉体。
理性は「正体不明の平民が差し出した毒入りの汁かもしれん」と警告を発していた。騎士としての規律が、警戒を怠るなと叫んでいた。
だが、みぞおちを押さえつけていた彼の指先は、すでにその警告を無視していた。
震える鉄の手甲をゆっくりと持ち上げ、ジークフリートの大きな掌が、湯気を立てる木椀へと、吸い寄せられるように伸びていった――。




