第22話:白米三杯の忠誠と、背後に立つ氷の壁
「う、うわああああっ! な、なんすかこれぇぇぇっ!? 肉汁の爆弾っすか!?」
静かな森の朝に、新米騎士ヨハンの絶叫が轟いた。
指先を火傷しそうなほど熱々のから揚げをひとかじりした瞬間、薄い片栗粉の衣がカリッと小気味よい破裂音を奏で、中から灼熱の肉汁が津波のように溢れ出してきたのだ。
二度揚げによって極限まで閉じ込められていた旨味の塊。
下茹でや煮込みとはまた違う、強火の油で一気に凝縮された鶏もも肉の力強い弾力。
芯まで染み渡った濃口醤油の香ばしさと、すりおろし生姜の鮮烈な刺激が、空腹でペコペコに干からびていた十九歳の胃袋を、真正面からダイナマイトのように撃ち抜いていた。
「あつっ、うまっ、あつっ……! うわ、噛めば噛むほどジュースみたいに肉汁が出てくる……! 喉が、喉が熱いのに、飲み込むのがもったいないくらい美味い……ッ!」
ヨハンは目を血走らせ、ハフハフと白い息を吐き出しながら、骨まで噛み砕かんばかりの勢いでひとかけらのから揚げを飲み下した。
喉を通る刹那、胃袋の奥底にずしりと落ちる確かな熱量。
二時間以上も森を彷徨い、死にかけていた少年の全身の細胞が、歓喜の産声を上げているのが目に見えて分かった。
「ふふ、そんなに慌てて食べたら喉に詰まっちゃいますよ。……ほら、ちゃんと座って。お腹いっぱいになるまで揚げてあげますからね」
真昼はそう言うと、ウッドデッキの大きな丸太テーブルの席へとヨハンを促した。
泥だらけの隊服のまま、おずおずとベンチに腰を下ろすヨハン。
真昼はくるりと踵を返し、ログハウスのキッチンへと足早に戻っていった。
***
バルトが組み上げてくれた『石造り二連かまど』の火力は、まさに圧巻の一言だった。
左側の火床に薪をくべ、吸気弁を調節すると、深型の中華鍋に張られたたっぷりの油が、一定の高温を力強く保ち続けている。
カセットコンロのように温度低下に怯える必要はもうない。
真昼は下味を揉み込んでおいた残りの鶏もも肉を、次々と片栗粉のボウルへくぐらせていった。
余分な粉をトントンと払落し、油の海へと滑り込ませる。
――ジュワァァァァァッッッ!!
心地よい揚げ音が部屋中に満ちていく。
一度目の低温揚げで中までふっくらと火を通し、網じゃくしで引き上げて三連バットの上で三分間休ませる。余熱で肉汁を閉じ込めたあと、高温の油へ一気に投入して二度揚げ。
パチパチパチッと高い音を立てて跳ねる油の泡。
煙突のドラフトが完璧に機能しているおかげで、部屋に油煙がこもることは一切ない。甘辛い醤油と焦げた生姜の香ばしい薫煙だけが、森の青空へと抜けていく。
「よしっ、揚がった!」
網じゃくしですくい上げた唐揚げは、見事なまでに均一な、艶やかな濃い黄金色を纏っていた。
箸で持ち上げると、指先に伝わってくるのは羽毛のような軽やかさと、表面の衣がチリチリと引き締まっている確かな手応え。
油切り用のバットの上に山盛りに積み上げられていく。
「唐揚げには、やっぱりこれがないとね」
真昼は素早く別の作業に取りかかった。
古民家の冷蔵庫から持参した、朝採れの新鮮なキャベツ。
芯を取り除き、葉をきつく丸めてから、バルトが極限まで研ぎ澄ましてくれた燕三条製の三徳包丁を構える。
トントントントントン――!
まるで職人技のような、リズミカルで軽快な刻み音。
研ぎ直された刃先は、キャベツの繊維を押し潰すことなく、紙のように薄く、糸のように細い『千切りキャベツ』を生み出していく。
冷たい湧き水に三十秒だけさらしてシャキッとさせ、素早くザルに上げて水気を切る。
さらに、右側の火床。
弱火のとろ火で温められていた小鍋には、利尻昆布と本枯節の黄金出汁。
そこへ、たっぷりの乾燥わかめと、薄切りの長ネギを投入する。
味付けは、ごく少量の粗塩と薄口醤油、そして仕上げに純正のごま油を二滴たらし、白い炒りごまを指先でひねりながら散らす。
あっという間に、澄んだ香気漂う『わかめスープ』の完成だ。
そして、何よりも重要な主役――。
萬古焼の土鍋の蓋を開けると、湧き水で炊き上げられたばかりのピカピカの白米が、湯気を濛々と立ち上らせていた。
真昼は一番大きな深鉢のような陶器の丼を手に取ると、しゃもじで底から大きく空気を含ませるようにして、白米を山盛りに装った。
一粒一粒が真珠のように輝き、丼の縁を越えてこんもりと盛り上がっている。
「お待たせしました! から揚げ定食、できたよ!」
大きなお盆の上にすべての器を並べ、真昼はウッドデッキへと運んだ。
***
丸太テーブルの上にことりと置かれたお盆を見た瞬間、ヨハンの喉仏が「ごくり」と激しく上下した。
大皿の中央にそびえ立つのは、揚げたてで湯気を吹き上げる黄金色のから揚げの山。ゆうに七、八個は盛られている。
その脇には、雪のように白く瑞々しい山盛りの千切りキャベツ。
小皿には、現代のマヨネーズと、くし形に切ったレモン。
隣には、胡麻の浮いた琥珀色のわかめスープ。
そして――視界を完全に圧倒する、純白の白米が漫画盛りにされた巨大な丼。
「……こ、これ……全部、俺が食っていいんすか……?」
ヨハンは震える声で尋ねた。
騎士団の宿舎で支給される朝食といえば、石のように硬い黒パンと、塩辛いだけの冷めた豆のスープ、そして筋張った干し肉が定番だった。
目の前に並んでいるのは、王都の高級亭ですらお目にかかれないような、湯気と香気にあふれた天上のご馳走だ。
「もちろんですよ。たくさん揚げたから、遠慮しないで全部食べてくださいね」
真昼が塗り箸を差し出すと、ヨハンは両手で恭しくそれを受け取り、胸の前で手を合わせた。
「い、いただきますッッ!!」
十九歳の青年の、地鳴りのような咆哮。
ヨハンは迷うことなく、箸で山の中から一番大ぶりのから揚げをガシッと挟み上げた。
大口を開け、豪快に口の中へと放り込む。
――ガリッッッ! ジュワァァァッッッ!!
ウッドデッキに響き渡る、すさまじい咀嚼音。
薄い片栗粉の衣が砕け散った瞬間、閉じ込められていた熱々の肉汁が、まるで鉄砲水のように口いっぱいに弾け飛んだ。
醤油のガツンとした塩気。生姜の爽快な刺激。ごま油の香ばしさ。
噛むたびに溢れ出す肉の旨味に、ヨハンは一瞬白目を剥きかけたが、その本能がすかさず彼の手を動かした。
どんと構える、大盛りの丼飯。
ヨハンは左手で丼を鷲掴みにすると、肉汁が口内に残っているうちに、純白の白米を箸で山盛りにすくい上げ、口の中へと一気にかき込んだ!
――ハフッ、ハフハフッ!!
熱い米粒が、舌の上で踊る。
湧き水で炊き上げられた白米は、驚くほど一粒一粒が立っており、噛み締めるほどに澄んだ甘みが溢れ出してくる。
その米の甘みに、から揚げの濃厚な肉汁と生姜醤油のタレが絡み合った瞬間――。
「う……うまい……っ! 米が、米が止まらねぇぇぇっ!!」
ヨハンの全身の筋肉が歓喜に震えた。
ただ肉を食べるだけでも至福なのに、この白米と一緒に喰らうことで、美味さが十倍、百倍へと跳ね上がる。
肉を一口かじっては、米を二口、三口とかき込む。
口の中が脂と熱さで満たされたところで、すかさず千切りキャベツをワシッと掴んで頬張る。
――シャキッ、シャキシャキッ!
驚くほど細く切られたキャベツが、冷たい湧き水の瑞々しさを解き放ち、口の中の油分を一瞬で綺麗に洗い流していく。
さらに、わかめスープを椀ごと持ち上げ、ずずずっと音を立てて啜る。
出汁の奥深い旨味と、ごまの香ばしさが喉を潤し、次の肉への欲望をさらに掻き立てる。
「うめぇ……! なんだこれ、無限に食えるぞ……ッ!」
ヨハンは完全に我を忘れていた。
小皿のマヨネーズをから揚げの端に少しつけ、レモンをキュッと絞って頬張る。
マヨネーズのコクと酸味が加わることで、肉のパンチ力がさらに倍増し、米を吸い込むスピードはもはや突風のようだった。
ガツガツ、ガツガツッ!
瞬く間に、一杯目の山盛り丼が空っぽになった。
「あ、あの……お姉さん……!」
「はい、おかわりですね!」
真昼が笑顔で空の丼を受け取り、土鍋から再び漫画盛りの白米をよそって渡す。
二杯目の白米も、まるでブラックホールに吸い込まれるように消え去っていった。
そして――。
「す、すみません……もう一杯だけ……ッ!」
「はいっ、三杯目!」
結局、ヨハンは大皿に山盛りだったから揚げをすべて平らげ、大盛りの丼飯を実に三杯、スープも最後の一滴まで飲み干したのだった。
***
「……ふはぁぁぁぁぁっ……!」
空になった丼を置き、ヨハンは天を仰いだ。
胃袋がはち切れんばかりに満たされ、四肢の末端まで温かい血液がドクドクと巡っている。
迷子になって死にかけていた恐怖も、過酷な訓練の疲労も、すべてが吹き飛んでいた。
胸の奥底から込み上げてくるのは、ただひたすらに、命を救われたことへの圧倒的な感謝と感動だった。
ポロポロと、大粒の涙がヨハンの目から零れ落ちる。
彼はガタッと立ち上がると、ナラのウッドデッキの上に、勢いよく両膝をついた。
そして、床に両手をつき、真昼を見上げて魂の底から叫んだのだ。
「うっ、うっ……俺、こんな美味い肉食ったことないです……! 実家の飯とも、宿舎の飯とも、次元が違いすぎる……! あ、あなたは何者なんですか……!? もしかして、森の女神様ですか!? 天から俺を救いに来てくれた女神様なんですね……!?」
「えっ、め、女神!? 違いますよ、ただの――」
「いいえ、女神様です! 俺を飢えから救い、こんな天上の料理を恵んでくれた……! 俺、決めました! 俺の剣も命も、全部あなたに捧げます! 一生、あなたについていきます……!!」
十九歳の若き情熱が暴走していた。
感極まったヨハンは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、熱烈に真昼の手を握りしめようと、両手を思い切り伸ばした――。
その、刹那だった。
――スッ……。
真昼の背後から、音もなく伸びてきたひとつの影があった。
それは、使い古されながらも手入れの行き届いた、分厚い黒革の手袋。
その手袋が、空中で真昼へと迫っていたヨハンの右手首を、寸分の狂いもなく上空からガシッと鷲掴みにしたのだ。
「……え?」
ヨハンの動きが、ピタリと止まった。
万力。
いや、城門の跳ね橋を巻き上げる鉄の鎖でギリギリと締め上げられたかのような、異常な握力。
骨が軋むような痛みに、ヨハンの顔から一瞬で血の気が引いた。
「い、痛っ……!? な、なん――」
抗議の声を上げようとして、ヨハンは見上げた。
真昼の背後に立っていた人物の顔を。
そこにいたのは――。
太陽の光を浴びて神々しくきらめく、豪奢な金糸の髪。
古代の神像のように完璧に整った、冷徹無比な美貌。
そして、身につけているのは――糊のきいた、真っ白なリネンエプロン。
だが、そのエプロン姿の美青年が浮かべていたのは、春の木漏れ日などでは断じてなかった。
「…………」
ニコリ。
唇の両端をわずかに吊り上げた、完璧な笑み。
しかし、その青氷の瞳の奥底には、光の一片すら存在していなかった。
絶対零度。
触れるものすべてを一瞬で凍結させ、砕き散らすような、底知れぬ氷河の冷気が、その笑顔の背後から陽炎のように立ち上っていた。
「………………ひっ?」
ヨハンの喉から、引き攣った悲鳴が漏れた。
見間違えるはずがなかった。
シルヴァ辺境警備騎士団長。名門ヘスラー公爵家の至宝。
王国最強の剣士のひとりであり、新兵たちにとっては雲の上の神にも等しい、我が最高司令官――ジークフリート・フォン・ヘスラーその人だった。
「だ……だ、だ……団長ぉぉぉぉぉぉッッ!?」
「……ヨハン」
ジークフリートは、凍てつく笑顔を崩さぬまま、静かに、地を這うようなバリトンで囁いた。
手首を握る革手袋の力が、さらにミシリと強まる。
「早朝の見回り任務を命じたはずだが。……警備の持ち場を大幅に離脱し、立ち入り制限区域の奥深くまで侵入し、挙句の果てに何をしている」
「ひ、ひぃぃっ! あ、朝霧で方向を見失いましてっ! 道に迷って遭難しかけていたところを、こちらのお姉さ――いえ、女神様に――」
「――女神だと?」
ピシリ、と大気が凍結する音がした。
ジークフリートの青い瞳が、すっと細められる。
「気安く呼ぶな。……そして、気安く触れようとするな」
「ぎゃあああっ! 手首が、手首の骨が折れます団長ぉぉぉっ!!」
悲鳴を上げる新米騎士。
ジークフリートは手首を無造作に放り出すと、白エプロンの胸元をそっと指先で正し、冷酷無比な判決を下した。
「任務放棄、ならびに不法侵入。……軍律違反だ。貴様には相応の処罰を科す」
「は、反省してます! 営倉入りでも何でも受けて立ちますッ!」
「営倉など生ぬるい」
ジークフリートは氷の笑みを浮かべ、ウッドデッキの周囲の草むらを冷たく指差した。
「腕立て伏せ二百回。それが終わり次第、この小屋の周囲半径五十メートルに生い茂る雑草を、根こそぎ手作業で引き抜いておけ。夕刻までに一本でも雑草が残っていれば……明朝の訓練は私の個人的な指導とする」
「腕立て二百回に草むしりぃぃぃっ!? そ、そんな理不尽な――」
「何か不服でもあるのか?」
ゴゴゴゴ……とジークフリートの背後から噴き出す、物理的な冷気の嵐。
先ほどまでの女神の温もりから一転、目の前に現れたのは紛れもない地獄の閻魔大王だった。
ヨハンは涙目で飛び起きると、踵を揃えてビシッと直角の敬礼を返した。
「め、滅相もございませんッ! ただちに腕立て伏せを開始し、雑草を分子レベルで根絶やしにしてまいりますッッ!!」
叫ぶやいなや、ヨハンはウッドデッキから転がり落ち、広場の地面に両手をついて猛烈なスピードで腕立て伏せを始めた。
「いーち! にー! さーん!」と、涙声の掛け声が森に響き渡る。
「……ふぅ。騒々しい奴だ」
ジークフリートは何事もなかったかのようにエプロンの裾を払い、真昼へと向き直った。
その瞬間、先ほどの氷の冷気は嘘のように霧散し、青氷の瞳にはいつもの穏やかで、少しだけ恥ずかしそうな光が戻っていた。
「真昼。……余計な害虫が騒ぎ立ててすまなかったな」
「あ、あはは……ジークさん、ちょっと厳しすぎませんか? ヨハンくん、本当に迷子になってお腹を空かせていただけみたいですし……」
「軍の規律は厳格でなければならん。……それに」
ジークフリートはわずかに視線を逸らし、耳の先端を林檎のように赤らめながら、ぽつりと呟いた。
「……あの男が、あなたの手を握ろうとしたのが……その、許しがたかったのだ」
「…………っ」
真昼の胸の奥が、トクンと跳ね上がった。
大柄な騎士団長が、白エプロンを着けたまま、照れ隠しのように俯いて唇を噛み締めている。
分かりやすすぎる独占欲。不器用で、けれど真っ直ぐすぎるその感情が、たまらなく愛おしくて、真昼は思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえた。
足元では、真昼から削りたての鰹節をもらったベルが、広場で必死に腕立て伏せをするヨハンを眺めながら、
「ふぁぁぁ……」
と、わざとらしいほど大きなあくびをひとつ放ったのだった。
初夏の陽光が、ナラのウッドデッキをあたたかく照らし出していく。
秘伝のから揚げと白米の美味さに胃袋を掴まれ、忠誠を誓った新たな迷い子と、それを容赦なくシゴくエプロン姿の騎士団長。
ふたつの世界を結ぶ小さな小屋の朝は、美味しい匂いと賑やかな笑い声に包まれながら、またひとつ、確かな日常のページを重ねていくのだった。




