第21話:匂いに釣られた遭難者と、秘伝のから揚げ
深い森の夜明けは、ひんやりとした朝露の冷気とともに訪れる。
木々の天蓋をすり抜けて差し込む淡い朝の光が、新調されたナラのウッドデッキを青白く照らし出していた。
ログハウスの扉を開けると、室内には昨日まであったような湿気た煤の匂いは微塵もなく、代わりに心地よい乾いた薪の香りと、職人の手によって焼き締められた黒鉄の匂いが満ちていた。
鍛冶師バルトが心血を注いで組み上げてくれた『石造り二連かまど』。
赤茶色の耐火レンガは隙間なくモルタルで固められ、天板に据え付けられたぶ厚い鉄板は、朝の光を鈍く反射して堂々たる存在感を放っている。
「よし……! 今朝は、このかまどの本領を発揮してもらおうかな」
真昼は紺絣の割烹着の袖をきゅっと捲り上げ、気合を込めて両頬を軽く叩いた。
昨日のお赤飯と豚汁で、かまどの基本性能の高さは十分に証明された。だが、バルトが豪語していた「薪の火力を思いのままに操る」という真価を試すには、どうしても挑戦してみたい料理があったのだ。
それは――大量の油を使い、繊細な温度管理が求められる『揚げ物』だった。
今までのカセットコンロでは、大きな鉄鍋に油をたっぷりと注いで揚げるにはどうしても火力が心もとなかった。油の温度が一度下がると復帰に時間がかかり、衣が油を吸ってベチャつきやすかったのだ。
だが、この二連かまどなら、左側の深型燃焼室に薪をくべれば、中華料理店の厨房にも劣らない強烈な火力を瞬時に生み出すことができる。
「今日の主役は、もちろんこれ!」
真昼が業務スーパーで買い込んできたのは、新鮮でドリップの出ていない大ぶりの『国産鶏もも肉』が三枚。ずっしりと一キロ近い重量がある。
まな板の上に鶏肉を広げ、まずは下処理から取りかかる。
黄色い余分な皮下脂肪や筋を、バルトが極限まで研ぎ澄ましてくれた三徳包丁で手早く削ぎ落とす。刃先を滑らせるだけで、何の抵抗もなく脂肪がスルスルと外れていく。切れ味の良さに、思わず口元が緩む。
一口大――それも、揚がったあとの縮みを考慮して、子どもの拳ほどもある大きめの乱切りにしていく。皮で肉全体をくるりと包み込むように丸めて切るのが、肉汁を閉じ込める真昼のこだわりだ。
切った鶏肉を大きなガラスボウルへ移し、ここから秘伝の漬け込みダレの調合に入る。
小鉢に計量していくのは、業務用の濃口醤油を大さじ四、純米料理酒を大さじ三。
そこへ、たっぷりのすりおろし生姜を大さじ二杯分、惜しげもなく投入する。生姜はチューブではなく、古民家の台所で皮ごとすりおろしたばかりのものだ。繊維の奥から立ち上る、鼻腔を鋭く刺激する鮮烈な清涼感。
さらに、すりおろしニンニクを小さじ一杯、隠し味にきび砂糖を小さじ半分、そして粗挽きの黒胡椒を二振り。
仕上げに、純正のごま油を小さじ一杯、タレの上にたらりと垂らした。
「しっかり揉み込んで、中まで味を染み込ませなきゃ」
真昼はボウルの中に両手を入れ、鶏肉とタレを力強く、リズミカルに揉み込んでいった。
ギュッ、ギュッ、と肉の繊維をほぐすように指先を動かす。
調味料の水分が肉の細胞へとぐんぐんと吸い込まれ、ボウルの底に溜まっていたタレがほとんど見えなくなるまで、時間をかけて揉み倒す。
醤油の香ばしさと生姜の刺激、そしてごま油のまろやかなコクが混ざり合い、それだけで生唾を呑み込みそうになる芳醇な香りがボウルから立ち上った。
落としラップをして、常温で約二十分。肉の温度を室温に戻しながら、芯まで味を馴染ませていく。
その間に、かまどの火入れだ。
左側の火床に、ジークフリートが几帳面に長さを揃えて割ってくれた乾燥ナラの薪をくべ、火をつける。
下部の吸気レバーをカチリと開くと、ゴォッ……と地鳴りのような吸気音とともに、薪が一気に紅蓮の炎を吹き上げた。
黒鉄の天板の上に、注ぎ口のついた深型の中華鍋をどっしりと据える。
そこへ、業務用のサラダ油を惜しげもなく並々と注ぎ入れた。
天板の熱が中華鍋の底へと素早く伝わり、油の表面がゆらゆらと陽炎のように揺らぎ始める。
「さあ、ここからが一番大事な『二度揚げ』!」
下味が染み込んだ鶏肉のボウルに、真昼は片栗粉を豪快に振り入れた。
小麦粉を混ぜる家庭もあるが、真昼は「サクサクでクリスピーな竜田揚げ風」を好むため、あえて片栗粉単体を使用する。
全体に薄く粉をまとわせたあと、揚げる直前にもう一度、乾いた片栗粉を肉の表面に軽くまぶす。余分な粉をパッパッと払うことで、油の汚れを防ぎ、極限まで薄くてパリッとした衣に仕上がるのだ。
油の中に菜箸の先を浸してみる。
先端から、細かな泡がシュワシュワと絶え間なく立ち上る。
温度は百六十度――一度目の揚げに最適な、中温だ。
真昼はトングで鶏肉をひとつ掴み、静かに油の海へと滑り込ませた。
――シュワァァァァァッッッ……!
静寂を破る、涼やかで小気味のいい音。
間髪を入れず、二つ、三つ、四つと、肉を鍋肌から投入していく。
一度目の揚げの目的は、「衣を固め、肉の芯までゆっくりと熱を通すこと」。
決して箸で触りすぎてはいけない。衣が破れて肉汁が逃げてしまうのを防ぐため、真昼はじっと鍋を見守り、時折菜箸で優しく肉同士の隙間を空けるだけに留める。
パチパチ、ピチピチと、油の爆ぜる音が次第に高く、軽快なリズムへと変わっていく。
衣が白っぽく固まり、ほんのりと淡いキツネ色に色づいたところで、網じゃくしですくい上げる。
油を切るバットの上に並べられた唐揚げたちは、まだ薄い色合いだ。
だが、ここからが勝負だった。
「ここで三分間、余熱で火を通す……!」
肉をバットの上で休ませることで、表面に残った熱がじわりと肉の中心部へと伝わっていき、ジューシーな水分を抱え込んだまま、ふっくらとしっとり火が通る。
その間に、かまどの吸気レバーを最大まで全開にした。
ゴオオオオッ! と炎が勢いを増し、鍋の中の油が一気に加熱されていく。
油の温度を、百八十度から百九十度の「高温」へと引き上げるのだ。
三分後。
真昼は休ませておいた鶏肉を、今度は一気に高温の油の中へと戻し入れた。
――バチバチバチッッッ! ジュワァァァァァッッッ!!
先ほどとは打って変わった、耳を劈くような激しい爆ぜる音!
高温の油が、衣の表面に残っていた余分な水分を一瞬で蒸発させ、カリカリの気泡の層へと焼き上げていく。
焦がし醤油と熱された生姜、そして鶏の脂が混ざり合った、暴力的なまでに香ばしい匂いが煙突へと吸い込まれ――。
バルトが設計した耐火煙突の先端から、初夏の青空の下、森の木立の隅々へと、甘辛く香ばしい薫煙となって一気に吹き抜けていった。
***
その頃。
ログハウスから北東へ約一キロメートル、鬱蒼とした針葉樹が広がる森の外縁部において、ひとりの若者が絶望の淵に立たされていた。
「う……うぅ……っ。ここ、どこだよぉ……っ! 宿舎はどっちなんだ……!?」
シルヴァ辺境警備騎士団の新米騎士、ヨハン(十九歳)。
鍛え抜かれた長身に、支給されたばかりのまだ真新しい紺色の活動服。腰には標準装備の片手剣を佩いているが、その凛々しい装いとは裏腹に、彼の顔面は涙と泥でぐしゃぐしゃに汚れていた。
今朝の早朝パトロール。
先輩騎士から「外縁の防壁沿いを軽く見回ってこい」と命じられただけのはずだった。
だが、ヨハンには生まれつき、致命的な欠陥があった。
――圧倒的な、壊滅的なまでの『方向音痴』。
右と左の区別すら怪しくなる彼は、木々の影が少し変わっただけで完全に東西南北を見失い、気づいたときには立ち入り禁止区域の深い森の中へと迷い込んでしまっていたのだ。
「誰か……誰か助けてくれぇ……! 足が痛いよぉ……っ!」
二時間以上も同じような獣道をグルグルと彷徨い歩き、足腰は棒のよう。
だが、彼を何よりも苦しめていたのは、十九歳の健康な男子にとって最大の敵――『激しい空腹』だった。
育ち盛りのヨハンは、騎士団の食堂でも常に大盛り飯を四杯平らげる大食漢だ。
今朝は早朝任務だったため、乾パンひと握りとぬるい水しか胃袋に入れていなかった。
腹の虫が「グゥゥゥ……キュルルルルッ!」と、まるで飢えた野獣のようにけたたましく鳴り響く。
胃壁が擦れ合い、めまいがして視界がチカチカと明滅していた。
「だめだ……もう一歩も歩けない……。俺、こんな森の奥で、誰にも見つけてもらえずに野垂れ死ぬんだ……。母ちゃん、ごめん……俺、立派な騎士になれなかったよ……」
膝から崩れ落ち、苔むした大木の根元に手をつくヨハン。
喉が渇き、舌が上顎に張り付く。
いっそこのまま目を閉じて眠ってしまえば、楽になれるのだろうか。
意識が遠のきかけた、まさにその瞬間だった。
――スッ……。
木々の梢を渡る朝風が、ふわりとヨハンの鼻先を撫でた。
「……ん?」
微かに、ぴくりと鼻孔が動いた。
幻覚だろうか。
湿った腐葉土と青臭い木の葉の匂いの中に、絶対にこの森に存在するはずのない「何か」が混ざっていた。
ヨハンは顔を上げ、すんすんと空気を嗅いだ。
――フワァァァッ……。
「……………………っ!?」
ヨハンの全身の毛穴が、一瞬にしてカッと開いた。
それは、風に乗って漂ってきた、信じられないほど濃厚な『食べ物の匂い』だった。
熱い油がジュウジュウと爆ぜる香ばしさ。
焦げた醤油の、胸をかきむしられるような甘辛い薫香。
鼻腔を突き抜ける、ピリッとした爽快な生姜の芳香。
そして、それらをすべて包み込む、こんがりと揚がった上質な肉の脂の匂い。
「な……な、なんだこれ……!? 肉……!? 醤油……!? 油で、何かを揚げてる匂い……!?」
ドクンッ! と心臓が跳ね上がった。
空っぽだった胃袋が、その匂いを感知した瞬間、狂ったように痙攣し、口内には滝のような唾液が溢れ出してきた。
死にかけていたはずの身体に、雷に打たれたような電撃が走る。
「あっちだ……! あの木の向こうから、美味そうな匂いが漂ってきてる……!」
ヨハンは無我夢中だった。
方向音痴のことなど綺麗さっぱり忘れ去り、ただ己の嗅覚の赴くままに、四つん這いから立ち上がった。
足をもつれさせながら、藪をかき分け、茨をなぎ倒し、匂いの源点へと突き進む。
草に足を取られて転んでも、すぐに起き上がって前へ進んだ。
頭の中は、あの香ばしい匂いの正体を見ることで完全に支配されていた。
そして――。
木立の隙間を抜けた瞬間、ヨハンの視界がぽっかりと開けた。
「……あ……?」
木漏れ日が降り注ぐ美しい広場。
そこには、見事なナラの厚板で組まれた広大なウッドデッキと、可愛らしいログハウスが佇んでいた。
屋根の煙突からは、青空に向かって、あの暴力的なまでに美味そうな匂いを乗せた白い煙が、ゆらゆらと立ち上っている。
そして、デッキの向こう側――。
開け放たれた窓の奥で、割烹着を着た小柄な黒髪の少女が、大鍋から黄金色に輝く肉の塊を網じゃくしですくい上げている姿が見えたのだ。
カラリッ、と乾いた心地よい音が響く。
バットの上に引き上げられたその肉の塊は、きつね色にカラッと揚がり、表面の油がプツプツと泡を立てて湯気を噴き出していた。
「あ……あぁ……っ……」
ヨハンは吸い寄せられるように、ふらふらとウッドデッキの階段へと足をかけた。
泥だらけのブーツ。引き裂かれた隊服。
お腹を抱え、今にも崩れ落ちそうな青白い顔で、デッキの手すりにすがりつく。
「あ……あの……」
掠れた、消え入りそうな声が、ウッドデッキに響いた。
「……え?」
ログハウスの中から、小皿を持った真昼が振り返った。
足元にいた白い神獣ベルが「わふ?」と小首を傾げ、テラスの奥から薪を運んできたジークフリートが「……む?」と眉をひそめる。
見知らぬ新米騎士の無残な姿に、真昼は目を丸くした。
「あの……すみません……っ。道に、迷って……朝から何も食べてなくて……っ」
ヨハンは涙をボロボロとこぼしながら、真昼の手元にある、湯気を立てる揚げたての肉を、すがるような目で見つめた。
そして、震える声で懇願したのだ。
「ひ……ひとかけらでいいので……恵んでくれませんか……ッ! 死ぬほど、美味そうな匂いがして……もう、我慢できなくて……っ!」
十九歳の青年の、恥も外聞もかなぐり捨てた、魂の底からの叫び。
真昼は一瞬呆気にとられたが、その泥だらけの顔と、切実すぎるペコペコのお腹の音を聞いた瞬間、ふっと目元を柔らかく緩めた。
「ふふっ、そんなに遠くから匂いが届いちゃったんですね。……ちょうど今、揚がったところですよ」
真昼は手元の竹箸を使い、バットの上から一番大ぶりで、衣がサクサクに波打っている熱々の唐揚げをひとつ摘み上げた。
小皿に乗せると、ジュワリと肉汁が滲み出る。
「揚げたてだから、すごく熱いですよ。火傷しないように気をつけて食べてね」
真昼が優しく微笑みながら、小皿をヨハンの目の前へと差し出した。
黄金色に輝く、大ぶりの唐揚げ。
立ち上る湯気は、醤油と生姜の香ばしさを極限まで凝縮させ、ヨハンの鼻腔をこれでもかと刺激した。
「い……いただきます……っ!」
ヨハンは震える両手で小皿を受け取ると、冷ます暇も惜しいとばかりに、素手で熱々の唐揚げを掴み上げた。
指先が熱さでジンジンと痺れるが、そんなことはどうでもよかった。
大口を開け、黄金色の塊へと、思い切りかぶりついた――!
――カリッッッ!! ジュワァァァッッッ!!
静かな森の朝に、凄まじい衣の破裂音が響き渡った。
その瞬間。
ヨハンの全身の神経が、まるで雷に撃ち抜かれたかのように硬直した。
「……………………ッッ!?」
薄い片栗粉の衣を突き破った瞬間、前歯を押し返してくるような、信じられないほどの弾力。
そして、次の刹那――。
二度揚げの魔法によって極限まで閉じ込められていた、灼熱の肉汁が!
プシュッ! と音を立てて爆発し、ヨハンの口内いっぱいに怒涛の勢いで溢れ出してきたのだ!
(な……な、なんだこれぇぇぇぇぇっっ!?)
鶏もも肉の、力強く濃厚な脂の甘み。
そこへ、芯まで染み渡った濃口醤油のガツンとした塩気と、生姜の爽快な刺激が怒涛の勢いで押し寄せる。
ごま油の香ばしさが後味を包み込み、噛むほどに、噛むほどに、溢れ出す肉汁が喉を熱く潤していく。
サクサクの薄衣と、とろけるほどに柔らかな肉のコントラスト。
空っぽだった胃袋の奥底へと、生命のエネルギーがダイナマイトのように炸裂した。
「う……うまい……ッ! うまい、うまい、うまいッッ!!」
熱さにハフハフと息を吐きながら、ヨハンは我を忘れて叫んだ。
涙がボロボロと零れ落ち、泥だらけの頬を伝って地面へと落ちていく。
ただのひとかけらの肉が。
これほどまでに人間の心を揺さぶり、生きる希望を湧き上がらせるものなのか。
あっという間にひとかけらを飲み干したヨハンは、指先についた肉汁と衣の破片まで夢中で舐めしゃぶりながら、目の前に立つ真昼を、まるで天から舞い降りた救世主を見るような目で見つめたのだった。
初夏の風が、森の木々を優しく揺らしていく。
香ばしい唐揚げの匂いに導かれてやってきた、新たな迷い子の騎士。
ログハウスの台所からは、まだまだパチパチと、大鍋で肉が揚がる心地よい音が響き続けていた。




