第23話:古民家の縁側と、自立への確かな足音
森の広場からは、まだ遠くに「ひー、ふー、みー……っ!」というヨハンの涙混じりの掛け声と、猛烈な勢いで草をむしるバリバリという音がかすかに響いていた。
ジークフリートは「夕刻の点呼までには戻れ」と冷徹に言い残し、白エプロンを几帳面に畳んで自室へと戻っていった。嵐のような朝の騒動が一段落したところで、真昼はログハウスの二連かまどの灰をならし、調理器具を丁寧に拭き上げてから、奥納戸の押し入れゲートをくぐった。
――スッ、と空気が切り替わる。
針葉樹と冷涼な朝露の香りが引いていき、代わりに鼻腔を包み込んだのは、初夏の日差しを浴びたい草の畳の匂いと、古い土壁の懐かしい匂いだった。
襖を静かに閉め、首から提げた真鍮の鍵を服の内側へと滑り込ませる。
「……ふぅ。一気に静かになったなぁ」
柱時計が、コチ、コチ、と規則正しい音を刻んでいる。
先ほどまでの異世界の森の熱気と賑やかさが嘘のように、古民家の中には、しっとりとした日本の昼下がりの静寂が満ちていた。
台所の流しで手を洗い、居間のちゃぶ台の前に腰を下ろした、その時だった。
畳の上に置いてあったスマートフォンが、ブブッ、と小気味よいバイブレーションを響かせた。
画面を見ると、古民家カフェ『野良時計』の店主・聡美からのメッセージだった。
『真昼ちゃん、今お店にいる? 大至急、顔を出してほしいの! ものすごいことになってるわよ!』
画面越しにも伝わってくる切迫した熱量に、真昼は思わず目を丸くした。
何かトラブルでもあったのだろうか。納品したジャムに不備でもあったのかと、一瞬だけ会社員時代の癖で心臓がキュッと縮みかける。
けれど、メッセージの最後には、飛び跳ねるような絵文字がいくつも並んでいた。
「……とにかく、行ってみよう」
真昼はジャージから清潔なリネンシャツとチノパンに着替え、車のキーを手に取ると、軽トラックを走らせて小高い丘の上のカフェ『野良時計』へと向かった。
***
駐車場に軽トラを滑り込ませた瞬間、真昼は信じられない光景を目撃した。
普段なら平日午後のカフェは、地元の常連客が数人、のんびりと本を読んでいるような穏やかな時間帯のはずだった。
ところが、店先の木製テラス席まで満席になっており、駐車場には県外ナンバーの乗用車がずらりと並んでいたのだ。
引き戸を開けると、カランコロンと澄んだドアチャイムが鳴り響く。
「いらっしゃいませー! あ、真昼ちゃん! 奥のカウンターに入って!」
厨房の奥で目まぐるしく立ち回っていた聡美が、真昼の姿を認めるなり、満面の笑みで手招きした。
客席を見渡すと、若い女性客やカップルたちが、こぞって同じデザートプレートを前にしてスマートフォンで写真を撮っている。
お皿の中央に鎮座しているのは、サクサクのタルト生地の上に、夜空を閉じ込めたような深い青紫色のジュレと果肉が美しく盛られた――ルミナスベリーの特製タルトだった。
木漏れ日を浴びてキラキラと神秘的な光を放つ青いタルト。客たちは一口食べるごとに、「うそ……なにこれ、信じられないくらい香りが高い!」「マスカットみたいな清涼感がすごい!」と、歓喜の声を上げていた。
「真昼ちゃん、これ見て!」
カウンターの陰で、聡美が興奮冷めやらぬ様子で自分のスマートフォンを真昼の目の前に突き出してきた。
画面に映し出されていたのは、有名インフルエンサーのSNS投稿だった。
美しい青紫色のタルトの写真とともに、『山あいの隠れ家カフェで見つけた、奇跡の天然野生ベリー。宝石のような深い青と、突き抜ける高貴なマスカット香に脳が溶けました……!』という絶賛のコメントが添えられ、数万件を超える「いいね」と拡散が記録されていたのだ。
「朝から問い合わせの電話が鳴り止まないのよ! 『あの青いジャムのタルトはまだありますか』『瓶詰めのコンフィチュールは通販できますか』って! 先週納品してもらった二十瓶、店頭に並べた瞬間に、一人で五瓶も買っていくお客さんがいて……今日のお昼過ぎに、完全に完売しちゃったの!」
「か、完売……!? あの二十瓶が、もう全部ですか!?」
「そうなのよ! 追加で作ろうにも、肝心のベリーがないとお手上げでね。……それでね、真昼ちゃん」
聡美はエプロンのポケットから、ずっしりと厚みのある茶封筒を取り出した。
そして、両手で真昼の手を包み込むようにして、その封筒を押し当ててきたのだ。
「これ、約束の買い取り代金と、今週分の追加発注の前金よ。しっかり確認して」
封筒の口を開け、中の紙幣の束を見た瞬間、真昼の息が喉の奥で止まった。
一瓶千二百円の正規買い取り価格。
二十瓶の完売分と、次回分の前金を合わせたその金額は――真昼が都内の中堅商社で、深夜残業を重ねてようやく手に入れていた、手取りの月給とほとんど変わらない額だった。
「そ、聡美さん……こんな大金、受け取れません……! 私、ただ森……じゃなくて、裏山で摘んできた実を、おばあちゃんの鍋で煮詰めただけなのに……」
「馬鹿言わないの!」
聡美は真昼の額を、人差し指でコツンと優しく小突いた。
「真昼ちゃんがどれだけ丁寧にアクを取って、実の形を崩さないように火加減を調整してるか、プロの私が見れば一目で分かるわよ。この圧倒的な香りと味は、真昼ちゃんの手仕事だからこそ生まれたの。うちのお店を救ってくれた大恩人なんだから、胸を張って受け取りなさい!」
「聡美さん……っ」
「お客さんから『次はいつ入荷するんですか?』って詰め寄られてるんだから、頼むわよ。来週までに、また三十瓶……ううん、四十瓶はいける?」
「は、はい! また山の奥で、しっかりと実を選別して摘んできます!」
真昼が深々と頭を下げると、聡美は頼もしそうに笑い、「よろしくね、うちの専属契約農家さん!」とウインクを返してくれた。
***
カフェを出た真昼は、軽トラックの運転席で、手渡された封筒をじっと胸に抱きしめた。
封筒越しに伝わってくる、紙幣の確かな厚みと重み。
会社員時代、銀行口座に数字として機械的に振り込まれていた給与とは、まるで重みが違っていた。
誰かに理不尽に怒鳴られ、電話口で頭を下げ、終電のベンチでツナマヨおにぎりをかじる対価として支払われていた金ではない。
自分の足で森を歩き、自分の目で美味しい実を見極め、自分の手で丁寧に灰汁をすくい、誰かを心から喜ばせた結果としていただいた、誇りある対価。
「……これで、ちゃんと生きていける」
こみ上げてくる熱い涙を、手の甲で力強く拭う。
貯金を切り崩す恐怖に怯える日々は、もう完全に終わったのだ。
真昼は勢いよくエンジンキーを回した。
「よしっ! まずは買い出しだ!」
軽トラックを走らせ、真昼が向かったのは、いつもの大型業務スーパーだった。
財布の中に確かな活動資金があるという安心感は、買い出しの楽しさを何倍にも引き上げていた。
真昼は巨大なカートを引き、迷いのない足取りで調味料コーナーへと突き進む。
「ええと……ジークさんたちが毎朝すごい勢いで食べるから、お醤油とみりんは一升瓶で買い足しておかないとね」
棚からカートへ、濃口醤油の一升瓶を二本、出汁の色を活かす淡口醤油を一升瓶で一本、そして純米本みりんと料理酒を二本ずつ積み込む。
続いて、出汁のコーナーへ。
業務用利尻昆布の大袋と、花かつおの五百グラム入り大袋を二つ。
さらに、バルトが作ってくれたかまどで揚げ物をガンガン作れるようになったため、一キロ入りの大容量片栗粉と、薄力粉、業務用のサラダ油のポリタンクをカートに放り込む。
砂糖と塩もキロ単位で購入。
騎士たちの底なしの胃袋を満たすための調味料たちが、カートの底をずっしりと埋め尽くしていく。
業務スーパーでの買い出しを終えると、その足で隣にある大型の百円ショップへと向かった。
日用品コーナーで真昼が選んだのは、作り置き用の耐熱ガラス密閉容器たちだった。
大中小、さまざまなサイズの角型キャニスターを十個以上カゴに入れる。
豚バラ大根や鶏肉の治部煮のように、時間を置くことで味が染みる煮物は、この耐熱ガラス容器に入れてストックしておけば、毎朝の調理が劇的にスムーズになる。
さらに、竹串、耐熱のシリコンベラ、マスキングテープ、食材の保存日を書き込むための油性ペン、そしてルミナスベリーのジャムを詰めるための予備のガラス小瓶をカゴいっぱいに買い揃えた。
レジを通し、軽トラックの荷台へ段ボール箱を積み込む。
かつて都会のスーパーで、割引きシールの貼られた惣菜を虚しい気持ちでカゴに入れていた頃の自分はいなかった。
カートいっぱいの食材と道具を見つめる真昼の瞳には、明日からの朝食への希望と、誰かの「美味い!」という笑顔を思い浮かべる純粋な喜びだけが満ち溢れていた。
***
古民家へ戻ってきたのは、西日が山あいの稜線を黄金色に染め始める頃だった。
買い込んできた大量の荷物を土間へ運び込み、調味料やガラス容器を整理棚へと収める。
汗をかいた首筋を手ぬぐいで拭い、真昼は台所の勝手口を開け放った。
裏山から吹き下りてくる夕暮れの風が、古民家の廊下を心地よく通り抜けていく。
「ふぅ……たくさん動いたなぁ。ちょっと、甘いものでも作ってひと息つこうかな」
真昼が選んだのは、子どもの頃、祖母タエと一緒に縁側でよく作った、懐かしい『みたらし団子』だった。
手間はかからない。けれど、出来立ての手作りの味は、どんな高級和菓子にも負けない温もりがある。
真昼は戸棚から、上新粉と白玉粉の袋を取り出した。
ボウルに上新粉を百グラム、白玉粉を百グラム、同量ずつ合わせる。
上新粉だけで作ると歯切れの良いしっかりとした団子になり、白玉粉だけで作ると柔らかなお餅のような団子になる。両方を半分ずつブレンドすることで、表面はつるりと滑らかで、中はもっちりとした極上のコシが生まれるのだ。
そこへ、ぬるま湯を少しずつ注ぎ入れながら、指先で粉をまとめていく。
ギュッ、ギュッ、と手のひらの付け根で捏ねていく。
水加減の目安は、昔タエが教えてくれた通り――「耳たぶの柔らかさ」。
粉っぽさが消え、赤ちゃんの肌のようにすべすべとした滑らかな生地が完成した。
「これを、一口大に丸めて……」
真昼は生地を細長い棒状に伸ばし、包丁で均等に切り分けてから、両の手のひらでコロコロと丸めていった。
直径二センチほどの、まん丸で真っ白なお団子が、バットの上に整然と並んでいく。
琺瑯鍋にたっぷりの井戸水を沸かし、沸騰した湯の中へお団子を次々と投入する。
底に沈んでいた白い玉たちが、熱を吸うにつれて、プカプカと表面へと浮かび上がってきた。
浮き上がってから、さらに二分。芯までしっかりと火を通す。
網じゃくしですくい上げ、あらかじめ用意しておいた冷たい井戸水のボウルへと放ち、一気に表面を引き締めた。
キュッと冷やされたお団子は、白真珠のように艶やかな光沢を放っている。
水気を切ったお団子を、百円ショップで買ってきたばかりの竹串に、四つずつ刺していく。
プスッ、と小気味よい手応え。
そして、ここからが香ばしさを生み出す一手間だ。
「フライパンで、少しだけ焼き目をつけよう」
薄く油を引いたフライパンを中火で熱し、串に刺したお団子を並べ入れる。
ジューッという微かな音とともに、米粉が焼ける香ばしい匂いが立ち上る。
時折転がしながら、表面のところどころに、美味しそうなきつね色の焦げ目をつけていく。このお焦げの苦みこそが、甘辛いタレの味を完璧に引き立てるのだ。
団子を皿に取り出し、空いた小鍋で『みたらし餡』の調合に入る。
計量したのは、水百ミリリットル、濃口醤油大さじ二、きび砂糖大さじ三、本みりん大さじ一。
そして、水溶き片栗粉を大さじ一杯。
すべての材料を最初から小鍋に合わせ、木べらでよく混ぜてから弱火にかける。
加熱しながら、絶え間なく鍋底を撫でるように木べらを動かす。
最初はサラサラとしていた琥珀色の液体が、熱が通るにつれて、急激にとろみを帯び始めた。
ふつふつと大きな気泡が立ち、透明感のある見事なべっ甲色へと変わる。
照り輝く、艶やかなみたらし餡の完成だ。
真昼は青磁の平皿に、こんがりと焼き目のついたお団子を並べた。
そして、小鍋から熱々のみたらし餡を、木べらですくい上げ――。
――トローリ……。
惜しげもなく、お団子の上からたっぷりと回しかけた。
琥珀色の甘辛いタレが、焼きたての団子の白い肌を包み込み、皿の底へと艶やかに広がっていく。
湯気とともに立ち上るのは、醤油の焦がし香と、みりんと砂糖が織りなす、どこか懐かしく胸を締め付けるような甘辛い匂い。
最後に、急須に深蒸し煎茶の茶葉を入れ、冷たい井戸水と氷を注いで、じっくりと時間をかけて抽出した『水出し冷茶』を、ガラスのグラスへと注ぎ分けた。
氷がカランと涼やかな音を立て、濃いエメラルドグリーンの水面が夕日を浴びて輝く。
***
真昼はお盆を抱え、古民家の広い縁側へと出た。
軒先には、南部鉄器の風鈴が吊るされている。
チリリン、チリリン……。
初夏の夕風が吹き抜けるたび、澄み切った高い金属音が、山あいの静寂に吸い込まれるように響き渡る。
「いただきます」
真昼は縁側に腰を下ろし、竹串を一本、手に取った。
まだ温かいみたらし団子。
串を持ち上げると、とろりとした琥珀色のタレが糸を引くように滴り落ちる。
一番上のお団子を、パクリと口に含んだ。
――ハフッ、もっちり……。
歯を入れた瞬間、まず訪れたのは、香ばしく焼かれた表面のお焦げのカリッとした微かな食感。
そして次の瞬間、歯を包み込むような、吸い付くようなもっちりとした弾力が広がった。
上新粉の心地よいコシと、白玉粉の滑らかな伸び。
噛み締めるほどに、米本来の素朴で優しい甘みが滲み出てくる。
そして何よりも――そのすべてを包み込む、みたらし餡の絶妙な味わい。
尖った辛さのない醤油の深いコクと、きび砂糖の丸みのある甘さ、そしてみりんの上品な照り。甘辛いタレが舌の上でとろりと広がり、米の旨味と完璧に溶け合っていく。
「……んん〜っ……! 美味しい……!」
思わず目を細め、二つ目、三つ目のお団子を夢中で頬張る。
口の中が甘辛いタレで満たされたところで、すかさず冷茶のグラスを傾けた。
カラン、と氷が鳴る。
冷たい緑茶が喉を駆け抜けた瞬間、水出しならではの驚くほど濃厚なアミノ酸の甘みと、清々しい茶葉の香気が口いっぱいに広がり、後味をすっきりと洗い流していく。
甘い団子と、キリリと冷えたお茶。
究極の和の調和が、身体の隅々まで染み渡っていく。
「ふはぁぁ……落ち着く……」
真昼は空になった竹串を置き、縁側に両手をついて、夕暮れの空を見上げた。
空は青から茜色へ、そして深い群青色へとグラデーションを描きながら暮れなずんでいる。
庭の木々が風に揺れ、蜩の澄んだカナカナという鳴き声が、遠くの森から響いてくる。
ほんの数ヶ月前までの自分を思い出す。
深夜のオフィスで、終わらない書類の山に埋もれ、誰かの機嫌を窺いながら、ただ胃を痛めていた日々。
会社を辞めた直後は、社会のレールから外れてしまった恐怖で、夜も眠れなかった。
自分には何もない、誰からも必要とされていない、このまま貯金が尽きたらどうなってしまうのだろうと、暗闇の中で膝を抱えて震えていた。
――けれど。
今の真昼の胸の中には、あの冷たい恐怖は、もうどこにもなかった。
押し入れの向こうには、自分が作った温かい朝ごはんを、涙を流して待ってくれる人たちがいる。
エプロン姿で大根の面取りをしてくれる、不器用で真っ直ぐな騎士団長。
甘いスコーンに目を輝かせて忠誠を誓った副官。
包丁を命がけで研ぎ澄まし、頑丈なかまどを造ってくれた鍛冶師。
から揚げを頬張って女神だと叫んだ新米騎士。
そして、膝の上で喉を鳴らしてくれる愛らしい神獣。
そして、こちらの世界には。
自分の作ったジャムを正当に評価し、笑顔で対価を手渡してくれる聡美がいる。
祖母が遺してくれたこのあたたかな古民家があり、自分の足で選んで買い揃えた道具と食材がある。
「私、ちゃんと生きてる」
声に出して呟いてみる。
誰かの敷いたレールの上を走るのではなく。
自分の手で火を起こし、出汁を引き、誰かの胃袋と心を温め、正当に対価を得て、自分の足で大地を踏みしめて暮らしている。
その確かな生活の実感が、真昼の胸の奥底を、あたたかい光で満たしていた。
チリリン……と、風鈴がもう一度、涼やかに鳴った。
縁側の向こう、奥納戸の押し入れの先には、明日の朝もまた、美味しい匂いを待っている愛しい仲間たちがいる。
真昼は残りの冷茶をゆっくりと飲み干すと、夕暮れの空に向かって、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「明日の朝も……とびきり美味しい出汁を、引かなくちゃね」
初夏の穏やかな夜の帳が、自立への確かな一歩を踏み出した元OLの古民家を、優しくあたたかく包み込んでいった。




