第19話:箸で切れる豚バラ大根と、職人の涙
シュッ、シュッ、シュッ――。
一定の澄んだリズムを刻む摩擦音が、森のログハウスの中に響き渡っていた。
先ほどまで怒鳴り散らしていた大男とは思えないほど、鍛冶師バルトの表情は静まり返り、その双眸には研ぎ澄まされた刃先のような鋭い集中力が宿っていた。
ステンレス作業台の端に置かれた中砥石。その上を滑る燕三条製の三徳包丁は、バルトの太い指先によって完全に制御され、寸分のブレもなく美しい軌道を描いて往復している。
砥石の表面に吹き出た灰色の研ぎ汁が、金属の微粒子を含んでねっとりと光る。
荒研ぎでわずかな刃こぼれを整え、中砥で刃のハマグリ刃の膨らみを調整し、いまや仕上げ砥の鏡のような砥面へと移行していた。
「……信じられねえ。削れば削るほど、刃の芯が締まってきやがる。鋼の分子が最初から狂いなく並んでるみてえだ……」
独り言のように低く唸るバルト。
荒削りの無骨な手肌に、桶からすくった冷たい湧き水が滴り落ちる。
職人としての矜持が、怒りも理不尽もすべて忘れさせ、目の前の未知なる名刀を「極限の切れ味」へと昇華させることだけに彼を没頭させていた。
その横で。
真昼はカセットコンロの前に立ち、じっくりと煮込み続けていた大鍋の前に歩み寄った。
「よし……そろそろ、芯まで味が馴染んだ頃かな」
真昼がコンロの上に置いたのは、古民家から運び込んだ萬古焼の深型土鍋。
実は今朝、鶏むね肉の塩麹漬けを仕込むさらに前――早朝の四時半、ジークフリートがやってくる直前の時間帯から、真昼はこの大鍋に火を入れ、ある特別な煮物をことことと仕込んでいたのだ。
煮物というものは、火を入れている最中ではなく、「火を止めてゆっくりと冷めていく過程」で、食材の繊維の奥深くまで出汁と塩分がぐんぐんと吸い込まれていく。一度完全に煮含めてから火を落とし、常温で一時間ほど休ませておいた鍋。
食べる直前に再び弱火にかけ、煮汁を煮詰めながら表面に艶やかな照りを纏わせる――それが、今まさに完成の瞬間を迎えていた。
「ジークさん、ちょっと離れててくださいね。湯気が一気に出ますから」
「あ、ああ……」
白エプロンを着けたジークフリートが、ごくりと喉を鳴らして一歩身を引く。足元で丸くなっていたベルも、待ちきれないように立ち上がり、鼻をひくひくと忙しなく動かし始めた。
真昼はミトンを両手にはめ、土鍋の重い蓋の取っ手を掴むと、斜め手前に向けて静かに持ち上げた。
――ボワァァァッッッ!!
瞬間、純白の濃密な蒸気が、まるで火山の噴煙のように立ち上った。
そして、その湯気とともに解き放たれたのは――ログハウスを飛び出し、森の木立の奥深くまで届かんばかりの、暴力的なまでの甘辛い芳香だった。
「…………っ!!」
包丁を研いでいたバルトの腕が、ピタリと止まった。
ジークフリートの青氷の瞳が、カッと見開かれる。
濃口醤油が熱い鍋肌で煮詰まった、香ばしく濃厚な薫香。
純米酒と本みりんが醸し出す、ふくよかで芳醇な米の甘み。
そこに、薄切り生姜のピリッとした清涼な刺激と、豚の脂が放つこってりとした旨味の粒子が混ざり合い、熱い蒸気となって部屋中の酸素をすべて塗り替えていく。
ただ匂いを嗅いだだけで、口の中が滝のような唾液で溢れ返り、胃袋がきゅうっと悲鳴を上げるほどの破壊力。
鍋の中に満たされていたのは――黄金色を通り越して、深い琥珀色に照り輝く『豚バラ大根のこってり煮』だった。
大根は、ジークフリートが先日完璧に面取りしてくれたあの輪切り大根だ。厚さ三センチはあろうかという分厚い大根が、昆布と鰹の一番出汁、そして豚肉の旨味を限界まで吸い尽くし、半透明の鼈甲色に透き通っている。
その隣で誇らしげに身を寄せるのは、業務スーパーで仕入れた豚バラ肉のブロックを、贅沢にも二口大の角切りにして煮込んだ豚の塊肉たち。
下茹での段階でたっぷりの生姜の皮と長ネギの青い部分とともに一時間じっくり煮込み、余分な脂とアクを綺麗さっぱり洗い流してあるため、ギトギトとした重苦しさは微塵もない。赤身はほろほろと繊維を解き、脂身はまるで極上のゼリーのように透明感を湛え、甘辛い煮汁を纏ってキラキラと光の粒を乱反射していた。
「よし、火を止めて……盛り付けよう!」
真昼は深さのある美濃焼の大きな平鉢を取り出し、菜箸とお玉を使って盛り付けに入った。
煮崩れひとつない大根を三つ、中央にどっしりと据える。
その周りを囲むように、照り輝く豚バラの角煮をごろごろと豪快に配置。
大鍋の底に残った、トロリと煮詰まった濃厚なタレをお玉ですくい、具材の上から艶やかに回しかける。
そして――。
真昼はエプロンのポケットから、見慣れた黄色い小チューブを取り出した。
現代のスーパーやコンビニならどこにでも並んでいる、日本の食卓の相棒――『ハウス・おろし生わさび』ならぬ『特選ねりからし』。
キャップを開け、平鉢の縁の白い余白へ、ツンと角が立つように、鮮やかな黄色いからしをたっぷりと絞り出した。
湯気とともに漂う濃厚な醤油の甘辛い香りに、鮮烈な和辛子のツンとした刺激臭が、一筋の清涼な風のように重なる。
さらに、木製のおひつの蓋を開け、今朝萬古焼の土鍋で炊き上げたばかりのピカピカの白米を、大きめの茶碗に山盛りに装う。
準備は、完璧だった。
***
「……できたぞ」
ちょうどその時、バルトが息を吐きながら立ち上がった。
彼の手のひらに握られていた三徳包丁は、先ほどとはまるで別物へと変貌を遂げていた。
仕上げ砥で磨き抜かれた刃先は、朝の光を吸い込んで青白く澄み渡り、触れるものすべてを音もなく切り裂くような凄まじい刃線を描いている。バルトが台所にあった薄いキッチンペーパーを宙に掲げ、包丁の刃先をそっと当てて引いた瞬間――。
スゥッ……。
何の音も、抵抗もなく。ペーパーは自重だけで滑るように真っ二つに裂け落ちた。
「どうだ、娘。これが本物の『刃』ってやつだ。産毛だろうが布だろうが、抚でるだけで両断できるぜ」
「わぁ……! すごい! 光の反射が全然違います! ありがとうございます、バルトさん!」
真昼が素直に目を輝かせて拍手を送ると、頑固一徹の鍛冶師は照れくさそうに鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「ふん、礼なんざ要らねえよ。俺はただ、いい鋼が鈍らになってんのが我慢ならなかっただけだ。……さて、用が済んだらとっとと――」
「あ、待ってください!」
踵を返そうとしたバルトの前に、真昼が大きなお盆を抱えて立ちはだかった。
そこに乗せられていたのは、湯気をもうもうと上げる豚バラ大根の深鉢と、山盛りの白米、そして塗り箸。
「おじさん、こんなに綺麗に包丁を研いでくれたんですもん。お礼に、これ食べていってください!」
「あん……? 飯だと?」
バルトは眉をひそめ、深鉢の中身を胡散臭そうに見下ろした。
「おいおい娘、俺を誰だと思ってやがる。俺はドワーフの血を引く鍛冶師だぞ? 毎日鉄を打ち、酒場で強いエールを樽ごと煽ってるんだ。飯の味にゃあ、そこらの軟弱な騎士どもより百倍うるせえんだよ。こんな得体の知れねえ茶色い煮物なんかで誤魔化され――」
言いかけたバルトの鼻先を、豚バラ大根の香気が直撃した。
醤油の芳醇な焦がし香、出汁の奥深いアミノ酸の匂い、そして生姜とからしの刺激。
――グギュルルルルッ!!
バルトの分厚い牛革エプロンの下から、鍛冶槌が落ちたかのような轟音の腹鳴りが響いた。
バルトの顔が、一瞬で耳まで赤くなる。
「……くっ、腹が減ってりゃ何でも美味そうに見えるのは当たり前だ! いいだろう、そこまで言うなら味見くらいしてやる! 不味かったら容赦なく叩き出すからな!」
捨て台詞を吐きながら、バルトはウッドデッキの丸太ベンチへとドカッと腰を下ろした。
隣では、ジークフリートが白エプロンの裾を整えながら、静かに、だが冷たい眼光でバルトを見張るように着席している。
「バルト。真昼の手料理に少しでも不敬な態度を取ってみろ。……貴様がどれほど古参の鍛冶師であろうと、私は容赦せんぞ」
「うるせえ坊主! 前掛けつけた騎士団長なんぞに指図される筋合いはねえよ!」
睨み合う男二人。真昼は苦笑いしながら、バルトの目の前に深鉢とご飯をことりと置いた。
「はい、お箸をどうぞ。熱いですから、気をつけてくださいね」
バルトは乱暴に塗り箸をひったくると、深鉢の中の分厚い大根を睨みつけた。
厚さ三センチ。大人が指でつまんでも硬そうな、立派な根菜の塊だ。
(ふん、どうせ外側だけタレで色をつけて、中は芯が残ってガリガリと青臭えんだろうよ)
そう高を括りながら、バルトは箸先を大根の中央へと突き立てた。
その、瞬間だった。
――スゥッ……。
「…………あ?」
バルトの分厚い手が、空中で凍りついた。
手応えが、なかった。
力を込めるどころか、箸の重みだけで。まるで温かい水の中に指先を沈めたかのように、何の抵抗もなく、スッと箸先が大根の芯の向こう側まで通り抜けていたのだ。
パカッ、と音もなくふたつに割れた大根。
その断面を見た瞬間、バルトは息を呑んだ。
芯まで、完全に琥珀色。
白い部分は一ミリたりとも残っておらず、割れた瞬間、内側に閉じ込められていた熱々の黄金出汁が、じゅわりと泉のように溢れ出して器の底を潤したのだ。
「な……んだ、これは……? 根菜だろ、これ……? 骨もねえのに、なんでこんな……!?」
動揺で震える箸で、大振りのひと欠片を持ち上げる。
重みでプルプルと震える大根を、大口を開けて口の中へと放り込んだ。
――ジュワッ、ほろり……。
刹那。
バルトの全身を、見えない雷撃が撃ち抜いた。
「……………………ッッ!?」
咀嚼する必要すらなかった。
舌の上に乗せた瞬間、大根の繊維が跡形もなく優しくほどけ、まるで極上のスープそのものへと姿を変えて口いっぱいに溶け広がっていったのだ。
溢れ出したのは、暴力的なまでの『出汁の旨味』。
昆布のまろやかさと鰹節のスモーキーな薫香。そこに、豚肉から溶け出した濃厚な動物性の脂の甘みと、二年熟成醤油の深いコクが重なり合う。
大根特有のエグみや苦みは一欠片もなく、出汁と豚の脂を限界まで吸い尽くした大根自身の瑞々しい甘みが、五臓六腑へと染み渡っていく。
「う……うそだろ……っ!? 大根が……噛まなくても、舌の上で消えちまったぞ……!? なんだこの汁の深みは……! 王都のどんな高価なポタージュだって、こんな味しねえぞ……!」
呆然と呟くバルトに、真昼がすかさず声をかけた。
「バルトさん、お肉も食べてみてください! 豚のバラ肉です!」
バルトは弾かれたように視線を落とし、隣に転がる照り輝く角切りの豚肉へと箸を伸ばした。
赤身と脂身が美しい層を成す、分厚い塊肉。
箸を入れると、繊維に沿ってほろりと肉が裂けた。
大口を開け、脂身ごと肉の塊を口の中へと放り込む。
――ジュワァァァァッッ!!
「ぐ、あああっっ……!?」
バルトの口から、悲鳴にも似た呻きが漏れた。
舌の上に触れた瞬間、プルプルの脂身が体温で一瞬にしてトロリととろけ、甘い脂のジュースとなって口内を満たした。
そして赤身の肉は、下茹でと塩麹の魔法によって、歯を立てるまでもなく繊維の一本一本がほどけていく。
甘辛い醤油ダレが肉の芯まで染み渡り、噛むたびに豚肉の力強い野趣と生姜の爽快な香りが鼻腔を突き抜ける。
濃厚なのに、脂っこさによる胸焼けなど微塵も感じられない。
「バルトさん、その黄色い『からし』を少しだけお肉につけてみてください!」
促されるまま、バルトは皿の縁の黄色いペーストを箸先でちょんとすくい、豚肉の上にちょこんと乗せて口へと運んだ。
その瞬間――。
――ツゥゥゥゥンッッ!!
鮮烈な辛味が、鼻腔の奥を電撃のように駆け抜けた。
一瞬、涙が出そうになるほどの鋭い刺激。
だが、その直後!
からしの爽快な辛みが、豚バラ肉の濃厚な脂の甘みをキュッと完璧に引き締め、舌の上に残る旨味の輪郭を何倍にもくっきりと際立たせたのだ。
甘みと、脂と、出汁のコク。そこに加わる、鮮烈な辛味のアクセント。
もはや、味の暴力。
「……っ! う、うめぇ……ッッ!! なんだこの黄色い辛味は……!? 肉の脂っこさが一瞬で消えて、旨味だけが何倍にも膨れ上がりやがる……! このタレと脂だけで、エールが樽ごと空いちまうぞ畜生ッ!!」
バルトは咆哮すると、目の前の丼飯を鷲掴みにした。
タレの染みた大根をひとかじりしては、純白の白米を山盛りにかき込む。
からしをつけた豚肉を頬張っては、米をかっこむ。
ガツガツ、ガツガツッ!
無骨な親父が、我を忘れて茶碗に顔を埋め、凄まじい勢いで飯を喉へと流し込んでいく。
米の一粒一粒が、豚バラ大根のタレと脂を受け止め、噛むほどに甘みへと昇華していく。
「おい、バルト。貴様、全部一人で食う気か」
横から、ジークフリートの冷たい声が飛んだ。
見れば、騎士団長の手元にも、真昼が用意した同じ豚バラ大根の小鉢がしっかりキープされていた。
ジークフリートもまた、からしを器用につけた豚肉を口に運び、目を細めて至福のため息を漏らしながら、上品かつ猛烈なスピードで白米をかき込んでいる。
男二人の凄まじい食欲の前に、大鉢の豚バラ大根と、おひつに残っていた白米は、瞬く間に消滅していった。
***
「……ぷはぁぁぁぁぁっ……!」
空になった丼飯の底を最後の一粒まで舐め尽くすように平らげたバルトは、器をドスンとテーブルに置き、大の字になってベンチの背もたれへと倒れ込んだ。
腹がはち切れんばかりに膨らんでいる。
五十年の人生で、これほど満たされた食事がかつてあっただろうか。
酒場で呷る安酒と硬いパン、焦げた干し肉。それらを胃袋に流し込み、ただ生きるためだけに鉄を打ってきた日々。
だが、今口にしたものは――作り手の血の通った、食材への敬意と、食べる者へのあたたかな労わりに満ちた、本物の「料理」だった。
「……う……ぅ……」
ポロリ、と。
煤と火傷にまみれたバルトの目尻から、大粒の涙が零れ落ち、無精髭を濡らした。
職人の矜持も、頑固親父の意地も、温かい豚バラ大根の前には何の役にも立たなかった。
「……悪かったよ、娘。……いや、真昼の嬢ちゃん」
バルトは袖口で乱暴に涙を拭うと、丸太ベンチから立ち上がり、真昼の前にドスンと両膝をついた。
そして、床に額を擦り付けるようにして、深々と頭を下げたのだ。
「魔女だの何だのと怒鳴り込んで、本当にすまねえ! 俺の目は節穴だった! あんな神業の刃物を使いこなし、こんな天上の煮物を作る奴が、悪人なわけがねえ……!」
「ば、バルトさん!? 頭を上げてください! 美味しく食べてもらえたなら、それで十分ですから!」
慌てる真昼に対し、バルトは顔を上げると、血走った熱い眼光で真昼の両手をガシッと鷲掴みにした。
その手のひらは、火床の熱を吸って硬く、だが震えていた。
「頼む、嬢ちゃん! 俺を……この小屋の『専属鍛冶屋』にしてくれ!!」
「……はい?」
「刃物の研ぎ直しはもちろん、包丁の柄の調整、鍋の修繕、かまどの火床の強化……鉄に関することなら何だってやってやる! だから……だから頼む! たまにでいい、また俺にも、あの豚の煮物を食わせてくれぇぇぇッ!!」
魂の底からの懇願。
ジークフリートが「おい、バルト。気安く真昼の手を握るな」と横から万力のような力でバルトの手首を引き剥がしたが、頑固親父の熱狂は収まりそうになかった。
足元では、真昼から鰹節をもらったベルが、「また一人、胃袋を掴まれたか」とでも言いたげに、満足そうに喉をゴロゴロと鳴らしている。
初夏の陽光が、ナラのウッドデッキをあたたかく照らし出していた。
怒鳴り込んできたはずの最強の鍛冶師が、箸で切れる豚バラ大根の前に完全陥落した朝。
ふたつの世界を結ぶ小さな小屋の食卓に、また一人、頼もしすぎる(そして騒がしすぎる)仲間が、胃袋を通じて加わったのだった。




