第18話:頑固鍛冶師の怒鳴り込みと、三徳包丁の衝撃
朝霧が木々の梢を静かに濡らし、初夏の柔らかな風がログハウスの窓辺を吹き抜けていく。
新調されたステンレス作業台の上では、真昼が朝一番の丁寧な仕込みに没頭していた。
今朝の真昼が手に取っていたのは、現代の古民家の台所で大切に育てているガラスキャニスター――その中にたっぷりと仕込まれた、自家製の『塩麹』だった。
「よし、発酵具合も完璧……」
蓋を開けると、ふわりと立ち上ったのは、炊きたての甘酒にも似た、どこまでも穏やかで甘やかな麹の芳香だった。
米麹と塩、そして清らかな井戸水を合わせ、毎日一度、清潔なスプーンで空気を送り込むようにかき混ぜながら常温でじっくりと発酵させた万能調味料。塩気のとがった角が完全に取れ、アミノ酸の濃厚な旨味とブドウ糖の柔らかな甘みが凝縮されている。
これを使って今朝作るのは、朝食のメインおかずの試作――『鶏むね肉のやわらか唐揚げ』だった。
まな板の上には、業務スーパーで仕入れてきた新鮮な鶏むね肉が二枚。
鶏むね肉は高タンパクで低脂質、身体作りに励む人間にとっては最高の食材だが、加熱するとパサつきやすく、硬くなりやすいのが最大の難点だ。
けれど、この塩麹があれば話は劇的に変わる。
真昼は燕三条製のステンレス三徳包丁を握り、鶏むね肉の繊維を断ち切るように、斜めに刃を入れて一口大の削ぎ切りにしていった。
刃先が吸い込まれるように肉を切り分けていく。切断面の繊維を露出させることで、調味料の浸透率を跳ね上げるのだ。
ボウルに切り分けた肉を入れ、そこへ自家製の塩麹を大さじ二杯。さらに、風味付けのための濃口醤油をほんの小さじ一杯、純米酒を大さじ一杯、そしてすりおろしたばかりの生姜をたっぷりと加える。
「しっかり揉み込んで、十五分……と」
真昼は指先で優しく、だがしっかりと肉に塩麹を揉み込んでいった。
塩麹に含まれるタンパク質分解酵素――プロテアーゼの働きによって、硬くなりがちな筋繊維が解きほぐされ、肉自身の水分を保つ保水力が極限まで高まる。それだけでなく、タンパク質がアミノ酸へと分解されることで、噛んだ瞬間に溢れ出す旨味の総量が爆発的に跳ね上がるのだ。
ラップをかけ、味が馴染むのを待つ。
「真昼、今朝の湧き水だ。汲みたてを運んできた」
背後から、低く落ち着いた声がかかった。
振り返ると、そこにはいつものように糊のきいた真っ白な特注リネンエプロンをきっちりと身に纏ったジークフリートが立っていた。
両手には、なみなみと水を湛えた巨大な木樽がふたつ。
先日のやきもちの一件以来、彼は真昼に褒められるのがすっかり日課になったようで、今朝もすでに薪割りを完璧に終わらせ、額に清々しい汗を光らせながら立派なエプロン姿で待機していたのだ。
足元では、神獣ベルが「わふ」と一声鳴き、ジークフリートの足首に尻尾をパタパタと当てている。
「ジークさん、おはようございます! 今朝もお水汲み、ありがとうございます。助かります」
「うむ。……今朝は、何やら香ばしい生姜の香りがするな」
「ふふ、気づきました? 今朝はお肉を特別な調味料に漬け込んでるんです。これを使って、カリッと香ばしい唐揚げを試作しようと思って――」
真昼が笑顔で答えかけた、その時だった。
――ドシンッ! ドシンッ! ドシンッ!!
静寂に包まれていた森の空気を無残に踏みにじるような、重々しく乱暴な地響きが轟いた。
木立の向こうから、何かが猛烈な勢いでこちらへ突き進んでくる。
小鳥たちが一斉に悲鳴を上げて飛び去り、ナラの木々がざわざわと激しく揺れ動いた。
「グルルルルルッ……!」
ベルが瞬時に反応し、テラスの手すりへと身を躍らせて低い威嚇の唸り声を上げた。純白の被毛が逆立ち、瑠璃色の瞳に鋭い警戒の光が宿る。
ジークフリートの表情からも、先ほどまでの穏やかな温もりが一瞬で消え去った。
青氷の瞳が冷徹な戦士の光を取り戻し、腰の剣へと反射的に手を伸ばす。
「……何者だ。この足音は――」
バキバキッ! と藪を力任せになぎ倒し、ウッドデッキの前の広場へと姿を現したのは、人間というよりもまるで巨大な『灰色熊』を思わせる大男だった。
年齢は五十代半ばほど。
頭頂部を短く刈り込み、顔半分を覆うような分厚い無精髭。
丸太のように太い両腕には、長年の鍛錬と過酷な労働で刻まれた無数の火傷の痕と血管が浮き彫りになっており、着古した厚手の牛革のエプロンからは、鉄と煤と焼けた油の匂いが立ち込めている。
背中に背負っているのは、大人が二人掛かりでようやく持ち上がるような巨大な鉄の鍛冶槌。
シルヴァ辺境警備騎士団専属の鍛冶師兼補給係長――バルト(五十三歳)だった。
「ぜぇ……はぁ……! ようやく見つけたぞ、この野暮天がぁッ!!」
バルトは肩を怒らせ、血走った眼光でウッドデッキの上を睨みつけた。
そして、白エプロンを着けて佇むジークフリートの姿を視界に捉えた瞬間、その毛むくじゃらの顔面を信じられないものを見るように歪め、怒髪天を衝く勢いで絶叫したのだ。
「おいジークの坊主!! ここ最近、隊の連中の剣の研ぎ直しも補給点検もそこそこに、毎朝毎朝どこへ雲隠れしてやがると思えば……ッ! こんな森の掘っ立て小屋に女囲って、真っ白な前掛けなんぞ着けて鼻の下伸ばしてんじゃねえぞ、この大馬鹿野郎がぁぁぁッッ!!」
割れ鐘のような怒号が、静かな森の朝を粉々に引き裂いた。
バルトはドスドスと乱暴な足音を立ててウッドデッキの階段を上がり、真昼のログハウスへと土足で踏み込んでこようとする。
「貴様……! 言葉を慎めッ!!」
ドォンッ!!
ジークフリートが激昂し、床を蹴って立ちはだかった。
その身体から吹き荒れたのは、先日のクラウスに向けた威圧を遥かに凌駕する、本物の『殺気』だった。
真昼への侮辱、そしてこの神聖な食卓を土足で汚されたことに対する怒りが、若き騎士団長の理性を焼き切ろうとしていた。白銀の剣の切っ先が、鞘から数センチほどシャリリと音を立てて抜かれる。
「バルト! 貴殿が古参の補給長であろうと、真昼を侮辱することは許さん! 一歩でも無礼な足を踏み入れてみろ、その首を――」
「はっ! 抜きな! 団長が色香に狂って任務を放棄したってんなら、俺がこの槌でその性根を叩き直してやるまでだ――」
一触即発。
百戦錬磨の戦士と、歴戦の鍛冶師。
ふたつの強大な気迫が激突し、ウッドデッキの空気が今まさに爆発しようとした、その刹那だった。
「――はいそこまで! ストップです!」
凛とした、だがどこまでも日常的なトーンの声が、二人の男の間に割り込んだ。
「「……え?」」
ジークフリートとバルトの動きが、同時にピタリと止まった。
二人の間にすっと割って入ってきたのは、両手に清潔な雑巾と、玄関用の泥落としマットを抱えた真昼だった。
真昼は殺気立つ大男たちに怯えるどころか、心底困ったように眉を八の字に下げ、バルトの足元をビシッと指差したのだ。
「おじさん! 足元気をつけてください! せっかくジークさんたちが滑らかに磨いて作ってくれた新しいウッドデッキなんですから、泥だらけの靴で上がっちゃダメです! ほら、そこで靴の泥をしっかり落として、このマットで拭いてください!」
「……は、あ……?」
怒鳴り込んできたはずのバルトの口から、間の抜けた声が漏れた。
目の前に突き出されたのは、剣でも魔術でもなく、畳まれてしっかりと濡らされた木綿の雑巾。
命のやり取りが始まるはずの緊迫した瞬間に、「靴の泥を落とせ」と主婦のように怒られたのだ。鍛冶一筋五十年、辺境伯領の誰もが恐れる頑固親父の気勢が、完全に肩透かしを食らって空回りした。
「な、なんだぁ貴様……? 俺が誰だか分かってんのか? 騎士団の剣をすべて打ってきた鍛冶師のバルト様だぞ――」
「バルトさんですね。私は真昼です。初めまして。……名乗りは後でゆっくり伺いますから、とにかく泥です! 木の中に泥が染み込んじゃうと、シミになって取れなくなっちゃうんですよ!」
真昼にぐいぐいと雑巾を押し付けられ、バルトは呆気にとられながらも、長年の「工房を汚すと怒られる」という職人の習性が反射的に作動してしまったのか、
「あ、ああ……すまねえ……」
と、気まずそうに鼻面を掻きながら、泥だらけのブーツの底を雑巾でゴシゴシと擦り始めた。
そのあまりに締まらない光景に、殺気をみなぎらせていたジークフリートすらも、抜刀しかけた剣を中途半端な位置で止めたまま、ぽかんとして固まってしまう。
足元では、ベルが「やれやれ」とでも言いたげに、前足で顔を覆って小さく息を吐き出していた。
「よし、綺麗になりましたね。……それで、おじさん。何か御用ですか?」
真昼がにこやかに微笑みかけると、バルトはようやく自分が怒鳴り込んできた目的を思い出したのか、再び顔を真っ赤にして髭を震わせた。
「そ、そうだ! 誤魔化されるところだったぜ! おいジークの坊主、お前が最近毎朝どこへ――」
言いかけたバルトの言葉が。
唐突に、喉の奥でピタリと途切れた。
「…………あ?」
バルトの濁った、だが職人特有の鋭利な眼光が、真昼の背後――ログハウスのキッチンスペースへと吸い寄せられていた。
正確には、新調されたステンレス作業台の上。
先ほどまで真昼が鶏肉を切り分けるために使っていた、檜のまな板の上に置かれた――ひと振りの刃物だった。
「……おい、娘。……あれは、なんだ?」
バルトの声から、先ほどの怒気が完全に消え去っていた。
代わりに滲み出ていたのは、獲物を見つけた猛獣のような、狂気じみたまでの執着と緊張感だった。
バルトはジークフリートの制止も耳に入らない様子で、吸い寄せられるように作業台の前へと歩み寄っていった。
まな板の上に鎮座する、新潟・燕三条製の『ステンレス三徳包丁』。
窓から差し込む朝の光を浴びて、モリブデンバナジウム鋼の一体成形で作られた刀身が、一切の曇りなく、鈍く澄んだ銀色の光を放っている。
「……なんだ、この金属は……?」
バルトの節くれだった太い指先が、恐る恐る包丁の柄へと伸びた。
職人にとって、刃物は命そのものだ。他人の刃物に勝手に触れるのは重大な無作法だが、今のバルトにはそんな理性を保つ余裕など微塵も残っていなかった。
柄を握りしめ、持ち上げる。
その瞬間、バルトの分厚い眉が跳ね上がった。
「……軽い……!? いや、ただ軽いだけじゃねえ。重心が手元から切っ先まで、完璧な一本の直線を描いてやがる……!」
バルトは包丁を目の高さまで持ち上げ、刀身を凝視した。
鍛冶師としての五十年の経験が、彼の脳内で激しい警鐘を鳴らしていた。
見たこともない鋼だ。
ミスリルでもない。オリハルコンでもない。白銀のように美しい輝きを持ちながら、魔力を一切帯びていない。
それなのに、極限まで薄く延ばされた刃先には、恐ろしいほどの粘りと剛性が同居している。合わせ目の歪みも、叩きムラも、鍛造の傷ひとつ存在しない。まるで、神の手によって原子のレベルから均一に成形されたかのような、工業技術の極致。
「継ぎ目が……ねえ……? 柄から刃先まで、一枚の金属から削り出してやがるのか……!? 鉄にこれだけの粘りを持たせながら、どうやってここまでの薄刃を維持してんだ……!? 王都の宮廷鍛冶師どもが集まったって、こんな業物打てるわけがねえ……!」
バルトは興奮のあまり荒い息を吐きながら、おもむろに自らの親指の腹を、包丁の刃先へとそっと当てた。
プロの研ぎ師が、刃の「かかり」を確かめるための仕草だ。
指先を数ミリだけ、滑らせる。
その瞬間――バルトの表情が、職人のそれへと一変した。
太い眉を吊り上げ、チッと舌打ちを鳴らす。
「……あん? なんだこりゃあ。……おい、娘!」
バルトは包丁を握ったまま振り返り、真昼に向かって怒鳴りつけた。
「この鋼、間違いなく天下無双の超一級品だ! だが……研ぎが甘え!! なんだこの刃の付き方は! 機械で均一に削っただけの、ただの『形だけの刃』じゃねえか!」
「えっ? あ、それ、買ったばかりの新品なんですけど……」
真昼が目を丸くして答えると、バルトは心底許せないとばかりに地団駄を踏んだ。
「新品だからって甘えてんじゃねえ! 刃物ってのはなぁ、使い手の癖と食材の質に合わせて、砥石で魂を研ぎ澄まして初めて完成するもんだ! こんな素晴らしい鋼、もっと極限まで刃先を研ぎ澄ませば、落ちてくる鳥の羽だって真っ二つにできるし、産毛だって撫でるだけで剃れるんだよ! それをこんな……鈍ら(なまくら)一歩手前の状態で肉を切るなんざ、鍛冶の神に対する冒涜だ!!」
調理器具に対する並々ならぬ情熱を爆発させる頑固親父。
ジークフリートが「バルト、いい加減にしろ。真昼の私物を勝手に弄ぶな」と割って入ろうとしたが、バルトは完全に自分の世界へとトリップしていた。
彼は牛革のエプロンのポケットに手を突っ込むと、布に包まれた長方形の塊をいくつも取り出し、ステンレス作業台の上へと叩きつけるように並べ始めたのだ。
「貸せ! 俺がこの包丁に、本物の『命』を吹き込んでやる!」
「へ……?」
並べられたのは、濃淡の異なる三つの砥石だった。
粗研ぎ用の荒砥、形を整える中砥、そしてまるで鏡のように滑らかな最上級の仕上げ砥。いずれも名工の手によって平らに面直しされ、職人の油と研ぎ汁を吸い尽くした、バルト秘蔵の道具たちだった。
「娘! 桶に水を汲め! それと、清潔なボロ布を三枚用意しろ! 早くしねえと、この鋼のポテンシャルが泣いちまうぞ!!」
「は、はいっ! ただいま!」
真昼は怒鳴り込んできたはずの男の凄まじい気迫に圧倒されながらも、道具に対する真摯な情熱にどこか共感を覚え、慌てて木樽から新鮮な湧き水を汲んで差し出した。
怒鳴り込んできたはずの騎士団の鍛冶師が、なぜかログハウスの台所で、真昼の日本の包丁を前に腕まくりをして正座している。
「……まったく、何をしに来たのだ、あの男は」
ジークフリートが呆れ果てたように深くため息をつき、エプロンの裾を払った。
足元では、ベルが「人間は本当に騒がしいな」とでも言いたげに、真昼の足首にすり寄ってあくびをひとつ。
静かな森のログハウスに、やがて――。
シュッ、シュッ、シュッ……という、研ぎ師の奏でる一定で美しい摩擦音が、心地よく響き渡り始めたのだった。




