第17話:無口な団長の、分かりやすすぎるやきもち
朝靄の晴れゆく森は、日ごとにみずみずしい初夏の装いを深めていた。
木々の天蓋から零れ落ちる陽光が、ナラの厚板を並べた広大なウッドデッキに、淡い金色の縞模様を描き出している。
まだ朝の六時前だというのに、小道を軽やかに駆けてくる小さな足音が、静かな森の空気を心地よく揺らしていた。
「真昼さーん! おはようございますっ!」
熊笹の茂みをひょいと飛び越えて現れたのは、背負い籠を背負った少年ルッツだった。
先日の焼き芋の一件以来、ルッツはすっかり真昼に懐いていた。あの日手渡してくれた「森のガイドマップ」のお礼に何かできないかと、朝の涼しい時間帯に森の奥へ分け入り、見事な野草や珍しいキノコを見つけては、こうして届けてくれるようになったのだ。
「おはよう、ルッツくん。今日も早起きだね。転ばなかった?」
「へへっ、これくらい平気だよ! 見て見て、東の岩棚の裏で、すごくいい香りの野草を見つけたんだ!」
デッキに駆け上がってきたルッツが、背中から下ろした籠の蓋を誇らしげに開けてみせる。
中には、朝露に濡れた銀緑色の細長い葉をつけた野草の束が、丁寧に濡れ布巾で包まれて収められていた。鼻を近づけると、レモンに似た鮮烈な柑橘の香りと、タイムのような清涼感のある香気がふわりと立ち上る。
「わあ……! レモンバームに似てるけど、もっと香りが甘くて深い……。これ、天日干しにしてハーブティーにしたら絶対に美味しいわ。ルッツくん、本当にすごいね」
「えへへ、お役に立ててよかった! 村の長老も『あそこのハーブは上等だ』って言ってたから、お姉ちゃんに一番に持ってきたかったんだ!」
褒められたルッツは、焦茶色の瞳をきらきらと輝かせ、日焼けした頬を赤らめて照れ笑いを浮かべた。
足元で丸くなっていたベルが、のっそりと起き上がってルッツの足首に鼻先を寄せ、「くんくん」と匂いを嗅いだあと、小さく「わふ」と一声。少年を完全に仲間として認めた挨拶だった。
「ちょうどよかった。いまね、朝のおやつ……じゃなくて、朝ごはんのおやつを作ろうとしていたところなの。ルッツくんも一緒に食べていくでしょう?」
「えっ、いいの!? 食べる食べる!」
ルッツはお腹をさすりながら、目を輝かせてウッドデッキの丸太椅子へと勢いよく腰を下ろした。
***
ログハウスのキッチンへと戻った真昼は、割烹着の袖をきゅっと引き上げ、腕まくりをした。
今朝のメニューは、子どもの頃におやつとして祖母タエがよく作ってくれた、昔懐かしい『手作り蒸しパン』だ。
大がかりなオーブンがなくても、フライパンや蒸し器があれば、あっという間にふんわりと蒸し上げることができる。それに、朝の森の澄んだ空気には、立ち上る温かい蒸気と優しい甘みが何よりもよく似合う。
「今朝は二種類作ろうかな」
真昼がステンレスの作業台に並べたのは、ふたつのガラスボウル。
ひとつは、どこまでも素朴で優しいミルクの風味を味わう『プレーン蒸しパン』。
そしてもうひとつは、コク深い甘みと香ばしさがたまらない『黒糖蒸しパン』だ。
まずはプレーンの生地から。
ボウルに薄力粉百グラム、ベーキングパウダー小さじ一杯、きび砂糖三十グラム、そしてほんのひとつまみの粗塩を合わせ、泡立て器で均一になるよう空気を含ませながら混ぜ合わせる。
別の容器で溶き卵一個、牛乳七十ミリリットル、そして香りの良い純正サラダ油大さじ一杯をしっかりと乳化させ、粉のボウルへ一気に注ぎ入れた。
ゴムベラに持ち替え、切るように、手早く底からすくい上げる。
混ぜすぎてグルテンを出してしまっては、蒸しパン特有のふんわりとした口当たりが損なわれてしまう。粉っぽさが消えたところで、ピタリと手を止める。艶やかな薄黄色の生地が完成した。
続いて、黒糖の生地だ。
業務スーパーで仕入れておいた沖縄産の純黒糖の塊を、包丁の背で細かく砕く。
小鍋に砕いた黒糖五十グラムと湧き水を大さじ二杯入れ、カセットコンロの極弱火にかける。木べらでゆっくりと混ぜ合わせると、黒糖が熱で溶け崩れ、部屋中に香ばしいカラメルのような濃厚な薫香が広がっていく。
粗熱を取った黒糖シロップに牛乳を加え、薄力粉と重曹を合わせた粉類の中へと注ぎ込む。
重曹を加えることで、黒糖独特の濃い褐色がより深まり、昔ながらのふっくらと力強い割れ目が生まれるのだ。
「よし、型に流し込もう」
陶器のココット皿に、波型のグラシン紙を敷き詰める。
スプーンを使い、プレーンの生地と黒糖の生地を、それぞれ型の八分目まで流し入れた。
プレーンの上には、彩りとして業務スーパーで買ったドライクランベリーを二粒、ちょこんと乗せる。
黒糖の上には、白い炒りごまをパラリと散らす。
深型のフライパンの底に、湧き水を二センチほど張り、沸騰させておく。
グラグラと煮立つ湯の中に、耐熱の網を沈め、その上にココット皿を等間隔に並べ入れた。
ここからが、蒸しパンを完璧に仕上げるための最大のコツだ。
「蓋に、清潔な手ぬぐいを巻いて……と」
フライパンの蓋の内側に水滴が溜まり、それが蒸しパンの上に直接ボタボタと落ちてしまうと、生地の表面がふやけてベチャついてしまう。
蓋全体を大判の晒布でしっかりと包み込み、水滴を布に吸わせるようにして、ぴったりとフライパンに被せた。
火力は、強めの中火。
一気に強い蒸気を行き渡らせることで、ベーキングパウダーと重曹が勢いよく発泡し、生地が天に向かって花のように弾け開くのだ。
チクタク、チクタク。
タイマーが刻む音とともに、フライパンの隙間から、シュウシュウと白い蒸気が勢いよく吹き出し始める。
湯気とともに立ち上ったのは、甘いバニラとミルクの香り、そして黒糖の香ばしい焦がし蜜の匂い。
じっと待つこと、十二分。
「……時間だ!」
真昼は火を止め、手ぬぐいを巻いた蓋を、斜め手前に向けてサッと持ち上げた。
――ボワッッッ!
濃密な白い蒸気が、天に向かって一気に立ち昇った。
その向こうから現れた光景に、真昼は思わず小さく歓声を上げた。
「わあ……! 完璧に膨らんでる!」
型から溢れんばかりに盛り上がった蒸しパンたち。
プレーンは、まるで生まれたてのひよこのように淡い黄色で、頭頂部がパカッと三つに割れて花びらのように開いている。中央の赤いクランベリーが宝石のように愛らしい。
黒糖は、艶やかな深い琥珀色に染まり、力強く十文字に裂けた割れ目から、ふっくらとしたスフレのような断面を覗かせていた。散らされた白ごまが、熱で香ばしく弾けている。
竹串を中央に刺してみる。
すうっと抜けた串には、生の生地は一切ついてこない。中まで均一に、完璧に熱が通っていた。
真昼はトングを使い、熱々のココット皿を木製の丸盆へと取り出した。
「お茶も淹れなきゃね」
萬古焼の急須に、香ばしいほうじ茶の茶葉をたっぷりと入れ、熱湯を一気に注ぎ入れる。
湯呑みに注ぎ分けると、立ち上る焙煎香が、甘い蒸しパンの香りと混ざり合い、ログハウスの中をまるで老舗の甘味処のような心地よい空気に染め上げていった。
***
「ルッツくん、お待たせ! 蒸したてのアツアツだよ」
真昼がウッドデッキへお盆を運んでいくと、ベンチで待っていたルッツが「うわあぁっ!」と声を上げて立ち上がった。
湯気をもうもうと上げる、二色の蒸しパン。
「な、なにこれ……! パン……? でも、焼いたパンと違って、すごく柔らかそう……! 湯気からあまーい匂いがする!」
「蒸しパンって言うの。油で揚げたりオーブンで焼いたりしないで、蒸気の熱だけでふっくら膨らませてあるんだよ。熱いから気をつけて食べてね」
真昼はプレーンの蒸しパンをひとつ、紙ナプキン越しにルッツの手へと手渡した。
ずっしりとした見た目に反して、指先に伝わる感触は、まるで生まれたての小鳥を抱きしめたかのように羽毛のように柔らかく、ぷるぷると弾力がある。
ルッツは両手で持ち上げ、フーフーと息を吹きかけながら、割れ目の端っこをちぎって口の中へと放り込んだ。
――ハフッ、ふわぁっ……。
口に入れた瞬間、ルッツの焦茶色の瞳がまん丸に見開かれた。
「…………っ!!」
噛む必要すらなかった。
舌の上に乗せた刹那、温かい生地がしっとりと、まるで綿菓子のように優しく解けて消えていく。
そして広がるのは、牛乳と卵の、どこまでも素朴で温かい甘み。
きび砂糖の丸みのある甘さと、微かな塩気が小麦の風味を引き立て、甘酸っぱいクランベリーが絶妙なアクセントを添えている。
「ふあぁぁ……っ! や、柔らかい……! 雲を食べてるみたいだ……! すごく優しくて、あまくて、あったかい……!」
「ふふ、こっちの黒い方も食べてみて。黒糖っていう、お砂糖の蜜で作ったんだよ」
促されるまま、ルッツは黒糖の蒸しパンにもかぶりついた。
――ハフッ、もぐもぐ。
プレーンとは打って変わって、口いっぱいに広がったのは、重厚で香ばしい、濃厚なコクのある甘み。
重曹のほのかな独特の風味が、黒糖の野趣あふれるミネラルと見事に絡み合い、噛み締めるほどに深い余韻が鼻腔を抜けていく。白ごまがプチッと弾けるたびに、香ばしさが口内で炸裂する。
「う……うまい……! こっちもすっごくコクがあって美味しい! お姉ちゃん、僕、こんな美味しいおやつ毎日食べられたら、どんな山奥の薬草だって採ってこられるよ!」
熱いほうじ茶をずずっとすすり、喉を潤しながら、夢中で二つの蒸しパンを頬張るルッツ。
その無邪気で幸せそうな笑顔を見ているだけで、真昼の胸の奥底がじんわりと温かくなる。
会社員時代、どんなに頑張っても「やって当然」と冷たくあしらわれ、誰からも感謝されることのなかった真昼の心が、少年の笑顔によって優しく満たされていく。
「ふふ、そんなに喜んでもらえてよかった。……ルッツくん、今日も良いハーブをたくさん届けてくれてありがとうね。本当に偉い、偉い」
真昼は微笑みながら手を伸ばし、少年の少し癖のある茶色い髪を、くしゃりと優しく撫でてやった。
ルッツは嬉しそうに目を細め、まるで甘える子犬のように真昼の手のひらに頭をすり寄せて――。
その、瞬間だった。
――ピシリ。
まるで、広場全体の空気が一瞬にして凍りついたかのような、強烈な寒気が背筋を駆け抜けた。
風が止まった。鳥のさえずりが途絶えた。
木漏れ日の差し込む穏やかだったウッドデッキの気温が、目に見えて急降下していく。
「……え?」
真昼が思わず手を止め、振り返った。
デッキの階段の前に、いつの間にか、ひとつの巨大な人影が音もなく仁王立ちしていたのだ。
「…………」
白銀の甲冑ではなく、いつもの紺色の活動服に、糊のきいた真っ白なリネンエプロン。
腰の後ろには几帳面に結ばれた蝶結び。
右手には、先ほどまで振るわれていたのであろう、愛用の薪割り斧。
シルヴァ辺境警備騎士団長、ジークフリート・フォン・ヘスラー。
だが――その容貌は、ここ数日の穏やかさが嘘のように、完全に「氷河の冷徹さ」を取り戻していた。
彫刻のように整った顔立ちは微動だにせず、青氷の瞳は一切の感情を削ぎ落とし、ただただ真っ直ぐに――真昼の手が乗せられている、ルッツの頭のてっぺんを、射抜くような眼光で見つめ据えていたのだ。
(ひ、氷点下……!? な、なにこの空気……!?)
真昼の肌が粟立つ。
そして、その殺気じみた気圧を誰よりも敏感に察知したのは、野生の勘を持つルッツだった。
「ひ……っ!?」
ルッツの全身の毛穴がキュッと収縮した。
少年の顔から一瞬で血の気が引き、頬に蒸しパンのくずをつけたまま、ガタガタと小刻みに震え始める。
見上げる先に立つのは、辺境の領民なら誰もが恐れ敬う、泣く子も黙る冷徹な騎士団長。
その団長が、まるで親の仇でも見るかのような冷たい視線を、自分にだけピンポイントで突き刺してきているのだ。理由は分からないが、ここに一秒でも長く留まれば、あの斧で丸太のように両断される――!
生存本能の警報が、ルッツの脳内でけたたましく鳴り響いた。
「ひぃぃっ! ご、ごちそうさまでした! ま、またね真昼さんッ!!」
叫ぶやいなや、ルッツは空になった背負い籠をひったくるように抱え、脱兎の勢いでウッドデッキを飛び降りた。
そして、茂みをかき分け、まるで風のように森の小道を麓へ向かって逃げ去っていったのだった。
「あ、ルッツくん!? 走ったら危ないよ……って、行っちゃった……」
あっという間に遠ざかる少年の背中を見送り、真昼はぽかんと立ち尽くした。
足元で丸くなっていたベルが、ふすりと鼻を鳴らし、「まったく面倒な大男だ」とでも言いたげにジークフリートを見上げてあくびをひとつ。
広場には、再び静寂が戻っていた。
テラスの前には、依然として白エプロン姿のジークフリートが、感情の読めない無表情のまま佇んでいる。
真昼は気を取り直し、エプロンの埃を払って笑顔を向けた。
「ジークさん、おはようございます! 薪割り、もう終わったんですか? ちょうどよかった、今朝は蒸しパンを作ったんですよ。蒸したてで熱々ですから、どうぞ座ってください」
真昼が明るく声をかけると、ジークフリートの青い瞳が、わずかに揺れた。
彼は無言のまま、手にしていた斧を壁際へと静かに立てかけた。
そして――。
ツカ、ツカ、ツカ。
軍靴の重々しい足音を響かせながら、ジークフリートは真っ直ぐにウッドデッキを歩み寄ってきた。
長身の彼が近づいてくるだけで、独特の威圧感が漂う。
彼は真昼の目の前まで来ると、ルッツが先ほどまで座っていた丸太椅子の前に立ち止まり、軍人のように無駄のない所作で、ドサリと腰を下ろした。
「ジークさん……?」
真昼が小首を傾げた、その時だった。
――スッ……。
ジークフリートは、背筋をピンと伸ばしていた姿勢を、おもむろに崩した。
鍛え抜かれた逞しい背中を丸め、長い首をぐっと前へと傾ける。
そして。
真昼の腰の高さ、ちょうど彼女の手が自然と届く位置まで――自らの、太陽の光を浴びてきらめく豪奢な金糸の頭を、低く、低く差し出してきたのだ。
「………………え?」
真昼の思考が、完全に停止した。
目の前にあるのは、整然と梳かれた、美しい金髪のつむじ。
サラサラとした清潔な髪からは、朝の森の針葉樹の匂いと、微かな汗の男らしい香りが漂っている。
大柄な騎士団長が、真昼の前で小さく身を縮こまらせ、頭を差し出して微動だにしない。
あまりの事態に、真昼は目をパチパチと瞬かせた。
「あ、あの……ジークさん? どうしたんですか……?」
おずおずと問いかけた真昼に対し、ジークフリートは頭を下げたまま、顔を上げようとしなかった。
だが、金髪の隙間から覗く彼の首筋が。
そして、ピンと立った耳の先端が。
まるで熟れすぎたトマトのように、みるみるうちに真っ赤に染め上がっていくのが見て取れた。
ジークフリートは喉をごくりと鳴らし、唇を震わせながら、蚊の鳴くような、だが絞り出すような低音で、ぽつりと呟いたのだ。
「…………私も、今朝は薪を二束、余分に割った」
「………………はい?」
「森の外縁に倒れていた楢の倒木を回収し……規定の長さに切り揃え、二束余分に軒下へ積んだ。……周辺の警戒も、通常の倍の範囲を巡回した」
ジークフリートは、消え入りそうな声で、だが極めて几帳面に自らの「今朝の功績」を報告し続けた。
そして、わずかに上目遣いになり、青氷の瞳を潤ませながら、真昼の右手をじっと見つめてきたのだ。
「……薬草採りの少年よりも……私の方が、重労働をこなしたはずだ」
「……………………ッ!!」
真昼の脳内で、すべてのパズルのピースがガシャンと音を立てて噛み合った。
(や、やきもち……!? この人、ルッツくんが頭を撫でられてるのを見て……自分も撫でてほしくて、こんな……!?)
二十八歳。
名門ヘスラー公爵家の三男にして、泣く子も黙るシルヴァ辺境警備騎士団長。
白銀の甲冑を纏えば一騎当千の英雄と呼ばれる男が。
糊のきいた白エプロンを着け、耳を真っ赤に染めながら、「私も頑張ったから撫でてほしい」と、無言の圧力をかけて頭を差し出してきているのだ。
――ぶわっ、と真昼の胸の奥から、愛しさと可笑しさが津波のように込み上げてきた。
吹き出してはいけない。
ここで笑ったら、この誇り高き大型犬のような騎士団長は、羞恥のあまり森の奥へ逃走してしまうかもしれない。
真昼は奥歯をギリリと噛み締め、震える頬の筋肉を必死に引き締めながら、両手をそっと持ち上げた。
「……そうですね。ジークさん、今朝も重たい薪をたくさん割ってくれて、ありがとうございます」
真昼は、差し出された金糸の髪の上に、自らの柔らかな手のひらをそっと乗せた。
触れた瞬間、ジークフリートの大きな身体がピクリと跳ねた。
絹糸のように滑らかで、驚くほどサラサラとした手触り。真昼は子どもの頭を撫でるように、大きな手のひらで、彼の金髪をわしゃわしゃと、優しく丁寧に撫でてやった。
「えらい、えらい。ジークさんは、世界一頼りになる騎士団長さんですね」
真昼が言葉を添えながら何度も撫でてやると、ジークフリートは強張らせていた肩の力を、ふっと抜いた。
大きな胸板が上下し、
「……ふぅ……」
と、まるで長年の重荷から解放されたかのような、深くてあたたかな安堵のため息を漏らしたのだ。
目を細め、真昼の手のひらの温もりを慈しむように、わずかに自ら頭を擦り寄せてくる仕草。
耳は真っ赤なままだが、その口元には、かつて誰も見たことがないであろう、極上に幸福そうな、蕩けた笑みが浮かんでいた。
(……可愛い……! なにこの人、可愛すぎる……!!)
真昼は心の中で絶叫しながら、必死に平静を装って手を離した。
頭を上げさせたジークフリートは、まだ頬に赤みを残しながらも、目に見えて機嫌を良くして背筋を正した。
「……うむ。礼を言う、真昼」
「あはは、どういたしまして! ……それじゃあ、冷めないうちに蒸しパンを食べましょうか!」
***
丸太テーブルの上に、竹籠に盛られた蒸しパンと、湯気を立てるほうじ茶が並べられた。
ジークフリートは居住まいを正し、胸の前で手を合わせる。
「……いただきます」
彼が最初に手を伸ばしたのは、やはりルッツが絶賛していた『プレーン蒸しパン』だった。
大きな掌で包み込むように持ち上げる。
ジークフリートはその驚くべき柔らかさに目を見張り、慎重に口元へと運んだ。
大口を開け、ふんわりとした割れ目にかぶりつく。
――ハフッ、ジュワッ……。
噛み締めた瞬間、ジークフリートの青氷の瞳が、歓喜の光で満たされた。
「……っ! 柔らかい……! パンのように焼き固められておらず、まるで蒸気そのものを食んでいるかのように滑らかだ……! そしてこの、乳と卵の優しい甘み……朝の身体に、じんわりと染み渡っていくようだ……」
「ふふ、こっちの黒糖の方もどうぞ。お砂糖のコクがしっかりしてて、力仕事のあとにぴったりですよ」
真昼が勧めると、ジークフリートは頷き、黒糖蒸しパンを一口で半分ほど頬張った。
咀嚼した瞬間、ジークフリートの喉仏が大きく上下する。
「……美味いな……! この黒い蜜の香ばしさ、ただ甘いだけでなく、土の力強さを感じる……! 散らされた胡麻の香気も素晴らしい。……腹の底から、力が満ちてくるようだ」
熱いほうじ茶をぐっと飲み干し、口内に広がる香ばしい余韻に目を細めるジークフリート。
彼の手は止まることなく、あっという間に三つの蒸しパンがその逞しい胃袋へと消え去っていった。
完食したジークフリートは、空になった竹籠を見つめ、満足そうに深く息を吐き出した。
足元では、真昼から削りたての鰹節をもらったベルが、満腹になってウッドデッキの日だまりへとゴロンと横たわっている。
初夏の爽やかな風が、ナラの木肌を優しく撫で、木漏れ日が揺れる。
「……真昼」
「はい?」
「明朝も……薪を、余分に割っておく」
真面目腐った顔で、だが耳をほんのり赤くしながら告げてくるジークフリートに、真昼は堪えきれずに吹き出した。
「はいはい! 明日の朝も、ちゃんとたくさん褒めてあげますからね!」
朝の澄んだ森に、真昼の明るい笑い声がカラカラと響き渡る。
強面で冷徹な騎士団長の見せた、あまりにも不器用で愛らしいやきもち。
ふたつの世界を結ぶ小さな小屋の食卓は、美味しい蒸気とともに、また一段とあたたかな甘さに包まれていたのだった。




