第14話:甘党副官の陥落と、焼きたてスコーン
「だ、団長ぉぉぉぉぉっっ!? な、何をなさっているのですかぁぁぁーーッッ!!?」
深い朝霧が立ち込める森の広場に、クラウスの魂の底からの絶叫が木霊した。
斜面を派手に転がり落ちて泥だらけになった深緑の外套。擦りむいた額から血を滲ませながらも、副官クラウスは鬼気迫る形相で立ち上がり、腰の短剣の柄へと勢いよく手をかけた。
その血走った視線が射すくめるのは、ジークフリートの隣で驚きに目を見張る黒髪の少女――真昼だ。
「貴様だな! 我が敬愛する団長をその妖艶な術で誑かし、あのような恥辱に満ちた白布を纏わせ、正気を奪った不埒な魔女め! 騎士団長を愚弄した罪、このクラウスが万死に処して――」
「――控えよ、無礼者ッ!!」
ドォォォンッ!!
大気を震わせるほどの怒号とともに、万物を切り裂くような鋭利な殺気が炸裂した。
抜刀しかけたクラウスの切っ先が、寸分の狂いもなく振るわれた鉄の手甲によって、真横から凄まじい力で叩き落とされる。
ガキンッ! と甲高い火花が散り、短剣がウッドデッキの床板を激しく回転しながら転がっていった。
「ぐあっ……!?」
「何が魔女だ。何が恥辱だ。己の不明を棚に上げ、丸腰の娘に刃を向けるなど、騎士の風上にも置けぬ愚行! その短慮、我が剣の名にかけて断じて許さん!!」
白エプロンを風になびかせ、クラウスの眼前に仁王立ちとなったジークフリートの青氷の瞳は、もはや絶対零度を通り越して業火のように燃え盛っていた。
団長が本気で激怒したときに放つ、山をも圧するような覇気。
百戦錬磨の魔獣すら卒倒させるその威圧感を至近距離で浴びせられ、クラウスの膝は文字通りガクガクと音を立てて崩れ落ちた。
「だ、団長……しかし、そのお姿は……」
「黙れ! 座れ! 膝を折り、背を正せ!!」
「は、ハッッ!!」
骨の髄まで叩き込まれた軍隊教育が反射的に作動し、クラウスはウッドデッキの硬い床板の上に、寸分の隙もない完璧な姿勢で正座させられた。
その頭上へ、足元で毛を逆立てていた神獣ベルが「グルルルルッ……!」と容赦ない威嚇の唸り声を浴びせかける。純白の愛らしい子犬の姿でありながら、その瞳に宿る神聖な冷気は、下手をすれば魂ごと凍結させられそうなほどの気圧を放っていた。
「ひっ……!?」
「ベル、もう大丈夫だからね。威嚇はおしまい」
絶体絶命の窮地に陥ったクラウスの耳に、ふわりと柔らかな声が届いた。
割烹着姿の真昼が駆け寄り、ベルの首元を優しく撫でると、恐るべき神獣はあっさりと「ふしゅる」と鼻を鳴らして牙を収め、真昼の足首へと擦り寄っていった。
真昼は困惑したように眉を下げながら、泥だらけで正座するクラウスの前に屈み込む。
「あの……副官さん、大丈夫ですか? おでこから血が出てますよ」
「き、気安く話しかけるな魔女め! 貴様がどのような邪法で神獣と我が団長を手籠めにしたかは知らんが、このクラウスの忠誠は決して屈せ――」
「クラウス。貴様、舌を引き抜かれたいのか」
「ヒィッ! も、申し訳ありませんッ!!」
背後から放たれたジークフリートの凍てつく一言に、クラウスは直立不動のまま悲鳴を上げて縮こまった。
ジークフリートは盛大に溜息をつき、頭痛をこらえるように額を指先で押さえた。
「真昼、すまない。私の部下が狼藉を働いた。……こいつはクラウス。私の副官を務める男だが、生真面目が服を着て歩いているような石頭でな。私の不審な単独行動を勝手に邪推し、尾行してきたのだろう」
「団長! 邪推とは心外です! ここ一週間の団長の激変ぶりを見れば、誰だって異常事態だと思うではありませんか! あんなに死相が出ていた団長が、毎朝血色を良くして戻ってこられ、しかも妙に甘やかな香りを漂わせて……! 私は、私は団長の身を案じるあまり、三日三晩ろくに眠れず、胃を痛めながら――」
必死に自らの忠義を訴えかけるクラウス。
だが、その熱弁のクライマックスを迎えた、まさにその瞬間だった。
――グギュルルルルルルルルルッッッ!!
静かな森の朝を、無慈悲極まりない重低音が引き裂いた。
それは、ジークフリートが数日前に鳴らした音をも遥かに凌駕する、飢餓の限界を告げる内臓の絶叫。
クラウスの腹の奥底から響き渡ったその音は、あまりに長く、あまりに切実で、ウッドデッキの木肌を微かに震わせるほどだった。
「………………」
森が、静まり返った。
クラウスの顔面が、青から赤へ、赤から土気色へと目まぐるしく変化していく。
そう、彼もまた、敬愛する団長を過労死から救おうと必死に奔走し、ここ数日は睡眠を削って尾行と見回りを続け、今朝も朝食など一口も口にしていなかったのだ。
そして目の前には、ジークフリートが先ほどまで食べていた、甘辛い醤油とみりんの焦げた匂いを放つ焼きおにぎりの残骸。
漂う暴力的な香気に、空っぽの胃袋が反乱を起こさないはずがなかった。
「……ぶ、無礼を……っ! あ、朝の鍛錬による一時的な消化器官の鳴動にすぎず……っ!」
真っ赤になって必死に言い訳を繕うクラウス。
その痛々しいまでの痩せ我慢と、胃のあたりを無意識に押さえる仕草を見て、真昼は思わずふっと目元を緩めた。
怒りなど、最初から湧いていなかった。
この人もまた、ジークフリートと同じなのだ。誰かを守るために、責任感という重圧に押し潰されそうになりながら、自分の身体を限界まで痛めつけて戦っている。
「ジークさん」
「……なんだ、真昼」
「もうお説教はおしまいにしましょう。……まあまあ、とりあえずお茶にしませんか?」
「なっ……!?」
予想だにしなかった真昼の提案に、クラウスが驚愕の面持ちで顔を上げた。
真昼はエプロンのポケットから清潔な木綿の手ぬぐいを取り出し、クラウスの膝元へとそっと置いた。
「おでこの泥、拭いてくださいね。……お腹が空いてるときに難しいお話をしても、ろくなことになりませんから。副官さんも、少し甘いものでも食べて、一息つきましょう」
そう言うと、真昼はくるりと背を向け、軽やかな足取りでログハウスの扉の向こうへと姿を消していった。
残されたクラウスは、手元に置かれた手ぬぐいと、腕組みをして冷たい眼光を向けてくるジークフリートを見比べ、ただただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
***
ログハウスのキッチンに立った真昼は、素早く思考を回転させた。
焼きおにぎりとなめこ汁は、ジークフリートがほとんど平らげてしまっている。今から新しくご飯を炊いて出汁を引くには、少し時間が足りない。
何より、あの副官の青白い顔色と、神経が高ぶって張り詰めた瞳。
激しいストレスと疲労で脳の糖分が枯渇している人間に、今一番必要なのは――手早く作れて、身体を芯から温め、脳の緊張を一瞬で解きほぐすような「優しい甘み」だ。
「よし、あのおやつを作ろう!」
真昼は古民家の押し入れゲートから、昨日業務スーパーで買い込んできた物資の中から『ホットケーキミックス』の小分けパック(二百グラム)をひとつ掴み取ってきた。
日本の製粉技術の結晶であるホットケーキミックスは、小麦粉、砂糖、ベーキングパウダーが絶妙な黄金比でブレンドされており、工夫次第でどんな焼き菓子にも化ける万能の魔法の粉だ。
ボウルにホットケーキミックスをざらざらとあけ、そこへ冷暗所に保存しておいた有塩バター五十グラムを取り出す。
包丁で一センチ角のサイコロ状に細かく刻み、粉の中に散らすように投入した。
ここからが時間勝負の作業だ。
真昼は指先をすり合わせるようにして、粉の中でバターの塊を素早く潰し、擦り混ぜていく。
――ササッ、サササッ。
手のひらの体温でバターが溶けてしまっては台無しになる。指先の冷たい部分だけを使い、手早く粉と脂を馴染ませていくと、ボウルの中身はみるみるうちに、サラサラとした粗い粉チーズのような質感へと変わっていった。
そこへ、冷たい牛乳を大さじ四杯、回し入れる。
木べらに持ち替え、切るように、底からすくい上げるようにして混ぜ合わせる。
絶対に練ってはならない。粉っぽさが消え、全体がひとつのボロボロとした塊になったところで手を止める。
ラップを広げた作業台の上に生地を取り出し、手で上から優しく押し広げては半分に折り、再び押し広げては半分に折る。これを三度だけ繰り返すことで、焼いたときに美しい層が生まれ、外側がザクザク、内側がふんわりとした食感に仕上がるのだ。
厚さ二・五センチほどの長方形に整え、燕三条製の三徳包丁で素早く八等分の三角形に切り分けた。
「さあ、ここからが裏技!」
本来ならオーブンでじっくり焼き上げるスコーンだが、真昼が取り出したのは、深型のテフロン加工フライパンと、カセットコンロだった。
弱火にかけたフライパンにクッキングシートを敷き、三角形の生地を等間隔に並べる。
ぴったりと蓋をして、極弱火でじっくりと八分間蒸し焼きにする。
底面に美しいキツネ色の焼き目がついたところで、ひっくり返してさらに五分。
最後に、表面をカリッと香ばしく仕上げるため、石造りのかまどに設置された魚焼き網の上へ移し、遠火の強火で表面を数十秒だけ炙る。
――パチッ、ジュワッ……。
その瞬間、狭いログハウスの中に、暴力的なまでの甘い薫香が爆発した。
熱されたバターが生地の隙間からじわりと滲み出し、小麦と砂糖が焦げる、芳醇極まりない焼き菓子の匂い。ホットケーキミックスに含まれるバニラの甘い香りが、香ばしいバターの脂気と混ざり合い、朝の冷たい空気を一瞬で黄金色の幸福感で塗り替えていく。
「これに合わせて……ミルクティーも淹れなきゃね」
小鍋に少量の湧き水を沸かし、濃厚なコクを持つアッサムの茶葉をスプーン山盛り二杯投入する。
濃い赤褐色のエキスが抽出されたところで、成分無調整の牛乳を一気に注ぎ入れる。
弱火でことことと温め、鍋肌に小さな泡が立ち始めた絶妙のタイミングで火を止める。沸騰させて膜を張らせてはならない。
仕上げに、きび砂糖を小さじ一杯だけ溶かし込み、茶漉しを通して二重構造のガラスマグカップへと注ぎ分けた。
湯気とともに立ち上るのは、濃厚なミルクの甘みと、茶葉の深い渋みが調和した、至高のロイヤルミルクティーの香り。
さらに、煮沸消毒した小鉢に、あの青紫色の宝石――『ルミナスベリーのジャム』をたっぷりとよそい、木のスプーンを添える。
大きなお盆の上に、焼きたてのアツアツスコーン、琥珀色のミルクティー、そして濃紺のジャムを並べ、真昼はテラスへと歩みを進めた。
***
テラスの円卓では、クラウスが依然として直立不動の姿勢で正座を続けていた。
額の傷を手ぬぐいで押さえながらも、その視線は警戒を解いていない。
だが、ログハウスの扉が開き、真昼がお盆を抱えて出てきた瞬間――クラウスの全身が、ビクンと痙攣したように跳ね上がった。
(な……な、何だ、この香りは……!?)
朝風に乗って押し寄せてきたのは、先ほどの焼きおにぎりとはまったく異なる、甘美で、濃厚で、脳の奥底を直接麻痺させるような焼き菓子の芳香だった。
香ばしく焼けたバターの香りと、甘いバニラの誘惑。
そして、濃厚なミルクと紅茶が織りなす、貴族の夜会でも嗅いだことのない高貴な湯気。
実を言えば――クラウスには、誰にも言えない致命的な秘密があった。
清廉潔白で厳格な騎士として振る舞い、部下たちには規律を説いている彼だったが、その本性は、幼少期から甘味に対して目がない『超弩級の甘党』だったのだ。
だが、質実剛健を美徳とする辺境警備騎士団において、男が甘味を好むなど恥ずべきこととされ、クラウスはずっとその欲求を心の奥底に封印し続けてきた。
そんな彼の目の前に。
今、人生で出会ったどの菓子よりも暴力的に美味そうな香りを放つ物体が、音を立てて置かれたのだ。
「お待たせしました! 焼きたてのスコーンと、熱々のロイヤルミルクティーです」
ことり、とテーブルの上に並べられた光景。
竹籠の上に敷かれたナプキンの上で、湯気を立てているキツネ色の三角形のスコーン。
側面には、綺麗にパックリと割れ目――狼の口が開き、外側がサクサクに焼き上がっていることが一目で分かる。
マグカップに満たされた、淡いキャラメル色のミルクティーからは、ふくよかな蒸気が立ち上り、隣の小鉢の中では、夜空を閉じ込めたような深い青紫色のジャムが、朝光を浴びてキラキラと妖艶に輝いていた。
「……こ、これは……」
クラウスの喉仏が、ごくりと大きな音を立てて上下した。
瞳孔が開き、手ぬぐいを握る指先がプルプルと震えている。
理性は叫んでいた。『毒だ、魔女の罠だ、口にしてはならない』と。
だが、過労と空腹で悲鳴を上げる脳髄は、目の前の糖分と脂質の塊に、無条件降伏の白旗を掲げかけていた。
「正座したままじゃ食べにくいでしょう? 椅子に座ってください。……熱いうちが一番美味しいですから、どうぞ」
真昼が優しく微笑みかけ、ベンチを勧める。
ジークフリートもまた、腕組みを解き、静かに顎をしゃくった。
「クラウス。真昼の好意を無下にするな。……毒など入っていないことは、私が身をもって証明している」
「だ、団長……しかし……」
「食え。これは命令だ」
上官からの「絶対遵守の命令」という大義名分が与えられた瞬間、クラウスの最後の防波堤が決壊した。
クラウスは崩れるようにベンチに腰を下ろすと、震える両手を伸ばし、熱々のスコーンをひとつ手に取った。
指先に伝わる、驚くほどの軽やかさと、しっかりとした焼き目のサクサクした感触。
真昼に教えられた通り、側面の割れ目に指をかけ、優しく二つに割る。
――サクッ、ふわぁっ……。
割れた断面から、閉じ込められていた純白の蒸気がふわりと立ち上った。
内側は、まるで焼き立てのパンのようにしっとりと、きめ細やかなスフレのように柔らかい。
濃厚なバターの香りが、鼻腔をこれでもかとくすぐる。
クラウスは木のスプーンを手に取り、小鉢の青紫色のジャムをたっぷりとすくい上げた。光を吸い込む深い藍色の果肉を、スコーンの断面に惜しげもなく乗せる。
そして、意を決して大口を開け、思い切りかぶりついた。
――サクッッッ!
テラスに、澄み切った軽快な破裂音が響き渡った。
その瞬間。
クラウスの身体が、まるで落雷に打たれたかのように硬直した。
「……………………ッッ!?」
青い瞳が、限界を突破して見開かれる。
噛み締めた瞬間、まず外側の生地が、極上のパイのようにサクサクと心地よい音を立てて崩れ去った。
そして内側から現れたのは、しっとりと温かく、口の中で優しくほどけていく小麦とミルクの素朴な甘み。有塩バターの絶妙な塩気が、ホットケーキミックスの優しいバニラの香りをどこまでも引き立てている。
だが――真の衝撃は、その直後に訪れた。
生地とともに口の中で弾けた、ルミナスベリーのジャム。
濃厚なベリーのコクと甘酸っぱさが舌全体を包み込んだ刹那、まるで最高級のマスカットを丸ごと噛み砕いたかのような、信じられないほど華やかで澄み切った清涼感が、爆発的な勢いで鼻腔を突き抜けていったのだ。
(な……な、何だこれは……!? サクサクなのに、中はふんわりと解けて……バターの塩気と、この世のものとは思えない果実の甘みが……完璧に、完璧に調和している……!!)
咀嚼するたびに、多幸感が津波のように押し寄せてくる。
冷え切っていた胃袋の壁を、温かいバターと果実の滋味が優しく撫で洗い、疲弊しきっていた脳細胞の隅々まで、純粋なブドウ糖が染み渡っていくのが分かった。
すかさず、マグカップを両手で持ち上げ、熱々のロイヤルミルクティーを口に含む。
――ず、ずずっ。
濃厚なミルクのコクと、アッサム茶葉の芳醇な渋みが、口内に残っていたバターの油分を優しく包み込み、まろやかな余韻を残して喉の奥へと滑り落ちていく。
「……っ! あ……あぁぁ……っ!」
クラウスの喉から、掠れた嗚咽のような感嘆が漏れた。
両手で頭を抱え、ベンチの上で天を仰ぐ副官。
その目尻からは、大粒の涙がポロポロと零れ落ち、泥のついた頬を伝っていた。
「な、何ですか……何ですかこの天上の焼き菓子は……! 甘い……温かい……! 舌が、脳が、蕩けて溶けて消えてしまいそうです……! こんな……こんな美味いものが、この世にあっていいはずがない……!」
「ふふっ、お口に合って良かったです。甘いもの、お好きなんですね」
真昼が嬉しそうに微笑みかけると、クラウスは我を忘れたように二口目、三口目へと喰らいついた。
サクサク、ハフハフと、夢中でスコーンを口に放り込み、ジャムをこれでもかと塗りたくり、ミルクティーで流し込む。
鬼の副官と呼ばれた厳格な男が、今やただの甘味に飢えた子どものように、顔中をジャムとパンくずで汚しながら貪り食っている。
あっという間に、二つ目のスコーンが消え去り、彼の手が三つ目へと伸びかけた――その時だった。
――スッ。
横から伸びてきたたくましい腕が、竹籠の上から三つ目のスコーンを素早く奪い去った。
ジークフリートだった。
騎士団長は自らの手の中にスコーンを確保すると、白エプロンの胸元を正し、氷のような低い声で部下を睨みつけた。
「……クラウス。貴様、私の分まで食う気か」
「はっ……!? だ、団長!?」
「これは真昼が、私のために用意してくれた朝食の一部でもあるのだぞ。……すでに二つも平らげておきながら、これ以上我が取り分を侵食することは、軍律違反に匹敵する重罪だ」
大真面目な顔で、焼き立てスコーンを背中に隠しながら部下を牽制するエリート騎士団長。
その大人げない態度に、真昼は吹き出しそうになるのを必死でこらえた。
「だ、団長……! あ、あと半分……あと一口だけでいいので、恵んでください……! あの青い果実のジャムが、どうしても忘れられず……っ!」
「ならん。このスコーンのサクサク感と、真昼特製のベリージャムの調和は、一欠片たりとも貴様に譲る気はない」
冷徹に言い放ち、ジークフリートは自らのスコーンにたっぷりとジャムを乗せ、サクリと美味しそうに口へ運んだ。
その至福の表情を見せつけられ、クラウスはがっくりと肩を落とし、空になった自らの小皿を見つめて「くぅぅ……」と情けない呻きを漏らした。
足元で丸くなっていたベルが、そんなクラウスのブーツの先を前足で「ぺしっ」と軽く叩き、「諦めろ」とでも言うように短く鼻を鳴らす。
クラウスは深々と息を吐き出し、胸の前で両手を組むと、真昼に向かって直角に頭を下げた。
その瞳には、先ほどの敵意や疑念など微塵も残っていなかった。
あるのは、胃袋を完全に制圧され、魂の底から降伏した者だけが浮かべる――絶対的な崇拝の光だった。
「……真昼様。先ほどの非礼、万死に値します。どうか、どうかこの愚かなクラウスをお許しください……!」
「あはは、全然気にしてませんから、頭を上げてください」
「いえ! これほどの天上の美味を作り出すお方を、魔女などと罵った我が罪は重い……! どうか、私にもお仕えさせてください! 団長だけでなく、私めも毎朝の薪割りや荷物持ち、何でもいたしますので……たまに、あのスコーンの端切れだけでも恵んでいただけないでしょうか……!?」
必死に懇願する副官の姿に、真昼はカラカラと楽しげに笑い声を上げた。
初夏の風が森の木々を揺らし、ウッドデッキの上に優しい木漏れ日を落としていく。
冷徹な騎士団長に続き、生真面目な副官までもが、焼きたてのスコーンとジャムの前に完全陥落した朝。
ふたつの世界を結ぶ小さな小屋の食卓は、またひとつ、賑やかであたたかな絆を深めていたのだった。




