第13話:副官の尾行と、朝霧に立つ白エプロン
シルヴァ辺境警備騎士団の本部宿舎は、夜明け前の深い青紫の静寂に沈んでいた。
東の地平線すらまだ白んでいない、午前四時。石造りの冷え切った廊下に、カツ、カツと気配を押し殺した微かな跫音が響く。
柱の影に身を潜めていた副官クラウス(二十四歳)は、暗闇の中で息を呑み、細めた視線を廊下の先へと凝らした。
音の主は、間違いなく我が上官――騎士団長ジークフリート・フォン・ヘスラーその人だった。
甲冑は身につけていない。動きやすい濃紺の活動服に、腰には帯剣すら佩びておらず、手には空の大きな木樽をふたつ提げている。
宿舎の勝手口の重い鉄扉を音もなく押し開け、深い朝霧の立ち込める森の方角へと、軽やかな足取りで姿を消していく長身の背中。
クラウスは壁に背を預け、冷や汗の滲む額をそっと手の甲で拭った。
(……やはりだ。ここ一週間、団長は毎朝この時間に宿舎を抜け出している……!)
クラウスが抱いている危機感は、もはや限界に達していた。
ジークフリートは、名門ヘスラー公爵家の血を引く若き英雄だ。清廉潔白で、私利私欲など微塵もなく、辺境の防衛と部下の命を守るためだけに己の命を削り続けてきた、クラウスにとって生涯を捧げるに値する唯一無二の主君であった。
だからこそ――ここ最近の団長の「不可解な変貌」が、恐ろしくてならなかった。
ほんの一週間前までのジークフリートは、見るも無残な状態だった。
王都の大貴族たちからの理不尽な重圧、領内の不穏分子の捜索、そして過酷極まりない任務の数々。
睡眠時間は連日二、三時間。食事を摂るよう促しても「胃に入らん」と冷たく拒絶し、口にするのは濁った水と泥のように硬い干し肉をほんの数片だけ。
肌は土気色に淀み、頬はげっそりと削げ落ち、その青氷の瞳には狂気じみた切迫感が宿っていた。歩くたびに無意識にみぞおちを強く押さえ、いつ過労と胃潰瘍で倒れ伏してもおかしくない――まさに死神に背中を撫でられているような危うさだったのだ。
ところが。
その団長が、ここ数日で劇的に変わり果ててしまった。
毎朝四時過ぎに宿舎を抜け出し、朝の全体訓練が始まる午前六時半頃になると、何食わぬ顔で宿舎へ戻ってくる。
その戻ってきたときの様子が、尋常ではない。
かつての蒼白な顔色が嘘のように、頬にはほんのりと健康的な赤みが差し、肌には瑞々しい艶が戻っている。
みぞおちを押さえて苦悶することもなく、全身からは歴戦の猛者らしい力強い生命力のオーラが満ちあふれているのだ。
しかも、すれ違いざま、ジークフリートの衣服からふわりと漂ってくる香り。
それは鉄や血の匂いでも、汗の臭気でもない。
香ばしく炒められた油の匂いや、甘く燻された魚の香り、そして何よりも――クラウスがこれまでの人生で一度も嗅いだことのない、胸の奥をぎゅっと鷲掴みにするような、どこまでも甘やかで深い「謎の芳香」だった。
(まさか……王都の政敵が放った刺客の罠か? それとも、森の奥に棲まうという悪しき魔女に魅了され、生気を吸われる代わりに偽りの活力を与えられているのでは……!?)
真面目すぎる副官の脳内で、最悪の妄想が雪だるま式に膨れ上がっていく。
もしジークフリートが妖術にかかり、操り人形にされているのだとしたら。彼が破滅する前に、副官である自分がこの命に代えても主君をお救いしなければならない。
クラウスは短剣を腰に差し、深緑色の外套を深く被ると、気配を完全に断って宿舎を滑り出た。
斥候としての隠密行動には、絶対の自信があった。
***
森の中は、乳白色の濃い朝霧に包まれていた。
針葉樹の巨木が鬱蒼と立ち並び、足元には湿った下草が絡みつく。
立ち入り禁止区域に指定されている森の深部。獣道すら途絶えがちな険しい地形を、ジークフリートは巨大な木樽を両手に提げたまま、信じられないほどの軽快さで進んでいく。
迷いが一切ない。まるで勝手知ったる自宅の庭を歩くかのような足取りだ。
木の幹から幹へと身を躍らせ、足音を消して追跡するクラウスは、息を殺しながら団長の背中を睨み据えていた。
(上流の湧き水へ立ち寄ったあと、さらに森の奥へ向かっている……。あんな場所に、一体何があるというのだ?)
やがて、木々の密度がふっと薄れ、ぽっかりと開けた広場が見えてきた。
朝霧の向こう側に、ぼんやりと浮かび上がる黒い影。
丸太を組み上げて作られた小さなログハウスと、その前に美しく整備されたウッドデッキだった。
(……小屋!? 警備地図にも載っていない建造物が、なぜこんな場所に……!?)
クラウスは広場の手前の茂みに身を滑り込ませ、息を詰めて様子を窺った。
もしやここに、王都からの密使か、団長を惑わす妖艶な魔女が潜んでいるのか。
クラウスはいつでも短剣を抜けるよう、柄に手をかけた。
だが――。
そこでクラウスの目に飛び込んできたのは、彼の二十四年の人生において、想像の限界を遥か彼方に突き抜けた光景だった。
「………………は?」
クラウスの喉から、間の抜けた掠れ声が漏れた。
広場の中央。ログハウスの軒下。
そこに、ジークフリートがいた。
彼は汲んできたばかりの木樽を丁寧にデッキの隅へと下ろすと、あらかじめ軒下に置かれていた薄い包みを開いた。
そして。
迷いのない、極めて手慣れた所作で、真っ白な布地を広げたのだ。
それは、糊がパリッときいた、上質な厚手リネンのエプロンだった。
首から紐を通し、紺色の隊服の上から胸当てを合わせ、たくましい背中の後ろへ長い紐を回す。
キュッ、と器用に、寸分の歪みもなく美しい蝶結びを結び合わせるジークフリート。
胸元に刻まれた銀糸の刺繍が、朝霧の中で慎ましく輝いている。
(え……? あ……エプロン……? 我が団長が……純白の、エプロン……!?)
クラウスの頭脳が、激しい処理落ちを起こして火花を散らし始めた。
シルヴァ辺境警備騎士団長。ヘスラー公爵家の至宝。部下たちから「氷の剣」「不落の盾」と恐れ崇められるあの冷徹無比な男が。
なぜ、森の掘っ立て小屋の前で、新婚の若妻のように清楚なエプロンを身につけているのか。
しかも、それだけでは終わらなかった。
エプロンを装着したジークフリートは、満足そうに胸元をパンパンと叩いて整えると、腕まくりをして、軒下に美しく積み上げられた薪の山へと向かったのだ。
そして、適度な太さの薪を三本、両腕に抱え上げると、真剣そのものの眼差しでログハウスの勝手口へと運び始めた。
その横顔には、戦場で敵を睨みつけるときのような殺気は微塵もない。
むしろ、憧れの令嬢との逢瀬を前にした少年兵のように、そわそわとした期待と、隠しきれない高揚感が滲み出ていた。
(な、なんだこれは……。私は幻術にかかっているのか? 団長が……あんな嬉しそうに薪を運ぶ姿など、見たことがない……!)
混乱の極みに達したクラウスが、戦慄に震えながら茂みの中で固まっていた、その時だった。
――ギィ、と乾いた木の軋み音が響いた。
ログハウスの玄関扉が、内側から静かに開かれた。
朝霧を切り裂くようにして、小屋の中からふわりと溢れ出してきたのは――白く、あたたかな、濛々たる湯気だった。
そして、その湯気とともに、暴力的なまでの香気が森の広場を一瞬で支配した。
(っ……!? な、なんだこの匂いは……!?)
クラウスの鼻腔を、強烈な一撃が貫いた。
それは、焦がしたタレの甘辛く香ばしい匂いだった。
醤油が熱い鉄の網の上でジュウッと音を立てて爆ぜたときのような、脳の奥底を直接揺さぶる焦燥的な芳香。
そこへ重なるのは、深く、重厚な出汁の香りと、熟成された豆の甘みを蓄えた味噌の湯気。
数日間ろくな固形物を口にしていなかったクラウスの胃袋が、その匂いを嗅いだ瞬間、グギュルルルッと引き攣るような激しい音を立てた。唾液が口内に洪水のように溢れ出す。
扉の向こうから、軽やかな足音とともに一人の少女が姿を現した。
「ジークさーん! お味噌汁できましたよー! おにぎりも、今ちょうどいい焦げ目がつきました!」
現れたのは、小柄な黒髪の少女だった。
異世界の平民が着るような粗末な麻布ではない、清潔な紺色の木綿着――割烹着という名の白い上着を纏い、手には湯気を立てる木製の角盆を抱えている。
年は二十代半ばほどだろうか。飾り気のない、けれどどこか朝露のように澄んだ瞳と、柔らかな笑顔を浮かべた娘。
魔女のような妖艶さも、王都の貴族令嬢のような傲慢さもない。
ただ、生活の温もりをそのまま形にしたような、素朴で愛らしい少女。
だが、クラウスの目を真に奪ったのは、その少女の足元だった。
「わふっ!」
少女の足元から、ぽてぽてとした足取りで躍り出てきた、一匹の小さな生き物。
両手にすっぽり収まるほどの、愛らしい白柴のような子犬の姿。
だが、その被毛は朝露を弾いて白銀の燐光を放ち、頭のてっぺんには凛と立った三角形の耳。そして首の周りには、風鈴のような純白の毛房がふわりと揺れている。
その小さな身体から漂う、森の全生命を平伏させるほどの、圧倒的で清浄なる神気。
(ば、白狼の……神獣……!? 嘘だろ、絵本や伝承の中にしか存在しないはずの、森の主……!?)
クラウスの心臓が、恐怖と驚愕で凍りつきかけた。
歴代の領主すら謁見を許されなかった伝説の守護神が、あろうことかその少女の足元で、無防備にお腹を見せるようにしてじゃれついているのだ。
さらに、信じられない事態は続いた。
薪を運んでいたジークフリートが、少女の声を聞いた瞬間、ピタリと足を止めた。
そして――。
「ああ、今行く」
あの「氷の団長」が。
感情を殺し、誰に対しても鉄のような冷徹さで接していたジークフリートが、まるで春の陽光を浴びた残雪のように、ふわりと目元を緩めたのだ。
白エプロンの裾を揺らしながら、足取りも軽くデッキのテーブルへと駆け寄っていく。
その横顔には、耳の先端を林檎のように赤らめた、純情な少年の笑みが浮かんでいた。
「真昼、今朝も素晴らしい手際の良さだな。……その黒い塊が、例の『焼きおにぎり』か?」
「はい! 昨日の残りのご飯を固めに握って、お醤油と本みりんを合わせたタレを何度も重ね塗りしながら、コンロの網でじっくり香ばしく焼き上げました。タレが焦げるギリギリのところが、一番美味しいんですよ」
「……たまらん香気だ。腹の奥底が震えるようだ」
「ふふ、お味噌汁はね、ジークさんが汲んできてくれた湧き水と、手作りの合わせ味噌で作った『なめこ汁』です。つるんとしたキノコが入ってますから、火傷しないように気をつけてくださいね」
少女――真昼がテーブルの上に並べた朝食の光景。
竹編みの平皿の上に、こんがりと濃い飴色の焦げ目をまとった、大振りの三角おにぎりが四つ。
網の上で焼かれたばかりのそれは、表面に塗られた醤油とみりんのタレがプツプツと小さな泡を立て、香ばしい煙をゆらゆらと立ち上らせている。
表面は間違いなく、煎餅のようにパリッパリの歯ごたえだろう。そして割れば、中から純白の湯気とふっくらとした米粒が顔を出すに違いない。
隣の木椀には、赤茶色の出汁の中に、小さく丸い茶色のキノコ――なめこが、とろりとした透明なぬめりをまとって浮かんでいた。散らされた鮮やかな緑の三つ葉から、爽やかな芳香が漂う。
ジークフリートは背筋を伸ばしてベンチに腰掛けると、胸の前でぎこちなく両手を合わせた。
真昼の「いただきます」という澄んだ声に合わせ、
「……いただきます」
と、厳かに頭を下げた。
そして、大きな掌で熱々の焼きおにぎりをひとつ、素手で持ち上げた。
パリッ、と表面の焦げたタレが音を立てる。
大口を開け、豪快にかぶりつく騎士団長。
――ガリッ、サクッ……ジュワァッ!
茂みの中にいるクラウスの耳にまで、その暴力的なまでに美味そうな破裂音が届いた。
ジークフリートの青氷の瞳が、カッと見開かれる。
香ばしく焦げた醤油の香気と、みりんの濃厚な甘み。それがカリカリに焼き固められた米のクラストを突き破り、中から溢れ出す熱々のふっくらとした白米の甘みと混ざり合う。
すかさず、なめこ汁の椀を持ち上げ、熱いつゆを啜るジークフリート。
つるり、と滑らかななめこが喉を滑り落ち、濃厚な出汁と合わせ味噌のコクが、口いっぱいに広がる。
「……っ! 美味い……! 香ばしいタレの苦みと甘みが、米の旨味を極限まで引き上げている……! そしてこの汁のとろみ、五臓六腑に染み渡るようだ……!」
恍惚の表情を浮かべ、二口目、三口目と貪るように焼きおにぎりを頬張るジークフリート。
白エプロンを着けた大男が、年相応の少年のように目を輝かせ、夢中で朝食をかき込んでいる。
少女はそんな彼を嬉しそうに見つめ、足元では神獣が「くぅん」と甘えた声を上げながら、小皿に乗せられた魚の削り節をハフハフと食べている。
絵画のように美しく、そしてあまりにもシュールで、温かな朝の食卓。
――だが。
茂みに潜むクラウスの理性は、そこで完全に限界突破を迎えた。
(だ、団長が……あの冷徹無比な団長が、エプロン姿で……正体不明の平民の娘に餌付けされて……デレデレと笑っている……!?)
理解不能。
情報過多。
魔女の呪いなのか、それとも団長の狂気なのか、あるいは天変地異の前触れなのか。
混乱と動揺のあまり、クラウスの足先がガクガクと激しく痙攣した。
体重を支えていた右足が、朝露に濡れた木の根の上で、無慈悲にツルリと滑る。
「あっ――」
バキバキッ! ドシャアァァッ!!
静かな森の朝を、無粋な破壊音が引き裂いた。
茂みの枯れ枝を派手にへし折り、斜面を派手に転がり落ちたクラウスは、そのまま広場のウッドデッキの手前へと、無様に前のめりで転がり出たのだった。
「ぐはっ……!?」
土煙が舞い上がる。
デッキの上の空気が、一瞬にして凍りついた。
焼きおにぎりを口元に運ぼうとしていたジークフリートの動きが、ピタリと止まる。
真昼が「きゃっ!?」と目を丸くし、鰹節を食べていたベルが「グルルッ」と牙を剥き出しにして身構えた。
泥だらけになりながら、クラウスは這うようにして顔を上げた。
見上げたデッキの上。
そこには、糊のきいた白エプロンを着け、手には齧りかけの焼きおにぎりを持ち、口元に一粒だけ米粒をくっつけた――我が敬愛する騎士団長の姿があった。
ふたりの視線が、真正面から激突する。
ジークフリートの青氷の瞳が、みるみるうちに絶対零度の冷気へと凍りついていく。
「…………クラウス」
低く、地を這うような、背筋が凍るバリトン。
「貴様……警備の持ち場を離れ、こんなところで何をしている」
団長の放つ凄まじい威圧感。
だが、クラウスの胸を貫いたのは恐怖ではなかった。
あまりの光景への衝撃と、裏切られたような切なさと、胃袋を直撃した焼きおにぎりの暴力的な匂いに脳をかき乱された副官は、涙目でデッキを指差し、魂の底から絶叫したのだった。
「だ、団長ぉぉぉぉぉっっ!? な、何をなさっているのですかぁぁぁーーッッ!!?」
早朝の深い森に、哀れな副官の絶叫が、虚しく木霊していった。




