第12話:面取りをする騎士団長と、鰹節の朝
ログハウスの窓から差し込む朝の光が、新調されたばかりのステンレス作業台に反射して、眩い白銀の帯を作っていた。
換気のために少しだけ開け放たれた窓からは、初夏の清涼な風とともに、濡れた針葉樹と深い苔の匂いが吹き込んでくる。
カセットコンロの青い炎の上では、ジークフリートが汲んできてくれた「精霊の湧き水」を満たした大鍋が、すでに小さな気泡を底からぷつぷつと立ち上らせていた。水面の下には、肉厚の利尻昆布が静かに沈み、熱を吸いながら上質なグルタミン酸を琥珀色の筋となって放ち始めている。
「よし……それじゃあジークさん、いよいよ本格的な下拵えに入りますね!」
真昼は気合を入れるように割烹着の両袖をまくり上げ、作業台の中央に一枚の分厚い檜のまな板を置いた。
その隣に立つのは、糊のきいた真っ白な特注リネンエプロンをきっちりと身に纏った、長身の美貌の騎士団長。
普段なら威厳と殺気に満ちているはずのジークフリートは、今や軍の最高機密任務を命じられた新兵のように背筋をピンと伸ばし、青氷の瞳をギラギラと燃え上がらせていた。
「心得た。……いかなる難敵であろうと、騎士の誇りにかけて完璧に仕留めてみせる」
「あはは、戦うわけじゃないですから、肩の力を抜いてくださいね。今朝の最初の相手は……これです!」
ドスン。
真昼がまな板の上に置いたのは、泥を綺麗に洗い落とした、ずっしりと太く真っ白な大根だった。
表面には瑞々しい水分が宿り、朝光を浴びて艶やかに輝いている。
「大根、か。……森の麓の開拓村でも見かける根菜だな。これをどうするのだ? 握り潰して粉砕すればよいのか?」
「潰しちゃダメです!! お料理ですからね!?」
真顔で腕力を振るおうとするジークフリートに、真昼は慌ててツッコミを入れた。足元で丸くなっていたベルが、呆れたように「ふしゅる」と鼻を鳴らす。
真昼は深呼吸をして、棚から新品の燕三条製ステンレス三徳包丁を取り出した。
モリブデンバナジウム鋼で鍛えられた刃は、薄く、鋭利で、吸い込まれそうな刃文を描いている。真昼は柄をジークフリートの方へ向け、両手で恭しく差し出した。
「まずは、この包丁を持ってみてください」
「……む」
ジークフリートは一瞬だけ躊躇いを見せたが、やがて手袋を外した素手で、ゆっくりと包丁の黒い柄を握りしめた。
彼の大きな掌の中で、三徳包丁はまるでペティナイフのように小ぶりに見えた。だが、握った瞬間、ジークフリートの青い瞳が鋭く細められた。
指先をわずかに動かし、重心の位置を確かめる。手首を軽く返し、刃のバランスを測る。
その所作は、紛れもなく一流の剣士のそれだった。
「……素晴らしい業物だな。刀身は極めて薄いが、芯に粘りがある。重心が手元に寄りすぎておらず、切っ先まで寸分のブレもなく刃筋が通っている。……王都の最高級の短剣と比べても、引けを取らん鍛造技術だ」
「ふふ、燕三条の職人さんが作った日本の包丁ですからね。……さて、それじゃあ大根を切っていきますよ」
真昼はまず、大根を三センチほどの厚みの輪切りにした。
そして、皮を包丁で剥いていく。
大根の皮のすぐ内側には硬い筋の層があるため、皮は薄く剥くのではなく、二〜三ミリほどの厚みを持たせてしっかりと円を描くように剥き取るのが、煮物を柔らかく仕上げる秘訣だ。
真っ白で滑らかな円柱形になった大根の輪切りが、まな板の上にコロンと転がる。
「ここからが、ジークさんにお願いしたい『面取り(めんとり)』です」
「面、取り……?」
「はい。大根の角を見てください。ここ、直角に尖ってますよね?」
真昼は輪切り大根の縁を指先でなぞって見せた。
「煮物っていうのは、お鍋の中で出汁がグラグラ沸き立つと、大根同士がぶつかり合っちゃうんです。その時に、この尖った角が崩れて、お汁が濁ったり、見た目がボロボロになったりするんですね。だから――」
真昼はお手本として、包丁を手に取った。
大根の輪っかの角に対して、刃を四十五度の角度で当てる。
親指を添え、くるりと大根を回転させながら、角の尖った部分を帯状に薄く削ぎ落としてみせた。
ポロリ、と細いリボンのような大根の切れ端が落ちる。
角を削られた大根の縁は、まるで丸みを帯びたクッションのように滑らかに整えられていた。
「こうやって角をぐるりと一周、削ぎ落として丸くしてあげるんです。これをしておくと、長時間煮込んでも煮崩れせず、中まで綺麗に出汁が染み込むんですよ」
「なるほど……。対象の脆弱な角をあらかじめ整えることで、激しい対流による損壊を未然に防ぐのだな。合理的かつ、極めて戦略的な配慮だ」
相変わらず軍事作戦のような解釈をするジークフリートに笑いながら、真昼は包丁を彼に手渡した。
「はい、ジークさんの番です。手を切らないように、ゆっくり気をつけてやってみてくださいね」
「……心得た」
ジークフリートは息を吸い込み、まな板の上の大根を見据えた。
その瞬間、彼の纏う空気が一変した。
さっきまでの穏やかさは消え去り、まるで戦場で敵の精鋭と対峙しているかのような、凄まじい集中力の波動が部屋中に張り詰める。
スッ……と包丁が構えられた。
左手で輪切りの大根を固定し、右手で三徳包丁の切っ先を四十五度の角度でピタリと当てる。
ジークフリートの青い瞳が、獲物を狙う鷹のように細められた。
「フッ……!」
短い呼気とともに、刃が滑った。
――シュッ!
絹を裂くような、微かな摩擦音。
ジークフリートの手首が、ミリ単位のブレもなく滑らかに円を描いて旋回する。包丁の刃先は大根の角を完全に捉え、一定の深さ、一定の速度で、寸分の狂いもなく肉を削ぎ落としていく。
――シュシュシュシュッ、トン。
わずか三秒。
まな板の上に、厚さ一ミリ、幅二ミリの、驚くほど均一な大根の削り屑が、まるでゼンマイ仕掛けのゼンマイのように綺麗な渦を巻いてポトリと落ちた。
そして、ジークフリートの手のひらに残された大根は――。
「……え?」
真昼は思わず目を丸くし、身を乗り出した。
そこにあったのは、もはや家庭料理の面取りの領域を遥かに超越した、芸術品のような大根だった。
全周にわたって、完璧な四十五度の角度。削り落とされた幅はどこを測っても正確に一・五ミリ。刃の迷いによるギザギザなど微塵もなく、まるで最新鋭の旋盤機械で削り出したかのような、滑らかで官能的なまでの美しい曲面。
「……ふむ。刃の入りがわずかに浅かったか。次の個体で修正する」
ジークフリートは至極真面目な顔で呟くと、二つ目の大根を手に取った。
シュッ、シュッ、シュッ!
リズミカルで澄んだ音が、台所に響き渡る。
二つ目、三つ目、四つ目……。
騎士団長の大根面取りスピードは、回を追うごとに神速の領域へと達していった。
シュバッ! シュバッ!
刃先が残像を描き、宙を舞うように大根の角が削ぎ落とされていく。すべての面取りが、ミクロン単位の狂いもなく正確無比。
「…………」
真昼は開いた口が塞がらなかった。
糊のきいた真っ白なリネンエプロンをつけた、金髪碧眼の絶世の美男子。
彼が、鬼気迫る真剣な形相で、凄まじい神速の剣技を惜しげもなく「大根の角取り」に注ぎ込んでいる。
シュール。あまりにもシュールすぎる。
「……ぷっ……く、ふふっ……」
「む? 真昼、何か不手際でもあっただろうか。角度が甘いか?」
「だ、団長さん……っ! 上手すぎます……! あなた、本当に初めてなんですか!? 職人さんですか!?」
「初めてだ。……だが、刃筋を正確に立てて対象を削ぐ理は、剣術の基本中の基本だ。敵の装甲の隙間に刃を滑り込ませる感覚と、何ら変わりはない」
大真面目な顔で、とんでもない物騒な理論を語るジークフリート。
その真剣さと、台所という平和な空間との落差に耐えきれず、真昼はとうとうお腹を抱えて笑い出してしまった。
「あははははっ! 大根は敵じゃないですよ! でも、すごいです! 完璧すぎます!」
「……そ、そうか。褒めてもらえるなら、本望だ」
真昼に絶賛され、ジークフリートは照れくさそうに視線を彷徨わせ、耳の先端を林檎のように赤らめた。誇らしげに積み上げられた完璧な面取り大根の横で、大男が小さく肩をすぼめている姿が、なんとも愛おしい。
***
「よしっ、ジークさんのおかげで最高の大根ができました! ここからは煮込みに入りますよ」
真昼は笑いの涙を拭い、調理を次の工程へと進めた。
今朝の主菜は、『大根と鶏肉の治部煮風』。
石川県の郷土料理である治部煮をアレンジし、大根と鶏肉に優しいとろみをまとわせ、出汁の旨味を余すところなく閉じ込める、身体の芯から温まる煮物だ。
まず、大鍋の昆布を引き上げ、強火で沸騰させたところへ、業務用の花かつおを両手いっぱいに投入する。
――ふわぁぁっ……。
立ち上る白い湯気とともに、部屋中に満ちていくのは、朝一番の澄んだ鰹節の燻製香。ジークフリートが「おお……」と感嘆の息を漏らす。
手早く晒で漉した黄金色の二番出汁を、深型の萬古焼土鍋へとたっぷりと注ぐ。
そこへ、ジークフリートが完璧に面取りしてくれた大根を投入した。
調味料は、薄口醤油、本みりん、純米酒、そしてきび砂糖をごく少量。
落とし蓋をして、カセットコンロの中火にかける。コトコトと心地よい音を立てながら、大根が出汁の旨味を吸い込んでいく。
大根を煮込んでいる間に、真昼は鶏もも肉の下拵えにかかった。
一口大の削ぎ切りにした新鮮な鶏もも肉。
ボウルに入れ、少量の酒と薄口醤油で軽く下味を揉み込む。
そして、ここが治部煮の最大のポイントだった。
「これ、片栗粉です」
真昼はバットに広げた片栗粉の上に、下味をつけた鶏肉を並べ、両面に薄く粉をまぶしていった。
「お肉にこうやって粉をまぶしてからお汁に入れると、お肉のジューシーな肉汁が外に逃げないんです。それに、表面がチュルンと滑らかになって、お汁にも自然な優しいとろみがつくんですよ」
「なるほど……。薄い皮膜を形成し、内部の水分を保持するのか。防具の表面に硬質化の魔術を付与するのに似ているな」
「あはは、似てるかもしれませんね」
大根に竹串がスッと通るほど柔らかくなったところで、真昼は落とし蓋を取り、片栗粉をまとった鶏肉を一枚ずつ、重ならないように土鍋の出汁の中へと滑り込ませた。
グツグツと煮立つ出汁の中で、鶏肉の表面のデンプンが透明なヴェールへと変わっていく。
肉から溶け出した脂が出汁と混ざり合い、スープ全体がわずかにとろみを帯びて、琥珀色の艶やかな輝きを放ち始めた。
仕上げに、彩りとして冷凍保存しておいた絹さやを散らし、火を止める。
蓋をして蒸らすことで、余熱で鶏肉に優しく火が通り、驚くほど柔らかく仕上がるのだ。
「煮物を落ち着かせてる間に、お味噌汁とおにぎりを作っちゃいましょう!」
小鍋には、先ほどの昆布と鰹の出汁。
一口大に切ったなめらかな絹ごし豆腐と、たっぷりの乾燥わかめを投入する。
一煮立ちしたところで火を弱め、信州白味噌を味噌漉しで溶き入れる。ふわりと漂う、麹の甘い香り。
そして、主食の準備。
今朝炊き上げたばかりの萬古焼土鍋の蓋を開けると、純白の蒸気とともに、ジークフリートが汲んできてくれた湧き水で炊いた、ピカピカの白米が現れた。
湧き水のおかげか、昨日よりもさらに一粒一粒の輪郭がくっきりと立ち上がり、まるで雪の結晶のように光を乱反射している。
真昼が用意したのは、二つのボウル。
ひとつには、油を切ったツナ缶に、現代のマヨネーズをたっぷりと和えたもの。
もうひとつには、削りたての本枯節に濃口醤油を数滴垂らした、香ばしい『おかか』。
真昼はこれらを豪快に混ぜ合わせ、隠し味に白ごまを指先でひねり潰しながら加えた。
「『ツナマヨおかか』です。マヨネーズのコクと、鰹節の出汁の風味が合わさると、信じられないくらいご飯が進むんですよ」
真昼は掌に手塩をつけ、熱いご飯の中央にツナマヨおかかをたっぷりと包み込んだ。
キュッ、キュッ、とリズミカルに三角に結び、香ばしい焼き海苔をくるりと巻く。
黒と白のコントラストが美しい、大きなおにぎりが四つ並んだ。
***
「……くぅ〜ん」
作業台の足元から、待ちきれないような切ない声が響いた。
見下ろすと、ベルが真昼の割烹着の裾を前足でちょんちょんと引っ張り、瑠璃色の瞳を限界までうるませて見上げていた。
その鼻先は、作業台の端に置かれた木製の削り器へと完全にロックオンされている。
「あはは、ごめんねベル! いい匂いが充満してるもんね」
真昼は小さなお皿を一枚取り出した。
そして、祖母の削り器の引き出しを開け、今朝削ったばかりの、飴色に透き通った本枯節の薄削りを、ふんわりと山盛りに盛り付けた。
指先でつまむと、羽毛のように軽く、指の温度で香ばしいスモーキーな香りが立ち上る。
「はい、ベル。今朝のお手伝い見守り代だよ。召し上がれ」
テラスの床にお皿を置いてやると、ベルは「わふっ!」と歓喜の咆哮を上げた。
神獣の威厳などどこへやら、短い尻尾をプロペラのように高速回転させながら、皿へとダイブする。
サクサク、ハフハフッ!
小さな舌を懸命に動かし、極上の鰹節を夢中で頬張る白い毛玉。
あまりの美味しさに耳がピコピコと上下し、あっという間にお皿は舐め尽くされてピカピカになった。
「ふはぁ……」と満足そうに息をつき、真昼の足首にすり寄るベルを見て、ジークフリートが感嘆の声を漏らした。
「……森の主たる神獣が、あのような乾いた木片の削り屑に、これほど懐柔されるとは……。王都の魔導士たちが見れば、卒倒する光景だな」
「木片じゃなくて鰹節ですよ。ベルにとっては、世界一のご馳走なんです」
真昼は笑いながら、大きなお盆にすべての料理を並べた。
***
ログハウスの中央、丸太を輪切りにして作られた素朴な円卓。
そこへ、湯気の立ち上る朝食が並べられた。
深鉢に盛られた、飴色に輝く『大根と鶏肉の治部煮風』。
出汁を限界まで吸い込んで琥珀色に透き通った大根と、葛餡のような滑らかな衣をまとった大振りの鶏もも肉。鮮やかな緑の絹さやが彩りを添えている。
お椀には、ふっくらとした豆腐と濃緑のわかめが浮かぶ、優しい香りの白味噌汁。
竹籠には、パリッとした海苔をまとった、握りたてのツナマヨおかかおにぎり。
円卓を挟んで、小柄な真昼と、白エプロンを着けた大柄なジークフリートが向かい合って座る。
足元には、すっかり満腹になって真昼の膝の上に顎を乗せたベル。
ふたりは胸の前で手を合わせ、声を揃えた。
「「いただきます」」
ジークフリートは、迷わず最初に箸を伸ばした。
狙いはもちろん、自らが心血を注いで面取りを施した――あの大根だ。
塗り箸の先を、大根の中央へと当てる。
ジークフリートが力を込める前に、箸は吸い込まれるように、音もなくすうっと大根の両断へと沈んでいった。
「……っ!」
ジークフリートの喉が鳴った。
箸で割った断面から、ジュワワッと、信じられないほどの量の熱い煮汁が溢れ出し、深鉢の底へと広がっていく。
そして、自らが削り落とした外周の角は――どれほど激しく煮込まれようとも、角が一切崩れることなく、凛とした美しい曲面を完璧に保っていた。
大振りのひと切れを箸で挟み、口の中へと運ぶ。
ハフッ、と唇を閉じ、熱々の大根を噛み締めた。
「……………………ッ!!」
ジークフリートの青氷の瞳が、驚愕に見開かれた。
噛む必要すらなかった。
舌の上でほろりと崩れた瞬間、大根の芯の奥深くまで閉じ込められていた、圧倒的な出汁の洪水が口いっぱいに弾け飛んだのだ。
昆布のまろやかな旨味、鰹節の燻製香、そして醤油とみりんの甘辛いコク。
それらすべてを限界まで吸い込んだ大根自身の、瑞々しい大地の甘み。
熱い煮汁が喉を通り抜けるたび、五臓六腑が歓喜の声を上げる。
続いて、片栗粉をまとった鶏もも肉を口へ。
――チュルンッ、ジュワッ。
舌触りは驚くほど滑らかで、まるで上質なシルクのよう。
歯を入れた瞬間、閉じ込められていた熱々の肉汁がプシュッと溢れ出し、出汁のとろみと混ざり合って濃厚な旨味の爆弾となって口内を満たす。
「……美味い……っ! 大根が、芯まで出汁そのものになっている……! そしてこの肉の柔らかさは何だ……! 衣が出汁を抱き込み、噛むほどに旨味が溢れ出してくる……!」
ジークフリートは感動に声を震わせ、すかさず竹籠のおにぎりへと手を伸ばした。
海苔の巻かれた、ずっしりと重い三角おむすび。
大きな口を開け、豪快にかぶりつく。
――パリッ、ハフッ!
磯の香りが弾け、炊きたての白米の甘みが広がる。
そして、中央に到達した瞬間――。
マヨネーズの濃厚でまろやかな酸味とコク、ツナの旨味、そして醤油を吸った鰹節のスモーキーな風味が、三位一体となって押し寄せてきた。
白ごまのプチプチとした香ばしさがアクセントとなり、米の甘みを暴力的なまでに引き立てる。
「な……なんだこの米の具は……!? 濃厚な白い油のコクと、あの魚の削り節が、これほど米に合うとは……! 一口ごとに、胃袋が歓喜に震えるようだ……!」
ジークフリートの箸と手は、もはや止まることを知らなかった。
おにぎりを頬張り、大根を口に放り込み、鶏肉を噛み締め、豆腐の味噌汁で喉を潤す。
カチャカチャ、ハフハフと、無心で朝食を貪る騎士団長。
その横顔には、初めて出会った日のあの張り詰めた険しさや、名門の重圧に押し潰されそうになっていた冷徹な影は、微塵も残っていなかった。
ただ、大好きな美味しいごはんを前にして、心から満たされている、年相応の二十八歳の青年の顔だった。
あっという間に、二つのおにぎりと、山盛りの治部煮、そして味噌汁が、綺麗さっぱりと彼の胃袋へと消え去った。
空になった器を見つめ、ジークフリートはふぅと長い、至福の息を吐き出した。
そして、顔を上げ、向かいに座る真昼をじっと見つめた。
青氷の瞳を、木漏れ日のように柔らかく細めながら。
「……美味いな、真昼」
低く、甘く、心底からの実感がこもったその一言。
真昼は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、満面の笑みを返した。
「はい! よく出来ました。……ジークさんが、あんなに綺麗に大根の面取りをしてくれたおかげですよ」
「私の、手柄か……?」
「もちろんですよ。お料理は、下拵えで決まるんですから。立派な共同作業です」
真昼がそう告げると、ジークフリートは目を見張り、それから照れくさそうに視線を落として、口元に微かな笑みを浮かべた。
エプロンの胸元をそっと指先で撫でる。
剣を振るうことしか知らなかった自分の手が、誰かの役に立ち、こんなにも美味しくあたたかな朝の食卓を作る手助けになった。
その事実が、彼の誇り高い心を、何よりも深く満たしているようだった。
足元で、鰹節を堪能したベルが「くぅん」と甘えた声を上げ、真昼の膝の上で丸くなる。
窓の外では、朝露を吸った木々が初夏の風にざわめき、小鳥たちが祝福するように歌っていた。
限界まで擦り切れていた元OLと。
重圧の中で味覚すら失いかけていた冷徹な騎士団長と。
そして、出汁の香りに胃袋を掴まれた伝説の神獣。
押し入れの向こうに広がる静かな森の小屋で、ふたつの世界を結ぶあたたかな朝食の時間は、もう誰にも奪えない、かけがえのない「日常」として、しっかりと根を下ろしていた。




