第10話:カフェ「野良時計」と、青い果実の魔法
カタタン、と郵便受けの赤い蓋が落ちる乾いた音が、静かな古民家の玄関に響いた。
庭の掃き掃除を終えた真昼は、竹箒を土間の隅に立てかけ、手ぬぐいで額の汗を拭いながら郵便受けを覗き込んだ。
取り出した数枚の郵便物。通販のカタログチラシの間に挟まれていたのは、役所の窓口から送られてきた、窓付きの無機質な封筒だった。
差出人欄には『町民税・県民税 納税通知書』、そしてもう一通は『国民健康保険料 納入通知書』。
「……うっ」
思わず喉の奥から小さな呻きが漏れた。
居間のちゃぶ台に座り、ペーパーナイフで封を切る。印字された金額の並びを眺めた瞬間、真昼の背筋にひんやりとした現実の風が吹き抜けた。
住民税は、前年の所得に対して課税される。
つまり、中堅商社で身を削り、深夜残業を重ねて稼いでいた「かつての激務の対価」が、無職となった現在の真昼の首を絞めにかかっているのだ。
通帳を開く。
雀の涙ほどの退職金と、会社員時代に切り詰めて貯めた貯金。
昨日、ホームセンターや業務スーパーでカセットコンロや調味料を一式揃えたように、日々の生活を整えるための出費は惜しみたくない。だが、このまま一方的に切り崩していけば、一年後、あるいは二年後には確実に底をつく。
祖母タエが遺してくれたこの古民家があるから家賃こそかからないものの、電気代、水道代、プロパンガス代、そして軽トラックの車検代やガソリン代。生きていくためには、どうしても日本円という現実の通貨が必要だった。
「会社を辞めたこと自体は、一ミリも後悔してない。……でも、貯金を減らしながらビクビク暮らすのは、精神衛生上よろしくないよね」
膝の上で丸まっていたベルが、真昼の沈んだ声に気づいたのか、顔を上げて「くぅん」と瑠璃色の瞳を瞬かせた。
真昼はその小さな白い頭を優しく撫でる。
あの森の小屋での生活は、真昼にとってかけがえのない宝物になりつつあった。
朝になれば、不器用な騎士団長ジークフリートが山のような薪を割って待っていてくれる。真昼が作った出汁の効いた朝ごはんを、彼はまるで奇跡の恵みのように大切そうに、美味しそうに食べてくれる。
あのあたたかな食卓を守り続けるためにも、真昼は「現代社会で自立して生きていくための足場」を、何としても築かなければならなかった。
ふと、真昼の視線が台所の冷暗所へと向いた。
棚の上に並んでいる、ガラス瓶の列。
一昨日の朝、森の奥の斜面でベルと一緒に摘み取り、祖母の形見の銅鍋で丁寧に煮詰めた――『ルミナスベリーのジャム』だった。
光を吸い込むような深いロイヤルブルーのシロップ。
一口含めば、濃厚なベリーのコクと、驚くほど澄み切ったマスカットの香りが弾け、心身の澱をすっきりと洗い流してくれる、奇跡の果実。
「……これ、もしかしたら」
異世界の動植物をそのまま現代の市場に持ち出すのは、生態系への影響や検疫の観点から絶対に避けなければならない。
けれど、熱を加え、砂糖とレモン果汁だけで完全に加工したジャムであれば、外来種の種子が発芽する危険もない。
何より、あの並外れた香りと味の良さは、都会の一流パティスリーの高級コンフィチュールすら遥かに凌駕している。
「よし。……あそこに相談してみよう」
思い立ったら、すぐに行動するのが真昼の長所だった。
事務職時代に培った段取りの良さを総動員し、真昼は台所へと立った。
***
まずは、手土産の準備だ。
ジャムの味を最も素直に、かつ劇的に伝えるためには、最高のキャンバスが必要だった。
真昼が選んだのは、外側がサクサク、内側がふんわりと解ける『プレーンスコーン』。
ボウルに国産小麦粉とベーキングパウダー、きび砂糖、少量の粗塩を合わせ、泡立て器で均一に空気を含ませる。そこへ、冷蔵庫から出したばかりの冷たい角切り無塩バターを投入した。
指先を擦り合わせるようにして、バターの粒を粉の中で細かく潰していく。『サブラージュ』と呼ばれる工程だ。バターが手のひらの体温で溶けてしまわないよう、手早く、リズミカルに。やがて粉全体が、さらさらとした黄色い砂のような状態に変わる。
冷たい牛乳を回し入れ、木べらで切るように混ぜ合わせる。決して練ってはならない。粉っぽさがわずかに残る程度でひとまとめにし、ラップに包んで冷蔵庫で三十分ほど寝かせる。
生地を取り出し、打ち粉をした台の上で三つ折りに畳んでは伸ばす作業を三度繰り返す。こうすることで、焼き上がったときに側面に美しい「狼の口」――腹割れの割れ目が生まれるのだ。
包丁で四角く均等に切り分け、表面に刷毛で牛乳を薄く塗る。
二百度に予熱したオーブンに天板を滑り込ませた。
チクタク、チクタクとタイマーが刻む。
十五分後、オーブンの扉を開けた瞬間、台所いっぱいに芳醇な焦がしバターと焼き立ての小麦の甘い香りが満ち溢れた。
天板の上には、見事に上下にぱっくりと割れ目を覗かせた、きつね色のスコーンたちが誇らしげに並んでいた。
熱々のスコーンを粗熱が取れるまで冷まし、清潔なリネンで包む。
そして、熱湯で完璧に煮沸消毒した手のひらサイズのガラス瓶に、濃紺に輝くルミナスベリーのジャムをたっぷりと詰めた。
竹編みの手提げカゴにそれらを収め、真昼は古民家を出発した。
***
山あいの道を軽トラックで走ること約十分。
杉林を抜けた先の小高い丘の上に、その店はひっそりと佇んでいた。
築百年を超える古民家を、店主自らが年月をかけて改装したオーガニックカフェ――『野良時計』。
庭には季節のハーブや草花が咲き乱れ、木製の引き戸を開けると、カランコロンと澄んだドアチャイムの音が響いた。
店内には、黒光りする太い梁と、心地よいジャズの音色。
壁のあちこちには、様々な形のアンティークの古時計が掛けられ、静かに時を刻んでいる。
ランチのピークを過ぎた店内は穏やかに落ち着いており、カウンターの奥から、エプロンをつけた女性が顔を上げた。
「いらっしゃ――あら、真昼ちゃんじゃない!」
水野聡美、二十九歳。
ショートカットの似合う凛とした佇まいと、快活でサバサバとした笑顔が印象的な女性だ。
祖母タエの生前からの知り合いであり、真昼が子どもの頃から可愛がってくれていた地元の頼れる先輩だった。都会の有名カフェでバリスタやシェフとして腕を磨いたあと、実家のあるこの町に戻り、地元の食材を活かしたカフェを立ち上げて大繁盛させている実業家でもある。
「こんにちは、聡美さん。……お昼の忙しい時間、過ぎてますか?」
「ちょうど一段落したところよ。カウンターに座って座って! 田舎暮らしには慣れた? ちゃんとご飯食べてる? 会社辞めた直後は、本当に幽霊みたいに青白い顔してたから心配だったのよ」
聡美は手際よく水出しのアイスハーブティーを真昼の前に置きながら、気遣わしげに覗き込んできた。だが、真昼の顔をまじまじと見つめた瞬間、聡美はぱっと目を丸くした。
「……あれ? なんか真昼ちゃん、肌のツヤすごく良くなってない? 目元も生き生きしてるし。良い空気吸って、しっかり寝られてるみたいね」
「はい。おかげさまで、毎日びっくりするくらい規則正しい生活になっちゃって」
まさか毎朝五時に起きて異世界の騎士団長に豚汁や出汁巻き卵を振る舞っているとは言えず、真昼は苦笑いを浮かべた。
そして、膝の上に抱えていた竹カゴから、リネンの包みとガラス瓶を取り出し、カウンターの上へとそっと差し出した。
「聡美さん、これ……手土産なんです。お庭の奥の……裏山を散策してたら、すごく香りの良い自生のベリーを見つけて。おばあちゃんの銅鍋で、ジャムにしてみたんです」
「へえ、ジャム? タエさんのあの年季の入った銅鍋で? ……ん?」
聡美の視線が、ガラス瓶の中に留まった。
カウンターに差し込む午後の光を浴びて、瓶の中のジャムが深い青紫色の光を放っている。
聡美のプロとしての鋭い瞳が、わずかに細められた。
「……ちょっと、真昼ちゃん。これ、ブルーベリー? にしては、色が深すぎるわね。まるで夜空をそのまま煮詰めたみたいな色……。それに、着色料は?」
「一切使ってません。入れたのは、その自生ベリーと、きび砂糖と、レモン果汁だけです」
「無着色でこの発色……? それに、このとろみ……」
聡美の好奇心に完全に火がついたのが分かった。
真昼はリネンの包みを解き、手作りのプレーンスコーンを小皿に乗せて差し出した。
「スコーンも焼いてきたんです。もしよかったら、味見してもらえませんか?」
「もちろん! ちょっと待ってて、最高の相棒を淹れるから」
聡美は素早くネルドリップを構え、深煎りの自家焙煎珈琲を丁寧に抽出し始めた。
ぽた、ぽたと落ちる珈琲の濃厚な苦みとスモーキーな香りが、カウンターを満たしていく。
やがて、白磁のカップに注がれた深煎り珈琲と、焼きたてのスコーン、そしてルミナスベリーのジャムが、カウンターの上に完璧な布陣で並んだ。
「それじゃあ……いただきますね」
聡美はスコーンを手に取り、割れ目に沿って綺麗にふたつに割った。
中から立ち上る、温かいバターと小麦の素朴な蒸気。
スプーンをガラス瓶へと差し入れる。
すくい上げた瞬間、果実の粒がごろりと崩れ、濃厚な青紫のシロップがとろりと垂れた。
聡美はそれをスコーンの断面にたっぷりと乗せ、迷うことなく口へと運んだ。
――サクッ。
スコーンの軽やかな歯ざわりが響く。
次の瞬間。
聡美の身体が、ピクリと硬直した。
「…………っ!?」
咀嚼の動きが、完全に停止した。
聡美の両目が、限界まで見開かれる。
そのまま五秒、十秒。
口の中の味覚神経のすべてを研ぎ澄まし、脳内のデータベースを狂ったように検索しているかのように、聡美は身じろぎひとつしなかった。
やがて、ごくり、と喉を鳴らして飲み下した瞬間――。
「……な、何これ……!?」
ガタッと椅子を鳴らし、聡美はカウンターから身を乗り出してきた。
その顔は、驚愕と興奮で紅潮している。
「ちょっと待って、真昼ちゃん! これ、本当に裏山で採れた野生のベリーなの!? 栽培種でもこんな味、世界中のどこを探したってないわよ!」
「あ、あの、お口に合いましたか……?」
「口に合うどころの騒ぎじゃないわよ!!」
聡美はスプーンを握りしめ、身振り手振りを交えながら熱弁を振るい始めた。
「最初の一口目は、野いちごやカシスを思わせる力強い野生の酸味と、凝縮されたブルーベリーのコクがガツンと来るの。そこまでは、極上の無農薬ベリーならまだ理解できる。……でも、その直後よ! 喉を通る瞬間、まるで最高級のマスカットやライチを丸ごと齧ったみたいな、信じられないくらい澄み切った高貴な香りが鼻腔を突き抜けていくのよ! 雑味が一切ない……! 舌の上に、嫌なエグみも渋みも一ミリも残らない!」
聡美は深煎り珈琲を一口啜り、再び息を呑んだ。
「……嘘でしょ。珈琲の強い苦みと油分に、ベリーの香りが負けるどころか、お互いを引き立て合って完璧なマリアージュを起こしてる……。それに何より、これ……食べた瞬間、頭の中のモヤモヤがすうっと晴れるような、ものすごい清涼感があるわ。疲労回復の効果でもあるの!?」
「あはは……山の湧き水と、澄んだ空気の中で育った野生種ですから」
真昼は内心で「神獣の森の魔力を吸った果実ですから」と呟きながら、穏やかに微笑んだ。
さすがはプロの料理人でありカフェのオーナーだ。ルミナスベリーの持つ特異な風味と、心身を解きほぐす効能を、一口で完璧に見抜いてみせた。
聡美は残りのスコーンにも山盛りのジャムを乗せ、夢中で頬張ると、最後の一滴まで珈琲を飲み干した。
そして、ふぅと長い、至福のため息を漏らしながら、腕を組んで真昼を真っ直ぐに見つめた。
その瞳は、親しい先輩の顔から、完全に一流の経営者の目つきへと切り替わっていた。
「真昼ちゃん。単刀直入に聞くわ」
「は、はい」
「このベリー、定期的に収穫して、ジャムに加工して納品できる?」
「えっ……?」
「うちのカフェの、初夏の看板スイーツとして使いたいのよ」
聡美はカウンターの下からメモ帳とペンを取り出し、素早く計算を走らせた。
「自家製スコーンサンドの限定メニューとして出すのはもちろん、この瓶詰めのまま、うちの店頭と通販サイトで『山あいの幻の野生果実コンフィチュール』として委託販売したいの。……うちには東京や県外からも、オーガニック素材や本物の味を求めて感度の高いお客さんがたくさん来るわ。このクオリティなら、一瓶千五百円……ううん、二千円でも飛ぶように売れるはずよ」
「に、二千円……!? そんなに高く売れるんですか!?」
「安いくらいよ! 完全無農薬の天然野生種、手摘み、伝統の銅鍋での少量生産。ストーリー性も完璧だし、何より味が唯一無二だもの。……真昼ちゃん、もし定期的に納品してくれるなら、卸値は相場の倍……一瓶あたり千二百円で買い取るわ。もちろん、売れた分だけの手数料方式じゃなくて、納品された時点で全額買い取りにする」
聡美の提示した条件に、真昼は息を呑んだ。
一瓶千二百円の買い取り。
もし週に三十瓶納品できれば、それだけで月に十四万円以上の確実な収入になる。
森の斜面には、まだまだ収穫しきれないほどのルミナスベリーが鈴なりになっていた。ベルの案内があれば、収穫には半日もかからない。
現代の税金も、光熱費も、業務スーパーでの買い出し資金も――これだけで、十分に、お釣りがくるほど賄えてしまう。
「聡美さん……本当に、いいんですか? そんな破格の条件で……」
「何言ってるの! こっちこそ頭を下げてお願いしたいくらいよ! こんな極上の素材、大手のカフェチェーンや百貨店に見つかったら、いくら積まれたって手に入らないわ。……うちの看板商品になってくれるなら、安い投資よ」
聡美は身を乗り出し、真昼の両手をぎゅっと力強く握りしめた。
その手のひらは温かく、職人らしい確かな力強さに満ちていた。
「真昼ちゃん。会社を辞めて田舎に来て、不安なこともたくさんあったでしょう。でもね、あなたには確かな舌と、タエさんから受け継いだ丁寧な手仕事があるわ。……胸を張っていいのよ。これは、あなたが自分の力で掴み取った仕事なんだから」
「聡美さん……っ」
胸の奥底から、熱いものがこみ上げてきた。
都会のオフィスで、「誰でも代わりの利く歯車」として使い潰され、怒号と理不尽に晒されていた日々。
だが今、自分の作ったものが、自分の足で見つけてきた恵みが、こうして誰かの心を動かし、正当な価値として認められたのだ。
真昼は涙を滲ませながら、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます……! 精一杯、心を込めて作ります。よろしくお願いします!」
「うん! 期待してるわよ、真昼ちゃん!」
契約は、その場であっという間に結ばれた。
まずは試作用として、持参したジャム三瓶をその場で買い取ってもらい、来週の月曜日に最初の正規ロットとして二十瓶を納品することが決まった。
***
カフェ『野良時計』をあとにした真昼は、軽トラックの運転席で、聡美から手渡されたばかりの領収証をじっと見つめた。
わずか数千円の、最初の売上金。
けれど、その重みは、会社員時代に機械的に口座に振り込まれていた給与明細の何十倍、何百倍もの重みを持って、真昼の胸に迫っていた。
自力で稼いだ、確かな生活費。
会社に縛られず、理不尽に脅かされることもなく、自分のペースで生きていけるという絶対的な安心感。
将来への暗雲は、初夏の青空の彼方へと、完全に吹き飛んでいた。
古民家へ戻ると、庭の縁側でベルが尻尾を振って出迎えてくれた。
駆け寄ってきた白い毛玉を抱き上げ、ぎゅっと抱きしめる。
「ベル、ただいま! 大成功だったよ! これで、買い出しの調味料も、美味しいお肉もお魚も、堂々と買えるよ!」
「わふっ! くぅ〜ん!」
ベルは真昼の喜びを全身で分かち合うように、真昼の頬を何度もペロペロと舐め上げた。
西日が差し込む納戸へ向かい、真鍮の鍵を握りしめる。
押し入れの向こう側には、静かで豊かな異世界の森と、昨日快適に整えたばかりの自分たちのキッチンが待っている。
そして明日の朝には――また、あの金髪の騎士団長が、お腹を空かせてやってくるのだ。
「明日の朝ごはんは、何を作ろうかな……」
経済的な不安から完全に解放された真昼の心には、明日へのあたたかな料理の献立だけが、どこまでも楽しげに広がっていた。




