第9話 陛下のお帰り
陛下が王都にお戻りになったのは、叙任式から五日目の夕方だった。
崩れた石橋を避け、山道を三日かけて回ってきたという。一行は、出発のときよりずいぶん少ない。壊れた馬車と一緒に、途中の村へ置いてきた者も多いらしい。陛下ご自身は、兵の担ぐ輿の上で、毛布にくるまれている。熱は、まだ下がらない。
王宮の門を開けたのは、門番のボルツだ。
輿が門をくぐるとき、陛下は毛布の中から目だけを出して、門の脇の北の塔を見上げた。窓は暗い。十年のあいだ、夕方になれば必ず灯りの点いていた窓である。
出迎えの列には、王宮に残っていた者が総出で並んでいた。先頭に立つのは、王太子殿下だ。
「陛下、ご無事の——っくしゅ」
お帰りなさいませ、と言い終えるまでに、殿下の声は二度裏返り、しゃっくりが一つ挟まった。静まりかえった列の中で、殿下のお腹が長く鳴る。列のうしろのほうで、誰かが咳払いでごまかした。
陛下は輿の上から、しばらく息子の顔を見ていた。それから、列の端から端まで目を走らせる。
「……聖女がおらんな」
誰も答えない。
「身代わりは、どうした」
熱でかすれた声だった。
◇
その夜、陛下の寝室には、宮廷魔術師長と殿下だけが呼ばれた。医師も侍従も、扉の外に下げられている。枕元の水盤には、熱を冷ますための布が浸してあった。
「解任したのは、誰だ」
「……私です」
殿下が答えた。答えの途中で、しゃっくりが出る。
「聖女の加護があれば、身代わりは要らぬと思いました。陛下のご不在のあいだは、私が代理を——」
「代理に、身代わりの誓約を解けと申しつけた覚えはない」
陛下が、枕の上で首だけを動かして殿下を見る。
「あの娘は、八つのときから十年、毎朝欠かさず誓約を更新してきた。熱の日もだ。わしが巡幸に出ておるあいだも、一日も休まずにな」
殿下は黙っている。
「聖女は」
「身代わりの娘を追って、東門を出ていかれました。門の番兵が見ております」
魔術師長が答えた。
「聖女様の加護は、聖女様がおそばで祈っていてこそ効くものです。離れれば、加護も離れます。止めていた糸は、あの夜のうちにすべて殿下に届きました」
陛下は目を閉じた。魔術師長が水盤の布を一度しぼって、額にのせかえる。
「わしの熱も、車輪も、橋も、そういうことか」
「陛下宛のものは、中身が重うございます」
「返せる者は」
「ノエラ・カーヴェル殿、ただお一人です」
「呼んだか」
魔術師長は、殿下のほうを見た。殿下は、床を見ている。
「……頭を下げて頼むのは、王家の名折れかと」
名折れ、のところで、殿下の声は裏返った。
陛下は、それには何も言わない。代わりに、もう一つ尋ねた。
「帳面は」
「ザイデル侯爵が、殿下のお許しを得て、取り戻しに向かいました」
陛下の目が開いた。
「言い出したのは、ザイデルか」
「はい」
「帳面を欲しがるのは、帳面に名のある者だけだ」
殿下は、しゃっくりを飲みこんだ。自分が何に「好きにしろ」と言ったのか、ようやく分かったらしい。
陛下は、しばらく天井を見ていた。
「あの娘は、何を望む」
「……分かりません。十年、何ひとつ望みを申さなかった娘ですので」
陛下は、また黙った。
「使者を出せ。あの娘を呼び戻す。王命だ」
「陛下。あの方はもう——」
「わかっておる」
陛下は毛布の下で咳きこんだ。
「わかっておるが、王が自ら頭を下げに行くわけにもいくまい。まずは、命じてみるしかない」
殿下が、口を開きかけた。
「代理は、もうよい」
陛下は、殿下のほうを見なかった。
「下がれ」
殿下は一礼して、扉へ向かう。扉の前で足がもつれ、取っ手にすがって、ようやく出ていった。
廊下に出ると、殿下は誰もいないのを確かめてから、壁に手をついた。あの女、と小さくつぶやく。つぶやいた声まで、裏返っていた。
魔術師長は、扉が閉まるのを待ってから口を開いた。
「陛下。使者には、何とお伝えになりますか」
「戻れ、と」
「……断られます」
「それでもだ」
陛下は、目を閉じたまま言った。
「断られたら、何と言って断ったか、一字一句覚えてこいと伝えろ」
◇
夜更けに、魔術師長は王宮の門へ下りていった。
詰所の前で、ボルツが火鉢に手をかざしている。
「北の塔の娘が出ていった晩、ここで見送ったそうだな」
「見送りましたよ」
「どんな様子だった」
ボルツは、火鉢の炭をひとつ転がした。
「いい顔してましたね。十年見てきましたが、いちばんいい顔でした。肩に黒い鳥をのせてましてね。いくな、いくなって、そいつがうるさくて」
「……いくな、か」
魔術師長は、北の塔の暗い窓を見上げた。
「陛下が、使者を出される。戻れ、と」
「来ないと思いますがね」
「なぜ、そう思う」
「行き先を、自分で決めた顔をしてましたから」
ボルツはそれだけ言って、また火鉢に手をかざした。
翌朝、王命を携えた使者が、東門を出ていく。
同じ朝、陛下のご帰還を祝う貴族たちで、王宮の廊下は五日ぶりに混みあった。挨拶の言葉だけは、どの家も立派だ。そのくせ、誰も互いの顔を見ようとしない。大広間で扇子に顔を隠したご婦人は、今日も扇子を持っていない。
ザイデル侯爵は、左の頬を絹の布で押さえていた。
寝台の脇で膝をついた侯爵に、陛下が尋ねる。
「どうした、その頬は」
「……一昨日の夜から、奥歯が」
魔術師長は、侯爵の頬を見た。長いこと、見ていた。
一昨日の夕方、商人の格好をした一団が、何も持たずに侯爵家へ戻っている。そのことは、魔術師長の耳にも入っていた。
「帳面は」
「……娘に、逃げられまして」
「そうか」
陛下は、それだけ言った。それから、思い出したように付け加える。
「見つかったら、わしが自分で読む。誰にも開かせるな」
侯爵の頬の布が、ぴくりと動いた。
「……仰せのとおりに」
侯爵は深く頭を下げて、寝室を出た。廊下の途中で一度、頬を押さえて立ち止まる。背中のほうで、誰かがひそひそと話すのが聞こえた。
「返された呪いは、送り主に同じものが出るそうですわね」
「では、あの頬も——」
侯爵が振り返ると、声はぴたりとやんだ。
屋敷に戻ると、侯爵は書斎の引き出しを開けた。
奥に、藁で編んだ人形がひとつ入っている。手を伸ばしかけたところで、奥歯がずきりと痛んだ。
侯爵は、引き出しを閉めた。
この痛みを解ける者がどこにいるのか、侯爵はよく知っている。
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