第10話 十七本
私兵たちと別れたあと次の宿場町、リーデに着いたのは、日が落ちる少し前だった。
明日は市の日だという。宿の二階の部屋は、ミルデより狭い。そのかわり、窓から広場が見える。見おろすと、広場に屋台の骨組みが並びはじめていた。夜が明けきる前から、荷車の音がやまない。
宿のおかみさんは、私の肩の鳥を見るなり、ああ、と言った。
「ミルデで呪いを返した娘ってのは、あんただね。今日の昼、荷馬車の連中が噂してったよ。七台も連ねて」
噂のほうが、私たちより半日早く着いていたらしい。
看板は、そのおかみさんに頼んで、広場の端の井戸のそばに立てかけさせてもらった。
「今日の授業です」
朝食のあとで、マリエラさんが言った。
「りんごを、ひとりで買ってきてください。値切ってです」
私は財布を持って、果物の屋台の前に立った。
「りんごを、四つください」
屋台のおかみさんが言った値段を聞いてから、教わったとおりに言う。
「高いです。半分なら、八つ買います」
おかみさんは、私の顔をしげしげと見た。
「……あんた、りんご八つも食べるのかい」
食べない。そこから先は、まだ教わっていない。
結局、四つを言い値で買った。うしろで見ていたマリエラさんが、両手で顔を覆っている。
「……値切るのは、たくさん買うときだけです。食べきれる数で」
「先に教えてください」
りんごを一つかじってみる。言い値でも、甘かった。
広場の真ん中で怒鳴り声が上がったのは、そのときだった。
パン屋の屋台と乳屋の屋台が、背中合わせに並んでいる。パン屋の台には真っ黒なパンが積まれ、乳屋の桶からは、酸っぱい匂いが立っていた。
「また焦げたじゃねえか、ロッテ!」
「こっちの牛乳だって、朝から三桶目だよ、グスタフ!」
太ったパン屋の親父さんと、腕の太い乳屋のおかみさんが、屋台ごしに怒鳴りあっている。まわりの客は、慣れた顔で遠巻きにしていた。
「またやってるよ」
りんごの屋台のおかみさんが、ため息をついた。
「二十年、背中合わせで商売してきた仲なんだけどねえ。半年前の春までは、仲がよかったんだよ。互いの子の名付け親になるくらいにさ」
そのあいだにも、パン屋の台では、客の買ったパンが、手の中で炭になって崩れていく。乳屋の前では、杯についだ牛乳が、客の口に届く前に固まった。グスタフさんが竈に火を入れなおすと、火は三度つけて三度とも消えた。見物していた子どもが、手を叩いて笑う。母親らしい人が、その口をあわてて押さえた。
私はかじりかけのりんごを袋に戻して、二人の手首を見た。
どちらの腕にも、黒い糸がぐるぐると巻きついている。一本や二本ではない。手首から肘まで、糸巻きのようになっている。
「……先生」
マリエラさんが、りんごの袋を抱えたまま、私の袖を引いた。
「あれ、全部ですか」
「全部です」
「全部ほどいちゃいましょう。私、がんばります」
「まず、読みます。返すか解くかは、そのあとです」
二人の声がやんだのは、井戸のそばの看板に、同時に気づいたときだった。
パン屋の親父さんと乳屋のおかみさんは、押しあいながら看板の前へやってくる。
「呪いを返すってのは、あんたか」
「あたしが先だよ!」
「こいつに、全部返してくれ!」
「こっちの台詞だよ!」
「おひとりずつ、拝見します」
私は帳面を開いた。新しい帳面は、六番まで埋まっている。
グスタフさんの腕から、新しい順に読んでいく。
「七番。三日前、グスタフさん宛。内容は『竈の火が消えろ』。送り主は、ロッテさん」
「ほらみろ!」
「八番。五日前。『釣り銭を間違えろ』。同じく、ロッテさん」
「この女……!」
九番、十番と読み進めるうちに、グスタフさんの顔は赤くなり、ロッテさんの顔は少しずつ下を向いていった。グスタフさんの腕の九本のうち、八本までがロッテさんからだ。
ところが、ロッテさんの腕を読みはじめると、今度はグスタフさんの顔が下を向く番だった。
「十六番。四日前、ロッテさん宛。『桶の底が抜けろ』。送り主は、グスタフさん」
「……あれは、つい。こいつの桶が空っぽになりゃ、朝の客がみんなうちに並ぶと思ってよ」
「十七番。十日前。『客に足を踏まれろ』。グスタフさん」
「十八番。ひと月前。『二度とうちの前で笑うな』。グスタフさん」
ロッテさんが、グスタフさんの顔を見た。
「……あんた、あたしの笑い声が嫌いだったのかい」
「……うるさかったんだよ。前から」
ロッテさんの腕の八本のうち、七本がグスタフさんからだ。
帳面の見開きに、二人の名前が交互に並んでいく。王宮の帳面でも、同じ方から同じ方へ、これほど続いたことはない。
マリエラさんが、指を折って数えていた。
「……ぜんぶで、十七本です」
見物の輪のどこかで、誰かが吹き出した。
輪のいちばん外では、帳面を小脇に抱えた痩せた男が、屋台の数を指で数えている。笑いもせずに、何か書きつけていた。
「……お互いさまってことかい」
ロッテさんが、ばつが悪そうに言った。あたしだって、あんたのパンが焦げりゃ、朝の客がみんなうちの前に並ぶと思ったんだよ、と小さな声で付け足す。それから、すぐに顎を上げる。
「でも、先に送ってきたのは、こいつだからね」
「なんだと、先はそっちだろうが!」
「どちらが先かは、分かります」
私は言った。
「いちばん古い一本を、読めば」
古い糸ほど、奥に巻かれている。グスタフさんの手首の、いちばん奥に、色の薄い古い糸が一本残っていた。ほかの糸の下に埋もれて、結び目もかすれている。
「半年前の春、グスタフさん宛。内容は『パンが焦げろ』です」
グスタフさんが、勝ち誇った顔でロッテさんを見た。
私は、結び目の癖を、もう一度たしかめる。ロッテさんの結び方は、ここまでに八回見ている。力まかせで、最後にぎゅっと引く癖がある。
この一本は、違う。結び目の端が、小さく二度、折り返してある。几帳面な人の結び方だ。
「送り主は、ロッテさんではありません」
グスタフさんの顔から、勝ち誇ったものが抜けた。
ロッテさんの手首にも、同じくらい古い糸が一本残っている。
「半年前の春、ロッテさん宛。内容は『牛乳が腐れ』。……送り主は、グスタフさんではありません」
二人が、そろって口を開けた。
広場が、しんとなった。井戸の釣瓶だけが、きいと鳴る。
「一本目は、お二人のどちらでもありません。お二人とも、同じ方から送られています」
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