第11話 焦げないパン
「……誰だい、それは」
先に口を開いたのは、ロッテさんのほうだった。
私は、結び目の癖をもう一度たしかめた。端を二度、小さく折り返す。一本目も二本目も、同じ手だ。
「ホルストさんという方です」
見物の輪が、ざわりと揺れた。
何人かが、同時に振り返る。輪のいちばん外で、帳面を小脇に抱えた痩せた男が、書きつける手を止めていた。
「市の差配人だよ」
りんごの屋台のおかみさんが、私に耳打ちする。屋台の場所を割り振って、場所代を集めて回る役だという。
ホルストさんは、帳面を閉じた。閉じるときに見えたページの角は、どれも二度ずつ、きちんと折ってある。
「言いがかりだ」
声は落ちついていた。
「私は市の差配人だ。屋台の揉めごとを片づけるのが仕事で、揉めごとをこしらえる暇などない」
見物の中から、若い男の声がした。
「差配人さんの帳面って、いつも角が二度折ってあるよな」
「そういや、春に言ってたね」
りんごのおかみさんが、今度は大きな声で続ける。
「パン屋と乳屋のあの角は、市でいちばんいい場所だ。甥っ子に回してやりたいもんだ、って」
見物の輪が、ホルストさんのほうへ半歩ずつ寄った。ホルストさんの口もとが、ほんの少し引きつる。
「お二人に、お聞きします」
私は、グスタフさんとロッテさんを順に見た。
「一本目は、お返しすることも、解くこともできます。どうなさいますか」
二人は顔を見合わせた。半年ぶりに、怒鳴らずに見合わせたのだと思う。
「……返してくれ」
グスタフさんが言った。
「あたしのもだよ」
「残りは、どうなさいますか。お二人が送りあった、十五本です」
グスタフさんは、しばらく自分の腕を見ていた。
「……ほどいてくれ。全部だ」
「あたしのも。全部」
「かしこまりました」
◇
一本目から返す。
グスタフさんの手首の奥から、色の薄い糸を引き出して、結び目ごと裏返した。糸はまっすぐ輪の外へ飛んで、ホルストさんの手首に巻きつく。続けて、ロッテさんの手首の一本も。
ホルストさんは、ちょうど昼の包みを開けたところだった。
包みの中のパンが、見ているうちに黒くなっていく。腰の水筒から牛乳をあおって、ホルストさんはそれを盛大に吹き出した。
見物の輪から、どっと笑いが起きる。
ホルストさんは帳面を抱えたまま、人の輪を押し分けて出ていった。輪の外で一度だけ振り返る。
「……場所代は、明日から倍だ」
「明日からの差配は、別の者がやるよ」
市の顔役らしい年寄りが、そう言って、ホルストさんのあとを追っていった。差配の役がどうなるかは、市の人たちが決めることだ。
残りの十五本は、マリエラさんと手分けしてほどいた。グスタフさんの腕を私が、ロッテさんの腕をマリエラさんが受け持つ。
「新しい糸から先にほどいてください。古い糸は、上の糸をどけないと出てきません」
「はい」
最初の一本で、マリエラさんが首をかしげた。
「先生。グスタフさんの結び目って、大きくてゆるいんですよね」
「最初のころの一本は、そうでした」
「これ、輪は大きいのに、最後だけぎゅっと締まってます」
私は、手元のグスタフさんの腕を見た。ロッテさんの結んだ糸だ。最後にぎゅっと引く癖はそのままで、輪だけが大きくなっている。
最初のころの糸では、二人の結び方はまったく違う。それが、新しい糸になるほど、少しずつ寄っていた。ひと月前の糸など、読まなければ、どちらがどちらのものか分からない。
「……似てきていますね」
「喧嘩してると、似てくるんでしょうか」
「そうかもしれません」
マリエラさんの指は、一本ほどくごとに早くなった。四本目からは、私が口を出すこともない。ときどき手を止めて、結び目をじっと見ている。癖が見えはじめたのは、たぶん今日が初めてだ。
最後の一本がほどけると、グスタフさんは黙って竈に火を入れた。火は、消えない。
しばらくして、パンの焼ける匂いが広場に流れてくる。焦げていない匂いだ。
グスタフさんは焼きあがった丸パンを一つ、背中合わせの屋台へ突きだした。
「……笑い声がうるさいなんて、嘘だ」
「知ってるよ」
ロッテさんはパンを受け取って、黙って杯に牛乳を注ぎ、グスタフさんの台に置いた。
牛乳は、固まらない。
「……やれやれ」
りんごのおかみさんが、肩をすくめた。
「これで、名付け親同士に戻れるね」
グスタフさんは返事をしないで、パンの二つ目を窯に入れた。それから、振り返らずに聞いてくる。
「……ホルストの野郎のあれは、ずっと続くのか」
「解けば、治ります。ご本人がいらっしゃれば」
◇
お代は、丸パン九つと牛乳の小さな壺、それに銅貨の袋。二人で歩いて食べきれる数ではないので、マリエラさんがパンを三つ返した。
帳面は、一日で三ページ埋まった。七番から二十三番まで。お返ししたのは二本だけで、ほどいたのが十五本。そのうち七本は、マリエラさんだ。
夕方、宿の食堂に、王都のほうから来たという行商人が入ってきた。
「王都じゃ、侯爵様がひとり、頬を腫らしてるって噂だよ。返された呪いが出たんじゃないかって、みんな面白がってる。陛下も、今日明日にはお戻りだそうだ。……ああ、それと、東の街道は明日から雨だとさ」
マリエラさんの手が、スープの匙を持ったまま止まった。
「……陛下って、どんな方なんですか」
「一度だけ、お会いしました。八つのときに」
それ以上は、覚えていない。大広間が広かったことと、床が冷たかったことしか。
マリエラさんは、それ以上聞かずに、グスタフさんのパンをちぎって私の皿にのせた。焦げていないパンは、ちぎると湯気が立つ。
部屋に戻ってから、マリエラさんは窓の外を見ていた。王都のほうの空だ。
「先生。殿下、まだくしゃみ、止まってないですよね」
「止まっていないと思います」
「私、戻ったほうが、いいんでしょうか」
私は、少し考えた。
「戻って祈れば、これから届くものは寄せつけずに済みます。でも、もう届いてしまったものは消えません」
マリエラさんは、自分の指を見た。今日、七本をほどいた指だ。
「……じゃあ、ちゃんとほどけるようになってから、戻ります」
肩の上で、鳥が一度だけ羽をふくらませた。鳴きはしない。
私は、古いほうの帳面を開いた。百九十七番のページだ。宛先の欄には、私の名前がある。送り主の欄は、やはり空白のままだった。
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