第12話 鳴かない場所
リーデの町はずれで、りんごの屋台のおかみさんが、袋を一つ持たせてくれた。
「食べきれる数だよ。値切らなくていい」
グスタフさんとロッテさんは、屋台の支度の手を止めて、そろって頭を下げていた。背中合わせではなく、並んで。
町の門を出るとき、肩の上で鳥が鳴いた。
「いくな」
ミルデを出るときも、そうだった。どこかを発つたびに、一度は必ず鳴く。王宮の門を出た晩から、それは変わらない。
「行きます」
いつもの返事をして、東へ歩きだす。
「いつも、言いますね」
マリエラさんが、鳥を見上げた。
「発つときは、必ず」
「……先生。その子の呪いって、どこに行くなって言ってるんでしょう」
私は、少し考えた。
「十年、塔と礼拝堂のほかへ行かなかったのは、この糸のせいもあったのだと思います。ずっと、務めのせいだと思っていましたが」
「でも、今は歩けますよね」
「はい。まだ、解いていないのですけれど」
右足を出す。左足も、ついてくる。鳥は、肩で揺れているだけだ。
誓約を解いて、本来の宛先へ戻ったのは三百十二件だ。私宛の一件は、今もここにある。何が変わったのかは、分からない。
マリエラさんは、それきり黙って、鳥の棘だらけの羽を見ていた。
塔の窓から見えていたのは、この道の始まりのところだけだった。その先を、今は歩いている。
行商人の言ったとおり、昼過ぎから雨になった。
はじめは細かい雨だったのが、すぐに大粒に変わる。街道の両側は畑ばかりで、雨をよけられそうな軒はない。マリエラさんが、前方を指さした。
「先生、あそこ!」
道ばたの小高いところに、石造りの小さな建物があった。屋根に、祈りの印の彫られた石がのっている。旅の人のための、道の礼拝堂だ。
二人で駆けこむと、中は薄暗く、乾いた石の匂いがした。祭壇と、祈りの台と、燭台が一つ。祭壇の端に、旅の人が置いていったらしい野の花が、しおれて挿してある。誰もいない。
私はまず、腰の袋を開けた。帳面は二冊とも、濡れていない。
マリエラさんは、神官服の代わりに着ている灰色の服の裾をしぼって、ぶるっと震える。
「冷たいですね」
「はい」
気がつくと、私は祭壇の前で膝を折っていた。
十年、毎朝そうしてきた。塔の階段を下りて、礼拝堂へ行き、冷たい石の床に膝を折って、誓約の文を読みあげる。体のほうが、それを覚えている。更新する誓約は、もうない。
私は立ち上がって、裾の泥を払った。燭台の脇にあった火打ち石で、蝋燭に火をつける。朝の礼拝堂では、それも私の役目だった。
鳥は、肩の上で羽をたたんでいた。目を閉じている。眠っているのを見るのは、初めてだった。
雨は、なかなかやまない。
◇
日が傾きはじめたころ、ようやく雨脚が弱くなった。
「そろそろ、行きましょう。次の村まで、そう遠くないはずです」
私は鞄を持ち上げて、戸口へ向かった。
鳥は、鳴かなかった。
戸口の敷居をまたいで、外の雨に一歩出る。
「いくな」
私は、自分で足を止めた。
一歩、中へ戻る。鳥は黙った。
もう一度、外へ出る。
「いくな」
中へ戻る。黙る。
「軒の下は、どうでしょう」
マリエラさんに言われて、敷居の外の、屋根のある石畳に立ってみた。雨はかからない。
「いくな」
敷居の内側に靴を戻すと、また黙った。
マリエラさんが、目をまるくして私を見ていた。
「……礼拝堂の中だと、鳴かないんですね」
中にいれば、発とうとしても鳴かない。敷居を一歩出たとたんに、鳴く。
「礼拝堂だからでしょうか。神さまの前だと、呪いもおとなしくなるとか」
「ほかの呪いは、礼拝堂でも効いていました。祈っている間じゅう、鼻をかいている方もいらっしゃいましたし」
鳥の目は、閉じたままだ。羽の棘は、少しも減っていない。
「この子が黙るのは、たしかですね」
私は祈りの台に腰をおろして、古いほうの帳面を開いた。百九十七番のページだ。十年前の冬に書いた字は、大きくて、少し震えている。
「百九十七番。十年前の冬、ノエラ・カーヴェル宛。内容は『行くな』。送り主は、空白」
自分の名前を読みあげるのは、妙な気分だった。宛先の欄に私の名前がある呪いは、この一件しかない。
毎朝、塔の階段を下りて、礼拝堂へ行った。帰りは、来た道を戻る。それより先へ行くことは、考えなくなっていた。
「送り主は、先生が礼拝堂へ通うことを、知っていたんでしょうか」
「そうかもしれません。ここは、王宮の礼拝堂とは違いますけれど」
王宮にいた人か。外で、私の務めを聞いた人か。礼拝堂ならどこでもいいのか、まだ、この一か所しか試していない。
帳面の送り主の欄へ、ペンを近づけて、やめた。
「先生?」
マリエラさんの声が、遠くに聞こえた。
思い出したことが、一つある。
身代わりになって、最初の冬だった。夜中に目が覚めて、塔を下りて、礼拝堂を通りすぎた。家に帰りたかったのだと思う。雪が降っていて、門の灯りが遠くに見えた。
そこから先は、よく覚えていない。誰かの外套にくるまれて、塔へ戻された。顔は見ていない。雪で、何も見えなかった。
腕に百九十七番の茨が浮いたのは、そのすぐあとだ。
門へ向かったのは、その一度だけだった。翌朝には、いつもどおり礼拝堂へ行った。それからは、帰り道を曲がろうとも思わなかった。
「誰かが」
口に出してみると、声は思ったより落ちついていた。
「八つの私を、あの塔に留めておきたかったのだと思います。誰が、なぜかは、分かりませんけれど」
マリエラさんは、しばらく黙って鳥を見ていた。
「……私も、神殿に連れていかれた最初の夜、村に帰ろうとしました。門の前で神官さんに見つかって、泣きながら部屋に戻されて」
それから、手を伸ばしかける。
「……ほどくのは、まだですか」
「まだ、いいです」
私は、肩の上の鳥に目をやった。
「ほどけば、糸ごと消えます。誰が結んだのか、調べるものがなくなってしまいますから」
マリエラさんは、手をおろす。そのかわり、私の濡れた袖の端を、黙ってしぼった。
戸口の外で、水たまりを蹴る音がした。蹄の音だ。
雨の中から、濡れた馬が一頭、礼拝堂の前に駆けこんでくる。鞍にかけた布に、見覚えのある紋が縫いとってあった。王家の紋だ。
馬から降りたのは、四十がらみの背の高い男だった。濡れた外套の下に、侍従の服がのぞいている。男は戸口から中をのぞきこんで、肩の上の鳥に目をとめた。
「ノエラ・カーヴェル殿とお見受けする。……王命である」
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