第8話 お代は、お返しのあとで
翌朝、蹄鉄亭を発つ前に、靴屋に寄った。
マリエラさんの室内履きは、もう手袋を詰めても持たない。つま先の穴が、踵のほうまで広がっている。
靴屋のご主人が言った値段を聞いて、私は財布を出しかけ、マリエラさんの顔を見た。
「……半分なら、とは言わないんですか」
「職人さんの靴は、値切りません」
昨日は数えなかった袋を、今日は数えた。言われたとおりの額を、台の上に並べる。自分で稼いだお金で何かを買うのは、生まれて初めてだった。
マリエラさんは新しい革の靴で、店の前を二、三歩、踏んでみた。
「ぽすぽす、いわないです」
「それは、よかったです」
室内履きから出てきた手袋を、マリエラさんが両手で差し出す。
「お返しします」
少しだけ伸びて、少しだけ土の匂いがした。私はそれを服のポケットに仕舞った。はめはしない。
蹄鉄亭の戸口では、ヒルデさんが待っていた。朝の客を、もう二組迎えたあとらしい。
「行くのかい」
「はい。お世話になりました」
「世話なんかしちゃいないよ」
どこかで聞いた言い方だった。
「ディルクのやつ、今朝早く、頭を下げに来たよ。あんたに解いてもらいたいってさ」
「今、解いていきましょうか」
「いいよ。あんたたちが、次にここへ寄ったときで」
ヒルデさんは、向かいの宿のほうへ顎をしゃくった。
「それまで、あの声を聞かせてもらうさ」
それから、紙に包んだパンを二つ、マリエラさんに持たせた。まだ温かい。
ヒルデさんは、帳場の柱の蹄鉄を指でこつんと叩いた。
「近くを通ったら、寄っとくれ。そのときは、ちゃんと言ってやるから」
「何を、ですか」
「おかえり、ってさ」
向かいの黄金の杯亭の戸口は、閉まったままだった。
◇
東街道は、ミルデを出るとすぐに林へ入る。次の宿場までは、歩いて一日かかるという。マリエラさんの足音は、もうぽすぽすいわない。
昼前、うしろから馬の足音が近づいてきた。四頭。いや、五頭だ。
商人の格好をした男たちが、私たちの前とうしろをふさいで馬を止めた。鞍の脇の細長い包みが、今日はほどかれている。町の中では、人目がありすぎたのだろう。
先頭の男が馬を降りた。マリエラさんが、私の袖をつかむ。井戸のそばで見た顔だという。
男は左の頬を押さえていた手をおろして、形ばかり頭を下げた。
「ノエラ・カーヴェル殿。王太子殿下のお許しを得て、帳面を回収に参りました」
「お断りします」
「……まだ最後まで申し上げておりませんが」
「私はもう、王家の者ではございません。殿下のお許しも、ご命令も、私には関わりのないことです。それに」
腰の袋を、上から押さえる。
「この帳面は、私が十年かけて書いた、私の帳面です」
男はため息をついた。頬が痛むのか、顔をしかめる。
「では、こちらも仕事をさせていただく」
うしろの男たちが、剣を抜いた。
五人のうち、三人に糸が見える。二本は、昨日の客たちと同じくらいのちいさな結び目で、もう一本は、先頭の男の顎に食いこんでいた。
一人が近づいてきて、私の手首をつかむ。その手首にも、細い糸が一本巻いていた。
肩の上で、鳥が棘だらけの羽を広げた。
「いくな」
男が、ぎょっとして鳥を見る。
結び目は、ちょうど指の届くところにある。
私はつかまれたまま、指先でその糸をつまんだ。
「半月前、あなた宛。内容は『馬から落ちろ』。送り主は、ブルーノさんという方です。お返しします」
糸は私の指を離れて、まっすぐ一番うしろへ飛んだ。栗毛の馬に乗った男の首に巻きついたとたん、男は鞍からずり落ちる。
「ブルーノ、てめえか!」
私の手首をつかんでいた男が、手を離して振り返った。
「この半月で三回も落ちたのは、お前の——」
「ち、違う、あれは酒の席の冗談で——」
マリエラさんが、私の背中で声を上げた。
「先生、右の人の足首にも!」
右の男の足首に、結び目がひとつ。私は一歩近づいて、それを読んだ。
「ひと月前、あなた宛。内容は『靴に小石が入れ』。送り主は、同じくブルーノさんです」
「またお前か!」
地面に座りこんだまま、ブルーノさんが頭を抱えた。
男たちは剣を持ったまま、互いの顔を見比べはじめた。誰が誰に何を送ったのかは、送った本人にしか分からない。
「やめろ!」
先頭の男が怒鳴った。隊長格なのだろう。怒鳴ったとたんに頬を押さえて、うめく。
左の頬から顎にかけて、黒い糸がきつく巻きついている。近くで見ると、古い結び目だった。
「隊長さん。その頬、いつからですか」
「……三年ほど前からだ。医者にも、歯抜きにも見せた」
「拝見しても、よろしいですか」
隊長は、しばらく私をにらんでいた。それから、顎を少し上げた。
端を折りこんで、上から押さえつけてある。人を見おろすのに慣れた人の結び方だ。古い帳面で、見たことのある癖だった。
「三年前の冬、あなた宛。内容は『奥歯が痛め』」
少しだけ、間をおいた。
「送り主は、ザイデル侯爵閣下です」
林が、しんとなった。
隊長の手の中で、剣の先が下がる。
「……閣下が?」
「三年前の冬に、閣下のご機嫌を損ねた覚えはありませんか」
隊長は長いこと黙っていた。それから、低い声で言った。
「……閣下の馬車の車軸を、雪の日に折った」
「お返ししますか。解きますか」
隊長は、頬に手を当てた。
「……返してくれ」
「かしこまりました」
結び目ごと、裏返す。糸は隊長の顎からはずれて、西の空へ飛んでいった。王都のほうだ。
隊長はおそるおそる口を開けて、閉じた。もう一度、開けた。
「……痛くない」
奥歯をゆっくり噛みしめて、それから、隊長は変な顔で笑う。三年ぶりに噛めたのかもしれない。
隊長が、剣を鞘に戻す。うしろの男たちも、ばらばらに剣を下ろしていく。
「帳面は、取り逃がした。……そう報告する」
「そうしてください」
隊長は懐を探って、銀貨を一枚出した。
「代金だ。看板に、お返しのあとでと書いてあった」
私は銀貨を受け取った。
男たちは馬に戻って、西へ引き返していく。ブルーノさんだけ、ずっと誰かに怒鳴られていた。
マリエラさんが、西の空を見上げる。それから、自分の目もとに手をやった。
「……先生。私、三本とも、ちゃんと見えてました」
「右の人のは、助かりました」
マリエラさんは、もう一度、西の空に目を戻した。
「先生。侯爵様の歯って……」
「今夜あたりから、痛みはじめると思います」
私は帳面を開いた。四番と五番の送り主の欄には、同じ名前を書く。六番の欄には、侯爵閣下のお名前を。
侯爵閣下へのお返しは、これが一件目だ。
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