第7話 いらっしゃいませ
先に口を開いたのは、ディルクさんのほうだった。
「……何の話だ。一番?」
「帳面の番号です」
私は帳面を開いて、読み上げた。
「一番。十日前の夜、蹄鉄亭のヒルデさん宛。内容は『客を帰せ』です」
送り主の欄は、読み上げなかった。戸口の人の顔色を見れば、読むまでもない。
「言いがかりだ」
ディルクさんの声は、よく通るままだった。
「そんな帳面、誰にだって書ける。証拠でもあるのか」
「お返しすれば、分かります」
私はヒルデさんの喉もとに指を伸ばした。
結び目は固い。端だけが、きれいにそろえてある。ほどかずに、糸の端をつまんで、結び目ごと裏返す。
糸が、ヒルデさんの喉からするりとはずれた。宙で一度まっすぐに伸びて、戸口へ飛ぶ。ディルクさんが手で払うより早く、その喉に巻きついた。
結び目は顎の下に一つ。固くて、端だけがきれいにそろっている。結んだ本人の結び方だから、そっくり同じになる。
ディルクさんが喉をかきむしる。指は、糸をつかめずにすり抜けた。
戸口の向こうでは、通りがかりの人が何人か足を止めていた。看板の前で首のうしろをさすっていた、あの男の人もいる。口を半分開けて、ディルクさんの喉もとを見ていた。
「ヒルデさん。試してみてください」
ヒルデさんは、しばらく口を開けたり閉めたりしていた。それから、戸口のディルクさんに向かって、小さく言った。
「……いらっしゃいませ」
言ってから、両手で自分の口を押さえる。十日前から毎日そうしてきた手つきだ。今日だけ、押さえた中身が違う。
ヒルデさんは手をおろして、帳場の柱の蹄鉄に目をやる。それから、もう一度、今度は大きな声で言った。
「いらっしゃいませ!」
ディルクさんは何か言い返そうとして、やめた。
「解きたくなったら、看板へどうぞ」
私がそう言うと、ディルクさんは野次馬のあいだを抜けて、足早に通りを渡っていく。
マリエラさんが、私の袖を引いた。
「……先生。今の、解くのとはぜんぜん違いましたね」
「返すときは、ほどきません。宛名を書き換えるだけです」
「宛名を?」
「結び目には、送り主の癖が残っています。それを読んで、そのまま宛名にします」
マリエラさんは、自分の指先と私の指先を見比べた。
「私にも、できるようになりますか」
「読めるようになれば」
マリエラさんは通りの向こうに目をやって、声を落とした。
「……返されたほうは、痛いんですか」
「同じだけです。ヒルデさんが、十日そうだったのと」
◇
昼前に、荷馬車の列が宿場町へ入ってきた。
七台。先頭の御者台から、恰幅のいい男が降りてくる。通りの両側を見比べて、迷わず黄金の杯亭のほうへ歩いていった。
ディルクさんが、戸口から飛び出してくる。両手を広げて、満面の笑みで口を開いた。
「お帰りください!」
恰幅のいい男の足が止まる。
「……何だと?」
「ち、違う、いらっしゃ——お帰りください!」
二度目で、男の顔色が変わった。うしろの荷馬車に手を振って、くるりと向きを変える。
通りを渡ってくる男たちを、ヒルデさんは戸口で待っていた。
「いらっしゃいませ」
十日ぶりの声は、少しかすれている。恰幅のいい男はヒルデさんと向かいの宿を見比べて、鼻を鳴らした。
「こっちのほうが、よっぽどまともな宿だ」
「向かいは、喉の具合が悪いんだとさ」
ヒルデさんは、それだけ言って鍵を渡す。
それから夕方まで、蹄鉄亭は休む間がなかった。マリエラさんは袖をまくって、水を運び、皿を運び、合間に厨房の値段の話にまで口を出している。村では、祭りのたびに宿の手伝いをしていたらしい。
私も皿の数を帳面につけようとしたら、ヒルデさんに帳面を取り上げられた。
「あんたはそこに座ってな。看板なんだから」
私は看板の横に座った。
座っていると、客の手首や足首がよく見える。細い糸をつけた人は、思っていたより多い。三人に一人は、どこかに一本巻いている。どれも、ちいさな結び目だ。
荷馬車の男たちの何人かが、看板を読んで首をかしげ、それから自分の手首を見た。
若い御者が一人、おずおずと手首を差し出してくる。
「これ、なんとかなるか。三日前から、財布ばっかり落とすんだ」
手首の糸を、指先で少し持ち上げた。帳面は取り上げられたままなので、口で読む。
「三日前の晩、あなた宛。内容は『財布を落とせ』。送り主は、ヨーゼフさんという方です」
隣の席でスープを飲んでいた御者が、盛大にむせた。
「ヨーゼフ、お前か!」
二人はしばらくにらみあっていた。貸した金がどうとか、返したとか返さないとか。最後に、若いほうが手首を引っこめかけて、また出した。
「……解いてくれ。こいつとは、あと十日、同じ荷を運ぶんだ」
解くのは、マリエラさんに頼んだ。二本目の実習は、一本目より少し早い。
窓から、向かいの黄金の杯亭が見える。朝のうちに着いた商人風の男たちが、ちょうど階段を下りてくるところだった。ディルクさんが帳場から、つい、という顔で声をかける。
「お帰りください」
男たちはディルクさんをにらんで、そのまま食堂へ入っていった。帰る気はないらしい。一人だけ、入る前にこちらの窓を見た。
◇
最後の客が部屋へ上がったあとで、ヒルデさんが帳場の奥から小さな袋を持ってきた。
「お代だよ」
袋は、思っていたより重い。中身を、私は数えなかった。数えたところで、それが多いのか少ないのか、まだ分からない。
マリエラさんが中をのぞいて、目を丸くする。
「ヒルデさん、これ、多すぎます」
「今日一日で、十日分の損を取り返したんだよ。それに」
ヒルデさんは、自分の喉に手をやった。
「十日ぶりに、客を迎えられた」
私は帳面を開いて、一番の横に書き足す。
『お返しした。お代は、数えていない』
その下に、三番も書いておく。財布の件だ。解いたのは、マリエラさん。
マリエラさんが、帳面をのぞきこんだ。
「先生。ディルクさん、ずっとあのままなんですか」
「解けば、治ります」
「解いてあげるんですか?」
「ご本人がいらっしゃれば。お代はいただきますが」
マリエラさんは少し考えて、首をかしげた。
「……ヒルデさんに謝ってから、ですよね」
「それは、ヒルデさんが決めることです」
◇
部屋に戻って窓を閉めようとしたとき、マリエラさんの手が止まった。
「先生。向かいの商人さんたちのこと、なんですけど」
夕方、井戸で水を汲んでいたら、すぐ横で馬に水をやっていたのだという。
「一人、知ってる人がいます。お城の中庭で、何度か見ました。侯爵様がいらっしゃるとき、馬車の横にいつもついてた人です」
私は腰の袋に手をやった。革越しに、黒い帳面の角が指に当たる。
ここに長くいれば、蹄鉄亭が巻きこまれる。
「明日の朝、発ちます」
肩の上で、鳥が「いくな」と鳴いた。
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