第6話 お帰りください
目が覚めたのは、塔にいたころと同じ時刻だった。
窓の外は、まだ暗い。十年、毎朝この時刻に起きて、礼拝堂で誓約を更新してきた。今朝は、更新する誓約がない。
寝台の上に起き上がって、しばらく膝に手を置いていた。
隣の寝台で、マリエラさんが寝返りを打った。薄目を開けて、こちらを見る。
「……おはようございます、先生」
返事をするまでに、少しかかった。
「おはようございます」
それから、聞き返す。
「先生、とは」
「授業料を、お払いしたので」
マリエラさんはそう言って、また目を閉じた。
◇
朝食の席で、女将さんは自分から話しはじめた。
名前はヒルデさん。蹄鉄亭は、亡くなったご主人と三十年やってきた宿だという。
「おかしくなったのは、十日前からさ」
客が来る。いらっしゃいませ、と言おうとする。口から出るのは、お帰りください。
「ほかの言葉は、ちゃんと言えるんだよ。ありがとう、も、またどうぞ、も。客を迎えるときだけ、ああなる」
向かいの黄金の杯亭が開いたのは、この夏の終わりだそうだ。よそから来た男が、古い倉を買い取って建てた。それでも昔なじみの客は、蹄鉄亭に泊まってくれていた。十日前までは。
ちょうどそのとき、表の戸が開いた。旅装の男が一人、帳場をのぞきこむ。
ヒルデさんの腰が、勝手に椅子から浮いた。
「お帰りください」
「なんだ、この宿は」
男はむっとした顔で戸を閉めた。窓から見ていると、通りを渡って、向かいの戸口へ入っていく。
「いらっしゃいませ!」
黄金の杯亭の主人の声が、こちらまで届いた。よく通る、いい声だ。
ヒルデさんは、黙って座りなおした。帳場の柱に打ちつけてある古い蹄鉄を、ちらりと見る。宿を開いた日に、ご主人が打ったものだという。
窓の外では、戸口の看板の前で、ときどき人が足を止めていく。読んで、首をひねって、行ってしまう。一人だけ、読みながら自分の首のうしろをさすっている男がいた。
◇
日が高くなって、食堂の窓に光が入るのを待ってから、ヒルデさんの喉を拝見した。
窓ぎわの椅子に座ってもらい、顎を上げてもらう。
喉の黒い糸は、昨日の夕方と同じところに巻きついていた。明るいところで見ると、結び目はいっそう固そうだ。
結び目には、結んだ人の癖が残る。私には、それが手紙の署名と同じに読める。
この結び目は、固いのに、端だけがきれいにそろえてある。人前では愛想のいい人の結び方だ。
新しい帳面を開いた。塔の帳面では、宛先の欄に書く名前は、ほとんど決まっていた。
「一番。十日前の夜、蹄鉄亭のヒルデさん宛。内容は『客を帰せ』です」
「十日前の夜……」
ヒルデさんの眉が寄った。
「あいつが、この宿を売れって言いに来た日だよ。断ったら、えらい剣幕で帰っていった」
「送り主は、ディルクさんという方です」
「向かいの主人さ、そいつは!」
ヒルデさんが、椅子を鳴らして立ち上がった。その拍子に、左の足首をかく。
マリエラさんが、その足もとをのぞきこんだ。
「先生。こっちにも、一本あります」
左の足首に、髪の毛ほどの黒い糸が、ゆるく巻きついていた。結び目は小さくて、やわらかい。結んだというより、丸めて押しつけてある。
「二番。四日前、同じくヒルデさん宛。内容は『くるぶしがかゆくなれ』。送り主は、ハンスさんです」
ヒルデさんが、すとんと座った。
「……孫だよ。七つの」
飴を買ってやらなかったのだという。そうしたら、ばあちゃんのけち、と言われた。
ヒルデさんは、また足首をかいた。
「どちらも、もう届いてしまっていますから、お返しできます。解くこともできます」
私は帳面を指で押さえた。
「お返しすれば、送り主の方に同じものが届きます。解けば、それで消えます。どちらにしますか」
ヒルデさんは、足首と喉を順に指さした。
「こっちは、解いてやっとくれ。……こっちは、返しとくれ」
「かしこまりました」
窓の外で、馬のいななきがした。
四、五頭の馬が、向かいの黄金の杯亭の前で止まるところだった。降りてきたのは、旅の商人らしい男たちだ。荷は少ない。鞍の脇に、細長い包みが下がっている。
「……商人にしちゃ、荷が軽いね」
ヒルデさんがつぶやいた。宿屋を三十年やっていると、そういうところに目が行くらしい。
私は、マリエラさんのほうを向いた。
「二番は、マリエラさんが解いてください」
「えっ」
「実習です」
マリエラさんは、ヒルデさんの足もとにしゃがみこんだ。両手を足首の上にかざす。手のひらのまわりが、ほんのり明るくなった。
黒い糸が、ぴくりと縮んだ。結び目のほうへするすると巻き戻って、くるぶしの陰に隠れてしまう。私の肩の上では、鳥が髪の陰にもぐりこんだ。
「に、逃げました……」
「光を消してください」
私は言った。
「それは、寄せつけないための光です。当てれば、呪いは隠れます。解くときには使いません」
マリエラさんの手から、明るさが引いていく。しばらくすると、糸がおずおずと出てきた。
「結び目を見てください。送り主がいちばん強く思ったところが、結び目になります」
「……けち、ってところですか」
「たぶん、そうです」
ヒルデさんが、鼻を鳴らした。
「引っぱると締まります。結んだ順の、逆からたどってください」
マリエラさんの指が、糸の端をつまんだ。
一度、結び目がきゅっと締まった。ヒルデさんが、ひっ、と足を引く。
「す、すみません」
「力を抜いて。急がなくていいです」
マリエラさんは、息を吸って、吐いた。指先が、今度はゆっくり動く。輪をひとつくぐらせて、戻す。もうひとつ。
「……麦束の紐と、似てます」
「村で?」
「秋になると、毎日ほどいてました」
最後の輪が抜けると、糸は細くほどけて、窓からの朝日の中で見えなくなった。
ヒルデさんが、足首をさする。
「……かゆくない」
それから、少しだけ笑った。
「あの子が今度来たら、飴くらい買ってやるかね」
マリエラさんは、自分の指先をじっと見ている。
私は帳面の二番の横に、書き足す。
『解いた。解いたのは、マリエラさん』
マリエラさんは帳面をのぞきこんで、それから、両手で顔を隠した。
指のあいだから、声がする。
「……先生。殿下の糸も、こうやってほどけますか」
「殿下のは、もっと固いですよ」
「……がんばります」
「では、一番をお返しします」
ヒルデさんの喉もとへ手を伸ばしかけたところで、表の戸が乱暴に開いた。
「おい、蹄鉄亭の!」
黄金の杯亭の主人が、戸口に立っていた。肩で息をしている。
「表のふざけた看板は何だ。呪いを返すだと? 縁起でもない、今すぐ——」
ヒルデさんの腰が、また勝手に浮いた。
「お帰りください」
主人の口が、開いたまま止まる。
私は帳面を閉じて、立ち上がった。この宿の人は、今、それしか言えない。代わりに言っておく。
「いらっしゃいませ」
主人が、私を見た。
「ちょうど、一番をお返しするところでした」
黄金の杯亭の主人、ディルクさんは、戸口で置物みたいに固まった。
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