第5話 聖女様のいない朝
聖女様がいなくなったと分かったのは、夜明け前だった。
殿下の頭上を漂っていた黒い糸が、一本ずつ降りてきたからだ。
夜通し、聖女様が追い払っていた糸である。光が当たらなくなると、糸はしばらく迷うように殿下の上を回り、それから襟元や耳のうしろへ、するりと入っていく。
侍女が聖女様の部屋を見に行くと、寝台は整えられたままだった。脇に、外履きの靴がそろえて置いてある。
「室内履きで、お出かけに……?」
侍女頭がそうつぶやいたとき、殿下の寝室から、しゃっくりが聞こえはじめた。
◇
朝の光が差すころには、殿下の不調は増えていた。
しゃっくりは、くしゃみの合間を縫って出る。声はあいかわらず裏返る。医師が脈をとろうと手首に触れたところで、殿下のお腹が、長く、低く鳴った。
「……朝食は、召し上がったはずですが」
何を召し上がっても、殿下のお腹は、部屋がしんとしたときに限って鳴るらしい。
神殿からは、朝いちばんに神官が三人来た。聖女様の行方を尋ねるより先に、殿下の枕元にひざまずいて、祈りはじめる。長い祈りだった。最後の一節が終わって寝室がしんとしたところで、殿下のお腹が鳴る。
神官たちは顔を見合わせ、もう一度、はじめから祈った。
宮廷魔術師長は、寝台の足もとに立っていた。白い眉の下の目が赤い。昨夜から一睡もしていないのだろう。
「昨夜も申し上げましたが」
神官たちが下がるのを待って、魔術師長は口を開いた。
「聖女様の加護は、これから届く呪いを防ぐものです。それも、聖女様がおそばで祈っていてこそ。離れれば、加護も離れます」
「では、呼び戻せ」
「お戻りいただいても、降りた糸はもう払えません」
魔術師長は、殿下の襟元に目をやった。
「糸はすべて、殿下に届きました。届いて、発動しております」
「だから何だ」
「発動した呪いは、送り主へ返せます。今なら、返せるのです」
殿下が、しゃっくりをひとつする。
「……誰が返す」
「昨夜申し上げた者です」
寝室が、しんとする。
殿下のお腹が鳴った。
「あの女か」
「ノエラ・カーヴェル殿です」
「連れ戻せ。命令だと伝えろ」
「解任状に、殿下がご署名なさいました」
魔術師長は、そこで一度、言葉を切った。
「あの方はもう、王家の者ではございません。ご命令では、動きません」
殿下は枕をつかんで、振りかぶった。投げる前に、くしゃみが出る。枕は、足もとの医師の顔に当たった。
「頭を下げろと言うのか。この私が、あの陰気な女に」
「お頼みになれば、あるいは」
「断る」
断る、のところで、殿下の声は裏返った。
「陛下がお戻りになれば、陛下がお決めになる。それまで待つ」
殿下はそう言って、寝台から降りようとした。足は床に着く前にもつれ、医師たちが慌てて抱きとめる。
その陛下のもとから二人目の早馬が着いたのは、昼前のことだ。
夜のうちに車輪を直し、夜明けとともに動きだした陛下の馬車は、次の川の手前で、また止まったという。渡るはずだった石橋が、一行の着く少し前に崩れ落ちたのだ。けが人は出ていない。ただ、近くに渡れる橋はほかになく、遠回りをすれば何日かかるか分からない。
それから、と早馬は言いにくそうに付け加えた。
陛下は、ゆうべからお熱を出していらっしゃる。
殿下の顔から、血の気が引いた。
魔術師長は、北東の窓のほうを見たまま動かない。陛下宛の呪いは、殿下宛のものより中身が重い。
◇
その日、王宮に顔を出した貴族は、いつもの半分もいなかった。
急に領地の用を思い出した家がある。熱が出たと言って寝込んだ当主もいる。大広間で扇子に顔を隠したご婦人は、その日から扇子を持ち歩いていない。廊下ですれちがえば、誰もが相手の顔色をうかがう。四十一件の送り主が誰なのかは、送った本人にしか分からない。
午後になって、ザイデル侯爵が見舞いに来た。
叙任式の日、大広間の最前列で、北の塔が空くと一番大きな声で笑った侯爵である。
今日は笑っていない。沈んだ顔で寝台の脇に膝をつき、小さな箱を差し出した。
「蜂蜜の飴でございます。喉によいと申しますので」
殿下のくしゃみが、飴の箱の上に降りかかった。侯爵は、顔色ひとつ変えない。
「殿下。あの娘が持ち出した帳面のことですが」
「帳面?」
「殿下を呪った不届き者の名が、すべて書いてあるとか。あの日の大広間にも、四十一件分の送り主がいたと申しておりましたな」
殿下の目が、細くなった。
「……誰だ」
「それは、帳面を見なければ分かりません」
侯爵は深く頭を下げた。
「帳面を取り戻して、殿下のお手元へお届けいたしましょう。あれは、王家にお仕えしていたあいだに書かれたもの。本来、王家のものでございます」
魔術師長が、口を開きかけた。
殿下のほうが早かった。
「好きにしろ」
侯爵は、もう一度深く頭を下げる。下げた顔がどんな顔をしていたのかは、床しか知らない。
魔術師長は、侯爵が部屋を出ていくまで、その背中から目を離さなかった。
◇
夕方、王宮の門に、侯爵家の家令がやってきた。
門番のボルツは、詰所の前で昼の残りのパンをかじっている。
「北の塔の娘は、どちらへ行った」
「さあね」
「見送ったのだろう」
「見送ったよ。行き先は聞かなかった」
ボルツはパンを飲みこんで、門の外の通りへ目をやった。
「嬢ちゃんが自分で決めたところへ行ったんだろうさ」
家令は舌打ちをして、帰っていく。
ボルツは、北の塔を見上げた。塔の窓に灯りが点かない夜は、十年ぶりになる。
その夜、ザイデル侯爵の屋敷では、書斎にだけ灯りがともっている。
「東門の番兵が、覚えておりました」
私兵の頭が言った。
「夜明けに、しゃべる黒い鳥を肩にのせた娘が出ていったと。すぐあとから、白い神官服に室内履きの娘が走っていったそうです」
「……聖女までか」
侯爵は、しばらく指で机を叩いていた。
呪いは使えない。あの娘に呪いを送れば、読まれる。読まれれば、送り主へ返される。自分の送った呪いが自分の身に起きるところを、誰かに見られたら終わりだ。
かといって、家の紋をつけた兵を街道に出せば、人の口に上る。帳面を欲しがるのは、帳面に名前のある者だけだ。殿下のお許しを取りつけたのは、万一のときの言い訳にすぎない。
「商人の格好で行け。紋はつけるな」
「娘は、いかがいたしますか」
「帳面だけでいい」
侯爵は、机の引き出しを半分ほど開けた。中を見て、また閉める。引き出しの縁から、藁くずが一本こぼれた。
「殿下にお渡しする前に、必ずこちらへ持ってこい。私の名前は、燃やす」
「ほかの名前は」
「しばらく、私が預かっておく」
侯爵は、そこで初めて笑った。大広間で笑ったときと、同じ声だった。
夜が明けると、馬に乗った商人の一行が、王都の東門を出ていく。
鞍の脇には、商人の荷にしては細長い包みが下がっている。
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