第4話 呪い、お返しします
聖女様の室内履きは、昼前に底が抜けた。
白い布でできた、もともと廊下を歩くための履物だ。石畳の終わった街道を半日も歩けば、そうなる。むしろ、よくもったほうだと思う。
「平気です」
聖女様は、穴から出た親指を隠すように、足を引っこめた。
「村では、夏はずっと裸足でしたから」
「今は秋です」
道ばたの石に聖女様を座らせて、服のポケットから手袋を出した。大広間で外してから、ずっとそこに入れてある。十年、毎日はめていたものだ。腕の茨がなくなったので、もうはめる理由がない。
二つを丸めて、左右の室内履きに一つずつ押しこむ。穴はふさがった。つま先がふくらんで、少し不格好だ。
「これで、次の町まではもつでしょう」
「……いいんですか。大事なものなんじゃ」
「手にはめていたころより、役に立っています」
聖女様は何か言いたそうに私を見て、それから、手袋の詰まった足で二、三歩、足踏みをした。
「あったかいです」
肩の上で、鳥が「いくな」と鳴いた。
「行きます」
鞄を持ち直して、また歩きだす。
街道の両側は、刈り入れの済んだ畑だ。干し草を積んだ荷車が、私たちを追い越していく。御者が肩の鳥に気づいて、二度振り返った。
乾いた土の匂いがする。こういう匂いがあったことを、私は十年、忘れていた。
うしろから、ぽすぽすと妙な足音が追いついてきた。手袋の詰まった室内履きの音だ。聖女様は私の横に並ぶと、腰の小袋を両手で握った。中で、硬貨がこすれて鳴る。村を出るときに、母親が持たせてくれたお金だという。
「あの。授業料って、おいくらなんでしょうか」
「宿に着いてから決めます」
「そんなに、高いんですか……」
小袋を握る指の関節が、白くなっている。
聖女様はそれきり、しばらく黙って歩いた。
「どうして、東なんですか」
「塔の窓が、東向きだったので」
聖女様は、それ以上は聞かなかった。
◇
宿場町の屋根が見えてきたので、道ばたの木の陰で、聖女様に私の着替えを一着着てもらう。灰色の、飾りのない服だ。白い神官服は目立ちすぎる。丸めて、鞄の底へしまう。
「町では、聖女様とお呼びしないほうがいいですね」
「マリエラでいいです」
少し考えてから、聖女様が付け加える。
「村では、ずっとそう呼ばれていたので」
「では、マリエラさん」
マリエラさんは、自分の名前を口の中で一度くり返した。
東街道の最初の宿場町、ミルデに着いたのは、日が傾いてからだった。
通りをはさんで、宿屋が二軒、向かい合って建っている。
片方は新しい。窓という窓に灯りが入っていて、戸口では主人らしい男が、通りかかる旅人に声をかけていた。金色の杯を描いた看板が、夕日を跳ね返している。
もう片方は、蹄鉄を描いた看板が傾いたままだ。灯りは、帳場の一つだけ。
「こっちにしましょう」
マリエラさんが、蹄鉄のほうを指さした。
「空いてる宿は、安いです」
蹄鉄亭の帳場には、五十がらみの女の人が座っている。私たちが戸を開けると、顔を上げて、口を開いた。
「お帰りください」
マリエラさんが、え、と声を漏らす。
女の人は、自分の口を手でふさいでいた。目が、しまった、と言っている。
その喉に、細い黒い糸が一本巻きついているのが見えた。結び目は顎の下で、固く、何重にも締めてある。
出ていけに近いことなら、十年のあいだに何度も言われている。今さら驚くほどのことでもない。
「お部屋は、空いていますか」
女の人は口から手を離して、しばらく私の顔を見ていた。
「……空いてるよ。全部」
女将さんが言った一晩の値段を聞いて、私は腰の袋から財布を出した。塔にいたあいだの手当が、ほとんど手つかずで入っている。使い道がなかったからだ。
中身を全部帳場に出そうとしたところで、マリエラさんに手首をつかまれた。
「高いです」
マリエラさんは、私ではなく女将さんに向かって言った。
「こんなに空いてるのに、その値段はないと思います。半分なら、二晩泊まります」
「半分? あんた、うちを潰す気かい」
「お客さんが一人もいないよりは、いいと思います」
女将さんは口をへの字に曲げて、それから、長い息を吐いた。
「……四分の三」
「三分の二」
「持ってきな」
鍵を受け取ってから、私はマリエラさんに向き直る。
「授業料が決まりました」
「えっ。い、今ですか」
「今のを、教えてください」
マリエラさんが、目をぱちぱちさせる。
「……値切り方を、ですか?」
「それと、物の値段を。私は十年、自分で何かを買ったことがありません」
「それが、授業料なんですか?」
「はい。教えていただくことが、たくさんあります。ですから、高いと申し上げました」
マリエラさんは、しばらく口を開けたままでいる。
「でも、それじゃ私、何もお払いしてないです」
「もう、お払いいただきました。三分の一」
帳場の向こうで、女将さんが吹き出した。吹き出してから、自分でも驚いたような顔をしている。
◇
看板にする板は、女将さんが裏の物置から出してきてくれた。昔の品書きの板で、裏は白木のままだ。
帳面用のインクで、大きく書く。
『呪い、お返しします』
横からのぞきこんでいたマリエラさんが、首をかしげた。
「呪われないようにします、とは書かないんですか」
「それは、できませんので。お返しできるのは、もう届いてしまった呪いだけです」
「……そっか。寄せつけないのは、私のほうの仕事でした」
マリエラさんは板の端を指でなぞって、それから、もうひとつ首をかしげた。
「あと、お代も書かないと、誰も来ないと思います」
「いくらにすればいいのでしょう」
「……それがいちばん、難しいんです」
二人でしばらく考えて、下に小さく書き足した。
『お代は、お返しのあとで結構です』
「これなら、みんな来ます。払わないで逃げる人も来ますけど」
「そのときは、帳面に書いておきます」
マリエラさんは、なぜか少し青くなった。大広間で帳面が何をしたか、殿下の半歩うしろで見ていた人だ。
看板は、女将さんの許しをもらって、蹄鉄亭の戸口の脇に立てかけた。
「……好きにしな」
女将さんはそう言ってから、看板の文字を長いこと見ていた。
通りの向かいでは、黄金の杯亭の主人が腕を組んで、こちらを見ている。旅人を呼びこんでいたときの笑顔は、どこかへしまってしまったらしい。
◇
その夜、部屋の戸を叩く音がした。
燭台を持って、女将さんが立っていた。帳場で見たときより、少し小さく見える。
「……あの看板のことなんだけどね」
女将さんは、自分の喉に手をやった。
「神殿の坊さんには、祈っとけって言われたよ。祈ったさ。十日、毎晩」
「喉のものでしたら、明日の朝、明るいところで拝見します」
女将さんは何か言いかけて、やめた。代わりに一つうなずいて、階段を下りていく。
戸を閉めると、肩の上で鳥が「いくな」と鳴いた。
「行きません。明日は、ここで仕事です」
私は鞄から、予備の帳面を一冊出した。まだ一文字も書いていない帳面だ。
一ページ目の端に、小さく「一番」と書いた。
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