第3話 行くなと鳴く鳥
北の塔の荷物は、鞄ひとつに収まった。
着替えが三着。帳面の予備が二冊。インク壺。それから、八歳のときに持ってきた木の櫛。十年暮らした部屋の中身としては少ないのかもしれないけれど、身代わりに私物はあまり要らなかった。
窓の外はもう暗い。王宮のほうは、夜だというのに灯りが増える一方だった。廊下を走る足音。医師を呼ぶ声。ときどき、遠くで殿下のくしゃみ。
塔の階段を下りると、門番のボルツさんが詰所の前に立っていた。
「行くのかい、嬢ちゃん」
「はい。お世話になりました」
「世話なんかしちゃいないさ」
ボルツさんは、紙に包んだパンを差し出した。まだ温かい。
「毎朝おはようと言ってただけだ」
「十年間、毎朝言ってくださったのは、ボルツさんだけでした」
受け取ってから、私は帳面を少しだけ持ち上げてみせた。
「ボルツさんのお名前は、この帳面のどこにも載っていません」
「そりゃあ、俺は呪いのかけ方なんか知らないからな」
ボルツさんは笑った。私も、少し笑った。たぶん、そういう意味ではなかったけれど。
門を抜けようとしたとき、左手首がむずむずした。
百九十七番の茨が、肌からはがれかけている。ほかの三百十二件と同じように宙へほどけて、どこかへ飛んでいくのかと思った。
飛んでいかなかった。
黒い糸は手のひらの上でくるりと丸まって、握りこぶしほどの塊になった。塊から、ちいさな頭が出た。くちばしが出た。棘みたいな羽が生えた。
黒い、ちいさな鳥だった。
鳥は私の指にとまって、首をかしげた。
「いくな」
しゃがれた、ひどく小さな声だった。
「……送り主がわからないんじゃ私だから、返せないわね」
百九十七番が届いたのは、身代わりになって最初の冬だった。八歳の私に、誰かが「行くな」と呪いをかけた。どこへ行くなというのか、送り主が誰なのか、十年かけても読みとれなかった。
「いくな」
鳥がもう一度言った。
「悪いけど、もう行くの」
私は鞄を持ち直して、門の外へ一歩出た。鳥は指から肩へ移っただけで、飛び去りはしなかった。
「行くなと言いながら、付いてくるのね」
「いくな」
「はいはい」
◇
その頃、王宮では。
殿下の寝室には医師が三人呼ばれていた。くしゃみは止まらず、声は裏返ったまま、寝台から降りようとすればなぜか必ず足がもつれる。枕元では、頭上を漂う黒い糸を聖女様が夜通し追い払っていた。
北東へ向かった早馬は、夜半に戻ってきた。巡幸中の陛下の馬車は、車輪が三つ同時に外れて動けなくなっているという。陛下宛の呪いは殿下宛のものより数は少ないが、中身は重い。
宮廷魔術師長が青い顔で進言した。届いてしまった呪いを送り主へ返せる者は、この国に一人しかいない。十年間、あの呪いを預かり、送り主の名を一件ずつ読みとってきた者だけだと。
同じ夜、最前列にいた侯爵閣下は、屋敷の私兵を集めていた。
黒い帳面を、どんな手を使ってでも手に入れるために。
◇
王都の東門を出たところで、夜が明けはじめた。
さて、どこへ行こうか。考えてみると、行き先を自分で決めるのは初めてだった。
思っていたより、ずっといい気分だった。
呪いを預かることと、送り主へ返すこと。それから、糸をほどいて解くこと。私にできるのはそれだけだ。王家の誓約はもうないけれど、町の人たちだって、隣人に嫌がらせの呪いをかけられて困っていることはあるだろう。そういう人から少しずつお代をもらって暮らせばいい。
看板の文句は、もう決めてある。
『呪い、お返しします』
「いくな」
「行きます」
そのとき、うしろから、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
振り返ると、白い神官服の裾をたくし上げた女の子が、室内履きのまま街道を走ってくるところだった。金色の髪が朝日に光っている。
聖女マリエラ様だった。
「ま、待ってください……!」
息を切らして、聖女様は私の前で膝に手をついた。
「わ、私に、解き方を教えてください。殿下の糸、追い払っても追い払っても戻ってくるんです。神殿の人たちは、聖女なら祈れば消えるって、それしか言わなくて」
「王宮にいなくていいのですか。聖女様がいなくなったら、殿下は大変でしょう」
「だって、私がいても大変なままなんです」
聖女様は顔を上げた。目の下にくまができている。一晩中、あの糸を追い払っていたのだろう。
「あの人たちに教わるより、あなたに教わりたいです」
肩の上で、鳥が「いくな」と鳴いた。聖女様がびくっとした。
私はパンの包みを半分にちぎって、聖女様に渡した。
「授業料は、高いですよ」
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