第2話 三百十二件、お返しします
最初に動いたのは、右手首の一本だった。
茨の模様が肌からはがれて、糸のように細くほどけていく。水に落としたインクみたいに宙へ広がったかと思うと、黒い糸はまっすぐ殿下のほうへ飛んだ。
「な、」
殿下が一歩下がった拍子に、靴のかかとが折れた。
殿下は見事に尻もちをついた。
「三十七番」
私は腰の袋から黒い帳面を出して、ページをめくった。
「七年前の冬、殿下宛。内容は『転べ』です」
誰かが吹き出して、慌てて咳でごまかした。
二本目、三本目と、糸が次々に腕からはがれていく。ほとんどが殿下へ、残りは開いた窓から北東の空へ飛んでいった。巡幸中の陛下がいらっしゃる方角だ。
「八十二番、殿下宛、『声が裏返れ』」
「な、なにをッ」
殿下の声が、途中で鶏みたいにひっくり返った。
「百十番、殿下宛、『鼻がむずむずしろ』。百十一番、同じ方から、同じ内容です。よほどお嫌いだったのでしょうね」
殿下のくしゃみが止まらなくなった。
大半は、この程度のものだ。王族に届く呪いの多くは、腹を立てた誰かが夜中に藁人形へぶつけたような、ちいさな嫌がらせにすぎない。一件ずつなら、たいしたことはない。
ただ、十年分となると話が違う。
「せ、聖女……! なんとかしろ!」
くしゃみの合間に殿下が叫んだ。
聖女様が両手を前へ突き出した。まぶしい光が広がって、殿下へ向かっていた黒い糸が何本か弾かれる。おお、と広間がどよめいた。
けれど弾かれた糸は、消えなかった。殿下の頭上をくるくる回って、隙をうかがうように漂っている。
「え、なんで……消えない……」
「聖女様の加護は、これから届く呪いを防ぐものです」
私は帳面をめくりながら言った。
「もう届いてしまった呪いは、防いでも消えません。解くか、送り主へ返すか、どちらかです」
「と、解く……? そんなの、神殿で習ってません……」
聖女様の顔が青くなった。
この子のせいではない、と思う。聖女は呪いを寄せつけない。そう教えられてきたのだろうし、それ自体は正しい。ただ、寄せつけないことと、片付けることは別の仕事だというだけだ。
返す、と口にしたとき、腕の奥が少しうずいた。
呪いを送り主へ返せるのは、発動したあとだけだ。身代わりが預かった呪いは、発動する手前で眠ったまま、腕に溜まっていく。眠っている呪いには、たどる糸口がない。だから十年間、私にできたのは、預かって、帳面に控えることだけだった。
腕の茨は、もうほとんど残っていなかった。肌が十年ぶりに軽い。袖口から入る風が冷たくて、少し驚く。
「ところで」
私は顔を上げた。
「呪いには、送り主の癖が残ります。筆跡のようなものです。お預かりするたびに、宛先と内容と、送り主のお名前をこの帳面に控えてまいりました」
広間の空気が、はっきりと変わった。
「帳面にある三百十三件のうち、四十一件は」
ページを閉じる。
「本日ここにご列席の皆様から頂戴したものでした」
誰も笑わなかった。
扇子で顔を隠したご婦人がいた。急に襟元を直しはじめた伯爵がいた。最前列の侯爵閣下は、さっきまで一番大きな声で「北の塔が空く」と笑っていた方だけれど、今は置物みたいに固まっている。
「ご安心ください。私はもう王家付きではございませんので、どなたのお名前を申し上げる務めもありません」
安心してもらえたかどうかは、わからなかった。
十年間、送り主を尋ねられたことは、一度もなかった。
身代わりが預かった呪いは、誰の身にも届かない。届かない呪いは、誰も傷つけない。傷つけていないものを罪に問う法は、この国にはない。
王家も、それで構わないとお考えだった。呪いを送ってくる貴族を一人ずつ裁くより、塔に身代わりを一人置いておくほうが、ずっと安上がりで、波風も立たない。この帳面は、誰にも頼まれずに、私が勝手につけてきたものだ。
けれど今夜からは、話が違う。三百十二件は、宛先に届いた。私が名前を申し上げなくても、帳面は残る。
青ざめた方々は、たぶん、そのことに気づいたのだと思う。
「ま、待て、ノエラ」
くしゃみをこらえながら、殿下が床から手を伸ばした。
「これを、元に戻せ。もう一度、預かれ」
「解任状にご署名をいただきましたので」
「命令だ!」
「私はもう王家の者ではございません。殿下のご命令をお受けする立場にないのです」
私はスカートの裾をつまんで、この十年でいちばん丁寧なお辞儀をした。
「長らくお世話になりました」
背を向けて、大広間を出る。扉のところで、左の手首がちくりとした。
見ると、茨の模様が一本だけ残っていた。親指の付け根ほどの、ちいさな一本。
帳面の百九十七番。
宛先の欄には、私の名前が書いてある。
送り主の欄は、十年間ずっと空白のままだ。
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