第1話 身代わりはもう不要だそうです
「ノエラ・カーヴェル。本日をもって、王家付き身代わりの任を解く」
王太子アルブレヒト殿下の声が、大広間の高い天井に跳ね返った。
秋の叙任式の締めくくりだった。居並ぶ貴族はざっと二百人。そのど真ん中で名前を呼ばれるのは、十年ぶりになる。前は八歳のとき、この役目を言い渡された日だ。
「聖女マリエラの加護によって、今後、王家はあらゆる呪詛から守られる。もはや身代わりを置く理由はない」
殿下の半歩うしろで、金髪の女の子がぺこりと頭を下げた。春に神殿が辺境の村で見つけてきたという聖女様だ。胸の前で組んだ手のまわりが、ほんのり明るい。噂どおり、加護は本物らしい。
広間のあちこちで忍び笑いが起きた。
「やっと北の塔が空くわね」
「あの手袋、真夏でも外さないのよ。何を隠しているんだか」
聞こえるように言っているのだから、聞いておく。十年もいれば、こういうのは右から左へ流せるようになる。
私は前へ出て、膝を折った。
「確認させてください、殿下。明日から、王家に向けられた呪いを私が受ける必要はない、ということでよろしいですか」
「そうだ」
「毎朝の誓約の更新も」
「要らん」
「北の塔の鍵は」
「好きにしろ。返したければ返せ」
「塔を出て、どこへ行ってもかまわないと」
殿下が眉を寄せた。
「何が言いたい」
「いえ。十年、塔と礼拝堂のほかには出たことがなかったもので」
笑い声が少し減った。気まずくなった人がいたのかもしれないし、単に飽きたのかもしれない。
「ひとつだけ、申し上げておきたいことが」
「くどい」
殿下は手を振った。
「お前の話は聞き飽きた。陛下が巡幸からお戻りになる前に、この件は片付けておく。それだけだ」
ああ、陛下はご存じないのか、と思った。
ご存じないなら、なおさら言っておいたほうがいい気もしたけれど、くどいと言われたばかりだ。殿下は陛下がご不在のあいだの代理である。代理のご判断に、身代わりが口をはさむ筋合いはない。
「かしこまりました。では、恐れ入りますが、解任状をいただけますか」
「解任状?」
「身代わりの誓約は書面で交わしました。解くときも書面が要ります。殿下のご署名があれば足ります」
殿下は面倒くさそうに書記官を呼んだ。羊皮紙が用意され、文言が読み上げられ、殿下は羽根ペンを大きく走らせた。これみよがしな、いい署名だった。
「これでいいな」
「はい。確かに」
受け取った羊皮紙を胸に当ててから、私は左の手袋を外した。続けて右も。
前列のご婦人が、ひっと息をのんだ。
手首から肘の上まで、黒い茨の模様がびっしりと這っている。刺青のように見えるけれど、これは肌の上ではなく、少しだけ内側にある。ときどき脈に合わせて、ちくりと動く。
「なんだ、それは」
殿下が顔をしかめた。
「十年分の呪いです」
私は答えた。
「身代わりの誓約は、呪いを消すものではありません。王家の皆様に届くはずだった呪いを、途中で私が預かっておくだけです。預かったものは、ここに溜まります」
「……それで?」
「誓約を解けば、預かっていたものは、本来の宛先へ戻ります」
広間が、しんとなった。
聖女様が「えっ」と声を漏らした。殿下は口を半分開けたまま、私と羊皮紙を交互に見ている。
「ご安心ください。聖女様の加護がございますから」
私は解任状を右腕に押し当てた。殿下の署名のインクが、茨の上でじわりと滲む。
「誓約を解きます。王家の皆様宛にお預かりしていた三百十二件、お返しいたします」
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