第86話 渡さないもの
大市まで、あと六日になっていた。
レオンさんは、私の対案を最後まで読んだ。
途中で笑うことも、紙を突き返すこともなかった。それがかえって、胸を固くした。
彼が自分の控えを開く間、私は窓際の机を見ていた。前に動かした位置のままだった。ここへエルゼさんに座っていただく。その時、右から光が当たれば、手元を遮らずに済む。
そのつもりで、今日も来ていた。
「紹介の分を、減らしたいのではないのですね」
「はい。会場の手配にも、こちらに書いたお代をお支払いします」
「ただし、私が勧めた方でも断る。先生へ直接来た方は、私を通さず受ける」
「私が診られるかは、私が確かめます。日程に関わることは、事前にお伝えします」
レオンさんが指を組んだ。
「それでは、こちらで収入を見込めません」
「紹介していただいた方を、お代を払わずお受けするわけではありません」
「一人をご紹介するために、何人へ声を掛けるか。その間に断った仕事の分までは、先生に見えないでしょう」
私は黙った。
見えていない。それは本当だった。
彼がアデーレさんへ私を紹介し、部屋を整えてくださらなければ、あの短い音を聞くことはなかったかもしれない。そこをなかったことにして、目の前の条件だけ悪いと言うつもりはなかった。
「ですから、手配の費用は、治療をお受けするかとは分けてご相談したいです」
私は対案の行を指した。
「空けておく時間にも費用がかかるなら、最初に決めて払います。その代わり、誰に会うかは、私が決めます」
レオンさんは椅子の背へ体を預けた。
「その時間へ、もっと高い仕事を入れられたとしてもですか」
「はい」
「先生は、ご自分の価値を安く見すぎています」
喉の奥が熱くなった。
少し前なら、私もそう思っただろう。高いお代を頂くのが怖くて、最初から引いていたこともある。
でも、今日ここへ持ってきたものは、働いた分を受け取らないという話ではなかった。
「私は、お代をいただきます。安く済ませればよいとも思っていません」
私は椅子の縁を持つ手を、膝へ戻した。
「そのうえで、診たい方がいます」
レオンさんが、小さく息を吐いた。
「困っている方を、もっと救いたいのでしょう。私に任せれば、先生は治すことに専念できます。こちらで選べば、部屋も維持できる。教える時間も取れる」
隣のマリエラさんが、わずかに動いた。
私は彼女を見ずに、レオンさんへ答えた。
「何を引き受けるかを決めることも、私の仕事です」
同じ説明を、少しずつ違う言葉でしていた。
もう一度言えば伝わるのか、相手は分かっていて違うものを望んでいるのか。私はそれを見極めようとしていた。
◇
扉を叩く音がした。
受付の人が、ユリアさんがお見えですと告げた。相談中だと伝えたが、今日中に私へ直接確かめたいことがあるという。
「お待ちいただきますか」
私はレオンさんに、少し時間を頂くと伝えた。
ユリアさんは入口のところで、私と彼の顔を見比べた。いつもの布包みではなく、折った紙を持っていた。
「エルゼが、もう来なくていいと言われたんです」
私は立ち上がりかけて、机に手をついた。
「どういうことでしょうか」
「先生は、その額では診ないそうです。そう言われたと」
部屋の窓が、急に遠くなった。
聞き返す言葉が出なかった。
エルゼさんは、私に手を見せてくださった。布を押さえる時の震えを話し、私は大市の日に改めて診ると答えた。治るとは約束していない。けれど、会うと約束した。
お代も、私の通常の料金を伝えた。
「私は、お断りしていません」
声が、自分でも驚くほど低くなった。
ユリアさんは紙を机へ置いた。
「本人は、私が紹介したせいで先生にご迷惑を、と。私も、そんなはずはないと思って。エルゼに頼まれて、この返事を持ってきました」
私は紙を開いた。
面談の時刻が取り消されていた。別の機会を待つようにとある。そこに、私の承諾した返事は一文字もなかった。
「レオンさん」
彼はすぐには目を合わせなかった。
「その時間は、別の方へご案内しました」
「私がエルゼさんを診ると、お伝えしていましたね」
「はい。ただ、こちらにはずっと条件のよいお話が」
「私が、その額では診ないと、伝えたのですか」
彼が口を閉じた。
私は待った。否定してほしいと思った。この紙は何かの行き違いで、すぐに直せると言ってほしかった。
「手配をする者へ、そう説明するよう伝えました」
指先が冷たくなった。
私は机の端から手を離した。
「私の返事として」
「結果としては、そうなります」
「結果ではありません。あなたが、そう言わせたのですね」
レオンさんは、はい、と答えた。
私はその一言を聞き終えてから、息を吸った。
怒鳴りたいと思った。誰の名前を使ったのですか、と、紙を彼の前へ叩きつけたかった。
けれど、その紙はエルゼさんのものだった。私を信じて来るつもりだった人が、断られた証に渡したものを、私の怒りでくしゃくしゃにしたくはなかった。
私は紙を平らに置いた。
「代わりの方には、私が会うと約束したのですか」
「その時間を確保すると。手配のお金も、お受けしています」
マリエラさんが、隣で息を止めた。
「私の承諾は、取っていませんね」
「先生に損をさせる話ではありません」
私は彼を見た。
さっきまで、分かってもらうために言葉を探していた。今は、言うことが一つに決まった。
「この提携を、終わりにします」
◇
「大市まで、あと何日かお分かりですか」
レオンさんの声も低くなった。
「はい」
「ここは、私が押さえた部屋です。先生へ紹介するという条件で取った場所ですよ」
私は窓際の机を見た。
患者さんの肘を置く場所も、マリエラさんの立つ場所も、もう決めてあった。まだ誰も座っていない椅子を見て、胸の奥がひどく痛んだ。
「こちらも、使えなくなるのですね」
「契約を続けないなら。案内を出す場所も同じです。そこだけ残すのは、お断りします」
彼の仕事がなくなれば、私の企画も元の形ではできない。
分かっていたつもりだった。実際に言われると、足元が少し沈むようだった。
また話し合えば。今回の一件を戻してもらえば。
そう考えかけ、エルゼさんの紙を見た。
私が面談を望んだ人を、私の名で追い返していた。もっと条件がよいからという理由で、私の返事まで売っていた。
それを知っても、欲しかった部屋のために任せ続けるのか。
「使いません」
私は答えた。
「すでにお願いして行われた告知などのお代は、確かめてお支払いします。ですが、私が承諾していない約束は、引き受けません。受け取ったお金については、あなたからご本人へ説明してください」
「そんなことをすれば、先生の評判も傷つきますよ」
「すでに、私がお断りしたことになっています」
自分の声に、抑えきれない怒りが出た。
「私が会うと約束した方にです」
レオンさんは黙った。
私は案内の見本を自分のほうへ引かなかった。もう使わない紙だった。代わりに、自分が持ってきた対案を畳んだ。
あの部屋は欲しかった。
欲しかったまま、鞄を持った。
◇
外へ出ると、通りの音が一度に戻った。
ユリアさんへ、エルゼさんには自分から説明したいと伝えた。面談の約束を消すつもりはない。ただ、新しい場所は、まだ決まっていない。
「場所が見つかると、今すぐは言えません。でも、私がお断りしたのではないと、まずお伝えしたいです」
ユリアさんはうなずいた。
「それを、本人に聞かせてください。あの人、あなたに嫌がられたと思っています」
私は唇を噛んだ。
知らなかったから仕方がなかったとは、思えなかった。自分の約束を、信じて待っていた人がいる。
宿へ戻る道で、マリエラさんが鞄を持ち直した。
「先生。私の練習は、あとにしても」
「なくしません」
強く言いすぎて、彼女を見た。
「すみません。まだ、方法は決まっていません。でも、あなたとした相談まで、なくすつもりはありません」
彼女は黙ってうなずいた。
宿の帳場には、別の方からの伝言があった。
もう診てもらえないと聞いたので、確かめたいという。
私は伝言を受け取り、鞄を床へ下ろした。
部屋を失ったことを悲しむ時間さえ、先に片づけてはくれなかった。
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