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聖女様がいらしたので、身代わりはもう不要だそうです。では、十年分の呪いをお返ししますね。  作者: 堀吉 蔵人
第3部

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第86話 渡さないもの

 

 大市まで、あと六日になっていた。

 レオンさんは、私の対案を最後まで読んだ。

 途中で笑うことも、紙を突き返すこともなかった。それがかえって、胸を固くした。

 彼が自分の控えを開く間、私は窓際の机を見ていた。前に動かした位置のままだった。ここへエルゼさんに座っていただく。その時、右から光が当たれば、手元を遮らずに済む。

 そのつもりで、今日も来ていた。


「紹介の分を、減らしたいのではないのですね」

「はい。会場の手配にも、こちらに書いたお代をお支払いします」

「ただし、私が勧めた方でも断る。先生へ直接来た方は、私を通さず受ける」

「私が診られるかは、私が確かめます。日程に関わることは、事前にお伝えします」


 レオンさんが指を組んだ。


「それでは、こちらで収入を見込めません」

「紹介していただいた方を、お代を払わずお受けするわけではありません」

「一人をご紹介するために、何人へ声を掛けるか。その間に断った仕事の分までは、先生に見えないでしょう」


 私は黙った。

 見えていない。それは本当だった。

 彼がアデーレさんへ私を紹介し、部屋を整えてくださらなければ、あの短い音を聞くことはなかったかもしれない。そこをなかったことにして、目の前の条件だけ悪いと言うつもりはなかった。


「ですから、手配の費用は、治療をお受けするかとは分けてご相談したいです」


 私は対案の行を指した。


「空けておく時間にも費用がかかるなら、最初に決めて払います。その代わり、誰に会うかは、私が決めます」


 レオンさんは椅子の背へ体を預けた。


「その時間へ、もっと高い仕事を入れられたとしてもですか」

「はい」

「先生は、ご自分の価値を安く見すぎています」


 喉の奥が熱くなった。

 少し前なら、私もそう思っただろう。高いお代を頂くのが怖くて、最初から引いていたこともある。

 でも、今日ここへ持ってきたものは、働いた分を受け取らないという話ではなかった。


「私は、お代をいただきます。安く済ませればよいとも思っていません」


 私は椅子の縁を持つ手を、膝へ戻した。


「そのうえで、診たい方がいます」


 レオンさんが、小さく息を吐いた。


「困っている方を、もっと救いたいのでしょう。私に任せれば、先生は治すことに専念できます。こちらで選べば、部屋も維持できる。教える時間も取れる」


 隣のマリエラさんが、わずかに動いた。

 私は彼女を見ずに、レオンさんへ答えた。


「何を引き受けるかを決めることも、私の仕事です」


 同じ説明を、少しずつ違う言葉でしていた。

 もう一度言えば伝わるのか、相手は分かっていて違うものを望んでいるのか。私はそれを見極めようとしていた。


 ◇


 扉を叩く音がした。

 受付の人が、ユリアさんがお見えですと告げた。相談中だと伝えたが、今日中に私へ直接確かめたいことがあるという。


「お待ちいただきますか」


 私はレオンさんに、少し時間を頂くと伝えた。

 ユリアさんは入口のところで、私と彼の顔を見比べた。いつもの布包みではなく、折った紙を持っていた。


「エルゼが、もう来なくていいと言われたんです」


 私は立ち上がりかけて、机に手をついた。


「どういうことでしょうか」

「先生は、その額では診ないそうです。そう言われたと」


 部屋の窓が、急に遠くなった。

 聞き返す言葉が出なかった。

 エルゼさんは、私に手を見せてくださった。布を押さえる時の震えを話し、私は大市の日に改めて診ると答えた。治るとは約束していない。けれど、会うと約束した。

 お代も、私の通常の料金を伝えた。


「私は、お断りしていません」


 声が、自分でも驚くほど低くなった。

 ユリアさんは紙を机へ置いた。


「本人は、私が紹介したせいで先生にご迷惑を、と。私も、そんなはずはないと思って。エルゼに頼まれて、この返事を持ってきました」


 私は紙を開いた。

 面談の時刻が取り消されていた。別の機会を待つようにとある。そこに、私の承諾した返事は一文字もなかった。


「レオンさん」


 彼はすぐには目を合わせなかった。


「その時間は、別の方へご案内しました」

「私がエルゼさんを診ると、お伝えしていましたね」

「はい。ただ、こちらにはずっと条件のよいお話が」

「私が、その額では診ないと、伝えたのですか」


 彼が口を閉じた。

 私は待った。否定してほしいと思った。この紙は何かの行き違いで、すぐに直せると言ってほしかった。


「手配をする者へ、そう説明するよう伝えました」


 指先が冷たくなった。

 私は机の端から手を離した。


「私の返事として」

「結果としては、そうなります」

「結果ではありません。あなたが、そう言わせたのですね」


 レオンさんは、はい、と答えた。

 私はその一言を聞き終えてから、息を吸った。

 怒鳴りたいと思った。誰の名前を使ったのですか、と、紙を彼の前へ叩きつけたかった。

 けれど、その紙はエルゼさんのものだった。私を信じて来るつもりだった人が、断られた証に渡したものを、私の怒りでくしゃくしゃにしたくはなかった。

 私は紙を平らに置いた。


「代わりの方には、私が会うと約束したのですか」

「その時間を確保すると。手配のお金も、お受けしています」


 マリエラさんが、隣で息を止めた。


「私の承諾は、取っていませんね」

「先生に損をさせる話ではありません」


 私は彼を見た。

 さっきまで、分かってもらうために言葉を探していた。今は、言うことが一つに決まった。


「この提携を、終わりにします」


 ◇


「大市まで、あと何日かお分かりですか」


 レオンさんの声も低くなった。


「はい」

「ここは、私が押さえた部屋です。先生へ紹介するという条件で取った場所ですよ」


 私は窓際の机を見た。

 患者さんの肘を置く場所も、マリエラさんの立つ場所も、もう決めてあった。まだ誰も座っていない椅子を見て、胸の奥がひどく痛んだ。


「こちらも、使えなくなるのですね」

「契約を続けないなら。案内を出す場所も同じです。そこだけ残すのは、お断りします」


 彼の仕事がなくなれば、私の企画も元の形ではできない。

 分かっていたつもりだった。実際に言われると、足元が少し沈むようだった。

 また話し合えば。今回の一件を戻してもらえば。

 そう考えかけ、エルゼさんの紙を見た。

 私が面談を望んだ人を、私の名で追い返していた。もっと条件がよいからという理由で、私の返事まで売っていた。

 それを知っても、欲しかった部屋のために任せ続けるのか。


「使いません」


 私は答えた。


「すでにお願いして行われた告知などのお代は、確かめてお支払いします。ですが、私が承諾していない約束は、引き受けません。受け取ったお金については、あなたからご本人へ説明してください」

「そんなことをすれば、先生の評判も傷つきますよ」

「すでに、私がお断りしたことになっています」


 自分の声に、抑えきれない怒りが出た。


「私が会うと約束した方にです」


 レオンさんは黙った。

 私は案内の見本を自分のほうへ引かなかった。もう使わない紙だった。代わりに、自分が持ってきた対案を畳んだ。

 あの部屋は欲しかった。

 欲しかったまま、鞄を持った。


 ◇


 外へ出ると、通りの音が一度に戻った。

 ユリアさんへ、エルゼさんには自分から説明したいと伝えた。面談の約束を消すつもりはない。ただ、新しい場所は、まだ決まっていない。


「場所が見つかると、今すぐは言えません。でも、私がお断りしたのではないと、まずお伝えしたいです」


 ユリアさんはうなずいた。


「それを、本人に聞かせてください。あの人、あなたに嫌がられたと思っています」


 私は唇を噛んだ。

 知らなかったから仕方がなかったとは、思えなかった。自分の約束を、信じて待っていた人がいる。

 宿へ戻る道で、マリエラさんが鞄を持ち直した。


「先生。私の練習は、あとにしても」

「なくしません」


 強く言いすぎて、彼女を見た。


「すみません。まだ、方法は決まっていません。でも、あなたとした相談まで、なくすつもりはありません」


 彼女は黙ってうなずいた。

 宿の帳場には、別の方からの伝言があった。

 もう診てもらえないと聞いたので、確かめたいという。

 私は伝言を受け取り、鞄を床へ下ろした。

 部屋を失ったことを悲しむ時間さえ、先に片づけてはくれなかった。


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