第85話 先生の隣だけでは
「私も、治したいです」
マリエラさんは、机の紐を見たまま言った。
私はうなずきかけた。その先も聞かなければと思い、口を閉じて待った。
「先生の処置を見て、道具を片づけて、次の方へお声を掛ける。それも、必要な仕事なのは分かっています。でも、それだけ上手になっても」
彼女の指が、結びかけの輪から離れた。
「私のところへ、手を出してくださる人は、増えません」
私は、村でロルフさんが足を下ろした時を思い出した。
マリエラさんの手で糸が消えた。私が確かめ、本人がその変化を答えた。あれを一度きりの嬉しい出来事にしてよいとは、私も思っていなかった。
けれど、王都へ来てから、彼女に任せられることをどれだけ探しただろう。
私の診たい人へ会い、私の処置に付き添ってもらい、時間が残れば練習を見た。自分の仕事が増えたことを、二人の前進だと思っていた。
「一緒に来たかったのは、本当です。ユリアさんの指も、ダリオさんの処置も、見せていただけてよかったです」
彼女は慌てたように足した。
「嫌だったと言っているんじゃありません」
「はい」
「でも、先生が次も次も難しい方をお受けになったら、私は、ずっと横で見ているだけになります」
言い終えると、彼女は私を見た。
その顔を見て、やっと分かった。遠慮して口に出さなかった言葉は、口に出すまでなくならずに、彼女の中へたまっていたのだ。
私が急に失望するかもしれないと思いながら、それでも言ってくれた。
「気づいていませんでした」
私は手を膝へ下ろした。
「学べる場面が増えれば、それでよいと思っていました。あなたが担当する仕事を、私から尋ねていませんでした」
「私も、先に言えばよかったです」
「今、言ってくださってよかったです」
それだけでは足りなかった。
言ってよかったという返事だけして、明日も同じように荷物を預けるなら、彼女が今したことは何も変えられない。
◇
「レオンさんは、簡単なご相談は私にも、とおっしゃっていました」
マリエラさんが、昨日は話しきれなかったことを口にした。
私は顔を上げた。
「それは、レオンさんに決めていただくことでは」
「分かっています」
彼女の声が、少し強くなった。
私は言葉を止めた。
「でも、先生に、やってみたいと言う前から、私の代わりに断らないでください」
胸の奥へ、冷たいものが落ちた。
彼女を守りたかった。まだ難しい人を任され、怖くても助けを呼べないような場所へ行かせたくなかった。
その気持ちだけなら正しいと思っていたために、彼女が何を言おうとしているかを、また聞かずに決めかけた。
「すみません。先に、聞くべきでした」
マリエラさんは目を伏せ、息を吐いた。
「私、できないことは、できないと言います。そう教えていただきましたから」
「はい」
「けれど、できることがあるなら、私がしたいです」
彼女は、机の端に置いていた袋を引き寄せた。村で受け取った自分の報酬を、ほかの持ち物と分けてしまった時の手を、私は覚えていた。
「お代をいただいた時、怖かったです。次に先生がいなかったら、同じようにはできないと思いました」
「今は、私がいるところで結構です」
「はい。でも、先生がいらっしゃるところでも、次がなかったら」
そこで声が詰まった。
私は答えを急がなかった。マリエラさんは指で目の下を一度押さえ、少し怒ったように笑った。
「泣くつもりではなかったんです。もっと落ち着いて、お願いしたかったのに」
「落ち着いた声でなくても、聞けます」
私も、自分の声が揺れた。
彼女はうなずき、今度は袋から練習用の紐を出した。
「これなら、最初から最後まで、説明しながらできます」
ロルフさんの時に確かめた型だった。
私は隣へ移らず、向かいの椅子に座り直した。
「では、どこを確かめてから始めるか、教えてください」
◇
マリエラさんは結び目を作り、私へ見せた。
外へ出た端をたどる。交差が一つで、その先に別の絡まりがないことを確かめる。持ち替える前に、下を支えている指を残す。
言葉は途中で一度止まったが、手はむやみに動かなかった。
「今は、何を待っていますか」
「支えている指が、深すぎました。ここで抜くと、輪を一緒に押してしまいます」
彼女は指の腹を少し戻した。
私はトーマさんの、ゆっくりした手を思い出した。落とさないことに気を取られ、支えすぎていた彼女へ、隙間を一つ残すよう教えた手だった。
「トーマさんに直していただいたところですね」
「はい。先生の手を見ている時は、ただ細く動かせばいいと思っていました。でも、私の指では、同じところが隠れてしまって」
彼女は輪を持ち上げ、見える角度を変えた。
端が抜ける。普通の紐が机へ下り、結び目がなくなった。
マリエラさんはすぐ次を結び始めなかった。今の手順で、どこまでは自分でできると思うかを話した。
「返却は、まだできません。折り返しが重なっているものも、患者さんの糸で、自分だけで判別できるとは言えません」
「はい」
「この型でも、先生が先に診てくださって、途中も見ていてくださるなら。私は、担当したいです」
私はほどけた紐へ手を添えた。
「大市の日に、その範囲の方がいらしたら、ご本人へお尋ねしましょう」
彼女が顔を上げた。
「私が先に確かめます。あなたが説明して、ご本人が選んでくださったら、私の監督のもとで担当していただきます。私にしてほしいとおっしゃる時は、私がします」
「はい」
「途中で分からなくなったら、その場で止めてください。処置を始めたから、最後まで一人でしなければならないとは考えないで」
「……はい」
二度目の返事は、小さかった。
彼女は紐を両手で持ったまま、笑った。先ほど泣くまいとしていた顔より、今のほうが涙に近く見えた。
「私の名前も、言っていいですか」
「もちろんです。あなたが担当するのですから」
言ってから、私も笑った。
部屋を一つ借りれば生まれる仕事だと思っていた。それより前に、彼女へ渡さなければならない返事があった。
◇
その日のうちに、二人で次の面談の準備を変えた。
マリエラさんが説明することを、自分の言葉で書く。私も、監督をしながら別の患者さんの処置へ移らないことを確かめた。
受ける人数を増やすための分担ではなかった。まず一人を、途中で急がず診る。その時間を、予定から先に取り分けた。
「お代は、どうなりますか」
マリエラさんが尋ねた。
遠慮して、聞こえなかったことにしてほしいような声ではなかった。
「会場や道具に使う分と、私が監督する仕事の分を分けて、あなたが担当した分は、あなたへ。受ける前に、二人で決めておきましょう」
「はい。私は、それも、自分で知っておきたいです」
患者さんに示す料金を勝手に安くすることはしなかった。練習だからと、知らないうちに人の体を借りることもできない。誰が何をするかを説明し、納得していただいた仕事として受ける。
私は手帳へ書いた。
マリエラさんの名を、片づけや連絡の欄の横ではなく、処置を担当する欄へ置いた。
「先生は、あの部屋をどうなさりたいですか」
彼女が尋ねた。
私は窓へ目を向けた。ここから見えるのは、向かいの壁だった。レオンさんの部屋の、明るい机を思い出す。
「借りたいです」
答えると、胸が少し痛んだ。
「紹介もお願いしたいです。でも、診る相手を決めるところは、渡せません」
「私の仕事も、そこで選んでいただけますか」
「あなたと、ご本人に相談して。私だけで決めません」
彼女がうなずいた。
私は新しい紙を取り、レオンさんへの対案を書き始めた。会場を使う対価は払う。彼を通じて受けた紹介には、その働きの分を払う。人数と、診察後に誰が処置するかは、私たちが本人と決める。
何もかも自分でする、とは書かなかった。
私が頼みたいことは、まだたくさんあった。レオンさんが得意な仕事を、欲しいと思っていた。
「これなら、受けてくださるでしょうか」
マリエラさんが、紙の端を押さえた。
「分かりません。だから、話しに行きます」
私は書き終えた紙を読み返した。
昨日見た部屋へ、戻れるかもしれない。戻れないかもしれない。
どちらになるとしても、私の隣で学ぶ人が望んでいることを、今度は紙の外へ置かなかった。
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