第84話 続けたかった仕事
最初に出された帳面には、食事のことが書いてあった。
私は、そこを読み落としかけた。
宮廷から支払われた金の欄を目で追い、次の頁へ移ろうとした時、係の方が、同じ月の支出はこちらですと示してくださった。
机の向こうで、薄い紙が一枚開かれる。
町の教え場へ渡した分。紐と教材を補った分。学ぶ者の食事に使った分。
食事の人数の横に、私の家の名があった。
「これも、同じ家から支払われているのですね」
「はい。こちらの受取りの控えにも、記載があります」
係の方が、もう一冊を並べた。
片方に払ったとあり、片方に受け取ったとある。紙の色も、書いた人の字も違っていた。
私は手を膝へ戻してから、もう一度読んだ。
家の名の下で、誰かが食べていた。
それが意外だった。意外だと思ったことも、少し悔しかった。
閲覧を申し込む時、私は知りたいことを絞って伝えていた。宮廷へ入った人の立派な働きだけではなく、その収入で家が何を続けていたのか。町で教える日が、いつ減ったのか。
何でも自由に見せてもらえる場所ではない。用意されたものは、私の家と当時の教習に関わる記録のうち、閲覧を認められた部分だった。
それでも、私は初めて、名の横にある役目以外のものを見ていた。
「この頃は、宮廷の仕事のない日に、町へ戻っていたのですか」
「日付を合わせると、そのようです。こちらが授業の日の控えになります」
係の方は、分かることだけを答えた。
私も、そう書いていないことまで、紙に語らせないようにした。
宮廷から入った金のすべてが授業へ渡ったわけではなかった。家で使った分もある。弟子の人数も、いつも同じではない。
けれど、教える日と、食べるための支出は、何度も続いていた。
私は写しに残す箇所を、自分の紙へ控えた。
◇
次の記録は、学んでいた人が残した短い覚え書きだった。
日付のあとに、待った、とある。
私はその二文字を、しばらく見た。
「先生が宮廷より戻らず、次の教えは延ぶ」
声を出さずに読んだ。
その後ろには、習っていた図の続きがあった。結び目の場所を間違え、直した跡も残っている。
誰かが、次に教えてもらう日を待っていた。
村でマリエラさんが紐を持ち、私が片づけ終わるのを待っていた時と、同じように。
私は次の行へ目を移した。
代わりの人が見てくれた日もあった。ひと月のうちに、習える日が減っている。しばらく後には、教え場へ行ったが誰もいなかったと書かれていた。
「この方は、習うのをやめたのでしょうか」
尋ねると、係の方は首を横へ振った。
「この先を、この記録だけでは確かめられません」
「……そうですね」
自分のため息が、机に近く落ちた。
やめたに違いないと決めれば、かわいそうな人を一人作れる。続けたに違いないと思えば、今の私が少し楽になる。
どちらも、ここには書いていなかった。
私はその先を空けたまま、日付だけを控えた。
次の世代の記録では、宮廷で務める日が、家の年間の予定の真ん中へ入っていた。
最初の帳面には、町で教える日に宮廷の用が重なった、とあった。後の帳面には、宮廷の務めの合間に町へ出る、とある。
書いている人が替われば、言い方も替わる。それだけだと言うこともできた。
けれど、日数も変わっていた。
私は紙を並べ、記された授業の日を一つずつ確かめた。前の年にあった日がなくなり、その次には、教材を補う支出がなくなっていた。
食事の欄も、なくなった。
「教える仕事をやめるように、命じられたのでしょうか」
「お出しした範囲には、そのような命令は見当たりません。宮廷での常駐を求める取り決めは増えていますが」
係の方が、同じ時期の控えを示した。
家から伺える日を答え、それが次の期間の務めとして記されている。前より長い日を引き受け、家へ戻る日を動かしていた。
私はそこへ指を近づけ、紙に触れる前に止めた。
昨日の部屋を思い出した。
定まった日。続く収入。ここを守れるなら、あちらは少し減らしてもよいと思えるもの。
最初に引き受けた人は、教え場の食事をなくしたかったのだろうか。
少なくとも、初めの支出は、その答えを許さなかった。
◇
「少し、席を外してもよろしいですか」
声にすると、喉が乾いているのが分かった。
私は廊下へ出て、許された場所で水を飲んだ。窓の下に腰を下ろすと、膝の紙がかさりと鳴った。
守りたかったものがあったのだと思った。
教えに来る人が食べ、紐を使い、覚えるまで何度も失敗できる場所。宮廷から受け取った金が、実際にそれを支えていた。
そのために選んだ仕事が、やがて、教える仕事を休む理由になった。
休んでも次にできると思ったのかもしれない。誰かほかの人が続けると思ったのかもしれない。その気持ちまでは分からなかった。
最後に残ったのが、私に渡された役目だった。
私は、母の声を思い出した。
家のために。
何度も聞いた言葉の前に、今日は初めて、食事をした弟子の姿が浮かんだ。
それで、母を許せるようになるのかと思った。
ならなかった。
水の器を持つ指に、力が入った。
私が痛いと言った日に、母は、遠い昔の誰かの昼食を守っていたわけではない。私の体に起きていたことを知りながら、私に引き受けさせた。そこまで、この帳面に預けることはできなかった。
十年が必要だったとは、言いたくなかった。
たとえ、もっと古い人たちが何かを守ろうとしていたとしても。
私は器を置いた。
教えるために金を稼いだ人も、教えを待った人も、この家の名のそばにいた。それを知った今、家のすべてを同じ色で塗りつぶすことも、したくなかった。
悔しかった。
私が家伝を開いた時、なぜこんなことを誰も教えてくれなかったのだろう。身代わりになる以外にも、この手でしていた仕事があると。
知らなければ選べなかったことまで、私の弱さにされたくはなかった。
閲覧の部屋へ戻ると、係の方が顔を上げた。
「続けられますか」
「はい。写しをお願いしたい箇所を、決めました」
私は全部を求めなかった。
宮廷収入と教習への支出を合わせられる頁。授業の予定が減ったことを確かめられる箇所。常駐の取り決めが変わった記録。
弟子の覚え書きについては、許された部分の短い文を、自分で写した。
待った、とあるところで、一度だけ筆が止まった。
それから、次の図を習いたがっていた行まで、続けた。
◇
宿へ戻ると、マリエラさんは紐を結んでいた。
昨日の小さな机よりも狭いところへ、肘を寄せて座っている。彼女は私の足音で顔を上げ、結びかけを手に残した。
「見せていただけましたか」
「はい。知りたかったことが、一つ分かりました」
私は鞄を下ろし、向かいに座った。
宮廷の金で、授業に来る人の食事を出していたこと。務めが増えるにつれて、教える日が消えていったことを話した。
百年ほど前に町全体の教習収入が減ったことと、四十五年前にトーマさんの師匠が返却をやめたことは、同じ出来事ではない。家の記録で今日分かったのは、その長い変化の中で、私の家がどちらの仕事へ時間を寄せたかだった。
マリエラさんは紐を置き、最後まで聞いた。
「先生は、悲しかったですか」
「はい。……腹も立ちました」
彼女は驚かなかった。
私はそれがありがたかった。昔の人の事情が分かったなら、もう穏やかに話すべきだとは言われなかった。
「教えていたことを、もっと早く知りたかったです。できないと思っていたことが、多すぎました」
マリエラさんが、机の紐へ目を落とした。
「トーマさんは、今でも教えてくださいました」
「はい」
落とした紐を拾い直す、ゆっくりした手を思い出した。
あの手がなければ、マリエラさんは支える指の位置を変えられなかった。早くはなくても、目の前の人に渡せるものがあった。
私はレオンさんの提案を取り出した。
その紙を読めば、昨日より簡単に答えが出るとは思わなかった。部屋は今も欲しい。仕事を紹介してもらうことも、助かる。
ただ、そこで何を続けたいかを聞かずに、部屋だけ選びたくはなかった。
「マリエラさん」
彼女が顔を上げた。
「あなたが欲しいのは、あの部屋で、何ができることですか」
結びかけの紐へ伸びた彼女の手が、止まった。
私は次の言葉を足さなかった。
私の用意した答えへ、うなずいてもらうための問いにはしたくなかった。
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