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聖女様がいらしたので、身代わりはもう不要だそうです。では、十年分の呪いをお返ししますね。  作者: 堀吉 蔵人
第3部

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第84話 続けたかった仕事

 

 最初に出された帳面には、食事のことが書いてあった。

 私は、そこを読み落としかけた。

 宮廷から支払われた金の欄を目で追い、次の頁へ移ろうとした時、係の方が、同じ月の支出はこちらですと示してくださった。

 机の向こうで、薄い紙が一枚開かれる。

 町の教え場へ渡した分。紐と教材を補った分。学ぶ者の食事に使った分。

 食事の人数の横に、私の家の名があった。


「これも、同じ家から支払われているのですね」

「はい。こちらの受取りの控えにも、記載があります」


 係の方が、もう一冊を並べた。

 片方に払ったとあり、片方に受け取ったとある。紙の色も、書いた人の字も違っていた。

 私は手を膝へ戻してから、もう一度読んだ。

 家の名の下で、誰かが食べていた。

 それが意外だった。意外だと思ったことも、少し悔しかった。


 閲覧を申し込む時、私は知りたいことを絞って伝えていた。宮廷へ入った人の立派な働きだけではなく、その収入で家が何を続けていたのか。町で教える日が、いつ減ったのか。

 何でも自由に見せてもらえる場所ではない。用意されたものは、私の家と当時の教習に関わる記録のうち、閲覧を認められた部分だった。

 それでも、私は初めて、名の横にある役目以外のものを見ていた。


「この頃は、宮廷の仕事のない日に、町へ戻っていたのですか」

「日付を合わせると、そのようです。こちらが授業の日の控えになります」


 係の方は、分かることだけを答えた。

 私も、そう書いていないことまで、紙に語らせないようにした。

 宮廷から入った金のすべてが授業へ渡ったわけではなかった。家で使った分もある。弟子の人数も、いつも同じではない。

 けれど、教える日と、食べるための支出は、何度も続いていた。

 私は写しに残す箇所を、自分の紙へ控えた。


 ◇


 次の記録は、学んでいた人が残した短い覚え書きだった。

 日付のあとに、待った、とある。

 私はその二文字を、しばらく見た。


「先生が宮廷より戻らず、次の教えは延ぶ」


 声を出さずに読んだ。

 その後ろには、習っていた図の続きがあった。結び目の場所を間違え、直した跡も残っている。

 誰かが、次に教えてもらう日を待っていた。

 村でマリエラさんが紐を持ち、私が片づけ終わるのを待っていた時と、同じように。

 私は次の行へ目を移した。

 代わりの人が見てくれた日もあった。ひと月のうちに、習える日が減っている。しばらく後には、教え場へ行ったが誰もいなかったと書かれていた。


「この方は、習うのをやめたのでしょうか」


 尋ねると、係の方は首を横へ振った。


「この先を、この記録だけでは確かめられません」

「……そうですね」


 自分のため息が、机に近く落ちた。

 やめたに違いないと決めれば、かわいそうな人を一人作れる。続けたに違いないと思えば、今の私が少し楽になる。

 どちらも、ここには書いていなかった。

 私はその先を空けたまま、日付だけを控えた。


 次の世代の記録では、宮廷で務める日が、家の年間の予定の真ん中へ入っていた。

 最初の帳面には、町で教える日に宮廷の用が重なった、とあった。後の帳面には、宮廷の務めの合間に町へ出る、とある。

 書いている人が替われば、言い方も替わる。それだけだと言うこともできた。

 けれど、日数も変わっていた。

 私は紙を並べ、記された授業の日を一つずつ確かめた。前の年にあった日がなくなり、その次には、教材を補う支出がなくなっていた。

 食事の欄も、なくなった。


「教える仕事をやめるように、命じられたのでしょうか」

「お出しした範囲には、そのような命令は見当たりません。宮廷での常駐を求める取り決めは増えていますが」


 係の方が、同じ時期の控えを示した。

 家から伺える日を答え、それが次の期間の務めとして記されている。前より長い日を引き受け、家へ戻る日を動かしていた。

 私はそこへ指を近づけ、紙に触れる前に止めた。

 昨日の部屋を思い出した。

 定まった日。続く収入。ここを守れるなら、あちらは少し減らしてもよいと思えるもの。

 最初に引き受けた人は、教え場の食事をなくしたかったのだろうか。

 少なくとも、初めの支出は、その答えを許さなかった。


 ◇


「少し、席を外してもよろしいですか」


 声にすると、喉が乾いているのが分かった。

 私は廊下へ出て、許された場所で水を飲んだ。窓の下に腰を下ろすと、膝の紙がかさりと鳴った。

 守りたかったものがあったのだと思った。

 教えに来る人が食べ、紐を使い、覚えるまで何度も失敗できる場所。宮廷から受け取った金が、実際にそれを支えていた。

 そのために選んだ仕事が、やがて、教える仕事を休む理由になった。

 休んでも次にできると思ったのかもしれない。誰かほかの人が続けると思ったのかもしれない。その気持ちまでは分からなかった。

 最後に残ったのが、私に渡された役目だった。


 私は、母の声を思い出した。

 家のために。

 何度も聞いた言葉の前に、今日は初めて、食事をした弟子の姿が浮かんだ。

 それで、母を許せるようになるのかと思った。

 ならなかった。

 水の器を持つ指に、力が入った。

 私が痛いと言った日に、母は、遠い昔の誰かの昼食を守っていたわけではない。私の体に起きていたことを知りながら、私に引き受けさせた。そこまで、この帳面に預けることはできなかった。

 十年が必要だったとは、言いたくなかった。

 たとえ、もっと古い人たちが何かを守ろうとしていたとしても。


 私は器を置いた。

 教えるために金を稼いだ人も、教えを待った人も、この家の名のそばにいた。それを知った今、家のすべてを同じ色で塗りつぶすことも、したくなかった。

 悔しかった。

 私が家伝を開いた時、なぜこんなことを誰も教えてくれなかったのだろう。身代わりになる以外にも、この手でしていた仕事があると。

 知らなければ選べなかったことまで、私の弱さにされたくはなかった。


 閲覧の部屋へ戻ると、係の方が顔を上げた。


「続けられますか」

「はい。写しをお願いしたい箇所を、決めました」


 私は全部を求めなかった。

 宮廷収入と教習への支出を合わせられる頁。授業の予定が減ったことを確かめられる箇所。常駐の取り決めが変わった記録。

 弟子の覚え書きについては、許された部分の短い文を、自分で写した。

 待った、とあるところで、一度だけ筆が止まった。

 それから、次の図を習いたがっていた行まで、続けた。


 ◇


 宿へ戻ると、マリエラさんは紐を結んでいた。

 昨日の小さな机よりも狭いところへ、肘を寄せて座っている。彼女は私の足音で顔を上げ、結びかけを手に残した。


「見せていただけましたか」

「はい。知りたかったことが、一つ分かりました」


 私は鞄を下ろし、向かいに座った。

 宮廷の金で、授業に来る人の食事を出していたこと。務めが増えるにつれて、教える日が消えていったことを話した。

 百年ほど前に町全体の教習収入が減ったことと、四十五年前にトーマさんの師匠が返却をやめたことは、同じ出来事ではない。家の記録で今日分かったのは、その長い変化の中で、私の家がどちらの仕事へ時間を寄せたかだった。

 マリエラさんは紐を置き、最後まで聞いた。


「先生は、悲しかったですか」

「はい。……腹も立ちました」


 彼女は驚かなかった。

 私はそれがありがたかった。昔の人の事情が分かったなら、もう穏やかに話すべきだとは言われなかった。


「教えていたことを、もっと早く知りたかったです。できないと思っていたことが、多すぎました」


 マリエラさんが、机の紐へ目を落とした。


「トーマさんは、今でも教えてくださいました」

「はい」


 落とした紐を拾い直す、ゆっくりした手を思い出した。

 あの手がなければ、マリエラさんは支える指の位置を変えられなかった。早くはなくても、目の前の人に渡せるものがあった。

 私はレオンさんの提案を取り出した。

 その紙を読めば、昨日より簡単に答えが出るとは思わなかった。部屋は今も欲しい。仕事を紹介してもらうことも、助かる。

 ただ、そこで何を続けたいかを聞かずに、部屋だけ選びたくはなかった。


「マリエラさん」


 彼女が顔を上げた。


「あなたが欲しいのは、あの部屋で、何ができることですか」


 結びかけの紐へ伸びた彼女の手が、止まった。

 私は次の言葉を足さなかった。

 私の用意した答えへ、うなずいてもらうための問いにはしたくなかった。


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