第83話 私が開く日の部屋
窓の下に、机が二つあった。
片方は患者さんと向かい合って座るためのもの。もう片方には、清潔な布を置く棚がついていた。入口から窓まで歩いても、椅子に膝が当たらない。
王都へ戻ってきた翌朝、私は鞄を持ったまま、その広さを確かめていた。
前の滞在を終えてミルデへ戻り、普段の仕事をしながら一週間余り過ごした。その間に、レオンさんが整えてくださった部屋だった。蹄鉄亭で休む日を挟んでも、大市までにはまだ準備の時間がある。そう思って来たのに、部屋を見た途端、早くここで誰かを迎えたくなった。
「窓は、この向きでよかったでしょうか」
レオンさんが鎧戸を開いた。
手元へ光が落ちる。私は思わず、机の端へ指を置いた。
「はい。とても」
返事が短くなった。
窓際ばかりが明るいのではなかった。向かいに座る方の顔も、眩しさでしかめずに見られる。入口の横には、肘を休められる椅子があった。
「お待ちの方はこちらへ。廊下から診察中の様子は見えません。声も、扉を閉めれば聞き取りにくくなります」
彼は実際に扉を閉じ、外から短く声を掛けた。
何かを言っているのは分かったが、言葉までは届かなかった。戻ってきた彼へ、私はうなずいた。
「こちらの机を、もう少し壁から離していただけますか。患者さんのお手の、反対側へ回れるように」
「これくらいですか」
「あと、少しだけ」
マリエラさんも鞄を下ろし、椅子を動かしてくれた。
私は座り、机へ右手を載せる。マリエラさんが向かいに腰を下ろすと、互いの膝を気にせず手を伸ばせた。
「先生。横にも立てます」
彼女が椅子を離れ、私の右へ回った。
私は笑った。椅子を退けなくても、教える人と習う人が並べる。そのための場所が最初からあることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
「大市の日には、こちらへ私の名前を出していただくのですね」
「ええ。前の通りにも案内を置きます」
レオンさんは見本の紙を広げた。
私の名が、思ったより大きな字で書かれていた。その下には診療の日と、予約が必要なことがある。
私は紙を持ち上げた。
母の名の下でも、王宮の役目の下でもなかった。自分からやりたいと言った仕事が、この紙になっていた。
「ここは、直していただけますか」
私は『呪いの処置』と書かれた行を示した。
「まず面談と診察をします。お会いしたその日に、必ず処置まで終わるという意味にはしたくありません」
「では、『ご相談と診察。処置は診察後に決定』で」
「はい。それなら」
彼の筆は早かった。私が迷っている箇所も、読み手にどう伝わるかを二つの言い方で示してくれる。
棚の一段へ、持ってきた布を試しに置いてみた。鞄の底を探さず、座ったまま取れる。水を置くところも、記録を書くところも、互いの邪魔にならなかった。私は布を取り出し、もう一度戻した。
「ここなら、処置の途中で道具を取りに立たなくて済みますね」
マリエラさんが言う。私はうなずいた。終わってから急いで片づけなくても、患者さんに休んでいただける椅子が残る。まだ誰もいないのに、そこへ人を迎える様子が次々に浮かんだ。
自分一人なら、机を借りる相手を探すだけで何日も使っただろう。こういう人と仕事ができてよかった。私はその時、本当にそう思っていた。
◇
「この部屋は、大市のあとも押さえられます」
案内の見本を戻すと、レオンさんが別の紙を出した。
前に伺っていた、本格的に組むための提案だった。
「先生が王都へいらっしゃる日を先に決めていただく。そこへ私が依頼を集めます。毎回、場所を探す必要がなくなりますし、お代の見込みも立ちます」
紙には、部屋を使う日と、彼が受け取る紹介の対価が分けてあった。
私は上から読んだ。以前のような紛らわしい表示はなかった。会場を維持する費用も、連絡を引き受ける人の働きも、ただではない。
ここを使える日が毎月ある。
ミルデで過ごす日を先に残し、そのほかの日に、必要な方へ来ていただける。次にいつ仕事があるかと、看板の前で足を止める人を待たなくてもよい。
それは、欲しいと思ってはいけないものではなかった。
「こちらの、承認というのは」
私は下の行へ指を移した。
「先生へ直接ご相談があった場合です。私が手配する日程へ影響するので、先に知らせていただき、受けるかを決めます」
「知らせるだけではなく、レオンさんが決めるのですか」
「私の管理する日の枠は、そうなります」
私はもう一度、その行を読んだ。
窓から来る風が、紙の隅を浮かせた。押さえようとして、机の広さをまた意識した。
「私が診たいと思った方でも、ですか」
「お断りする場合はあります。限られた時間ですから。空けたままにすることも、よりよいお話のためには必要です」
レオンさんは、悪いことを隠すようには言わなかった。
どんな仕事にも、採るものと採らないものがある。私も難しい処置をその日に無理に受けないし、休みを全部なくしているわけではない。
けれど、この紙では、私が誰に会うかを、彼の返事が決めることになる。
「ダリオさんが、直接ご相談くださったような時も」
「同じです。紹介の窓口が増えすぎると、先生ご自身も困られますよ」
窓の外で、荷車の車輪が鳴った。
私は、ダリオさんが治療のお代を自分の手で渡してくださった時を思い出した。次は直接尋ねてもよいか。その問いに、私ははいと答えていた。
もう一人、ユリアさんから紹介されたエルゼさんの顔も浮かんだ。
会って診るという約束をする時、誰かの許しを取るつもりではなかった。
「持ち帰って、考えさせてください」
すぐ断れなかった。
紙から顔を上げると、マリエラさんは隅の小さな机を見ていた。紐を広げれば、道具を片づけず練習できる机だった。
「マリエラさんは、どう思いますか」
私が尋ねると、彼女は少し間を置いた。
「ここで、毎回、教えていただけるなら。私は、嬉しいです」
私は、でも、と口を開きかけた。
彼女は私の顔を見て、続ける言葉を止めた。
先に意見を尋ねたのは、私だった。返事を聞いた途端、間違いを教えるように遮ろうとしていた。
「……帰ってから、続きを聞かせていただけますか」
「はい」
レオンさんは急がせなかった。ただ、部屋の手配を続けるなら、長く保留にはできないと伝えた。
私は回答する日を決め、提案の紙を鞄に入れた。大市の今回の準備は、これまで決めた範囲で進める。その確認をしてから、椅子を元の位置へ戻そうとした。
「そのままで結構です」
彼が言った。
「先生がお使いになる配置ですから」
私は椅子の背から、ゆっくり手を離した。
◇
帰りの通りで、私たちはしばらく黙って歩いた。
道の脇には、大市に出す品の箱が積まれていた。人がすれ違うたび、マリエラさんが鞄を体へ寄せる。
「私は、あの部屋が欲しかったです」
口にしてから、喉が熱くなった。
あの場所が私のものになればと思った。私が椅子を動かし、窓を開け、次の方を迎える。それを、毎回できるならと。
「だから、あの条件が嫌だったのでしょうか」
自分でも、誰への問いか分からなかった。
マリエラさんが足を緩めた。
「先生が欲しくなかったら、考えなくても済んだんだと思います」
「はい」
「でも、私は、先生に全部断ってほしいわけではありません」
私は彼女を見た。
薄緑の髪紐の端が、肩のところで揺れていた。
「私、あそこに座っている自分を考えたんです。先生のお荷物を置く人でなくて」
荷物を置く人。
そんなふうに思わせていたのかと、胸が縮んだ。違いますと言いかけたが、彼女の声には、私を責めるだけではない強さがあった。
「その続きを、きちんと聞きたいです」
「私も、ちゃんと言えるようにします」
宿へ戻ると、帳場に私宛ての知らせが届いていた。
家の古い記録について、申し込んであった閲覧の日時が決まったという。明日の午前だった。
私は紙を読み、鞄から自分の控えを出した。
宮廷の務めと、町の授業。同じ時期の収入と支出。村で確かめられなかった問いを、まだ残してある。
レオンさんの提案を、その隣へ置いた。
広い部屋の光を思い出す。あそこへ、自分の名前を出したかった。今も出したい。
私は控えを畳み直し、明日持っていくものの上に載せた。昔の人がどんな間違いをしたかを探すためだけなら、こんなに早く朝になってほしいとは思わなかっただろう。
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