第82話 私を通さなくても
約束した部屋の戸には、鍵が掛かっていた。
私は、階段の下でもう一度場所を尋ねた。帳場にいた方は控えを開き、首を傾けた。
「こちらでは、午後の貸し出しと伺っています」
「私どもは、この時刻のお約束です」
鞄から紙を出すと、書かれていた部屋は同じだった。けれど、帳場の控えでは時刻が違っていた。
ダリオさんは、すでに着いていた。
片腕に、厚い古帳面を抱えている。その角が外套へ当たり、布に小さな跡をつけていた。
「先生、場所を変えますか」
私は答えかけ、立ち止まった。
ほかの場所へすぐ移れるとは限らない。立会いを頼んだ方も、ここへ来る約束だった。
レオンさんがいれば、いま誰へ話すかを知っていただろう。彼の名を呼びかけそうになり、私は帳場の方を見た。
「お部屋の持ち主へ、今、お確かめいただくことはできますか。先に荷を入れず、お返事を待ちます」
マリエラさんが、私の横へ来た。
「立会いの方がいらしたら、私がこちらでお待ちするようお伝えします」
「お願いします」
ダリオさんは帳場へ寄り、部屋の持ち主が自分も知る人だと告げた。勝手に鍵を借りるのではなく、連絡を取れる場所を教えてくれた。
私は、抱えている帳面を一度置いてはと声を掛けた。
彼は、ようやく脇の長椅子へ下ろした。
「濡らすのが嫌で、包みを外さず持ってくるつもりでした。それが、出る前に慌ててしまって」
帳面の表紙を撫でる。
私も、今日はよい状態で仕事を始めたかった。戸の前で待たせることになったのが悔しかったが、謝るばかりでは鍵は開かなかった。
マリエラさんへ、戻ってくる連絡を私にも知らせてほしいと頼んだ。
ほどなく、持ち主から返事が来た。
時刻の変更が帳場の控えへ移っていなかったという。部屋は空いており、すぐ使ってよいとのことだった。鍵を持った方が階段を上がり、私たちを通してくれた。
故意に締め出されたのではなかった。
それでも、次は手配を頼んだあと、当日の受け取り先まで確かめようと、私は覚えた。
部屋へ入ると、窓際の机が少し低かった。
布を重ね、ダリオさんに座っていただいて高さを合わせる。マリエラさんが立会人を案内してくる頃には、私も、もう戸の鍵のことを考えていなかった。
◇
処置に同席するのは、ダリオさんが了承した人だけだった。
立会人は、前後のご本人の状態を記録する。糸については、私から聞いた説明として記すことを、初めに確かめた。マリエラさんは机の端で控えを取り、水を用意していた。
私は、顔の向きと明かりを確かめた。
「今日も、返却をご希望で変わりませんか」
「はい。お願いします」
ダリオさんは、古帳面を横の台へ置いた。
表紙を開くのはあとにして、私へ顔を向ける。
「糸の言葉は、『手元の字を見る目が霞め』。送り主は、ルカス。前回と同じです」
彼はうなずいた。
立会人の持つ短い書面で、手元の文字が読みにくい状態を確かめた。彼は途中で眉を寄せ、首を振った。長く試し続けず、紙を離してもらった。
「始めます。お顔を動かしたくなった時には、お知らせください」
私は目元の糸へ手を伸ばした。
まぶたを押さえるのではない。そこへ渡っている糸の、外へ出た輪を支える。ダリオさんには楽な姿勢を保ってもらい、私は指先の重なりを見た。
右から左へ渡った部分の下に、交差が残っている。
解く時なら、ここから端を抜いて輪を開く。今日は抜かなかった。
交差を支えたまま、折れた部分をこちらへ向けた。細い糸が指に沿い、その下の結び目が現れる。
ダリオさんの唇が動いた。
声にはならず、閉じられた。
「姿勢は、いかがですか」
「大丈夫です」
返事を聞いてから、指を替えた。
外へ向いていた輪を内へ送り、結びを壊さずに向きを変える。引けば早いと思う場所で、引かなかった。今ある形が保たれていることを、次の動きへ進むたびに確かめた。
部屋には、紙を押さえる小さな音だけがあった。
最後の重なりが返った。
ダリオさんの目元から、糸が離れる。
私は顔の両側を確かめ、残りがないことを見届けてから手を下ろした。
「返却の処置を終えました」
ダリオさんは、すぐに帳面を取らなかった。
机の模様を見て、窓を見て、それから私へ視線を戻した。
「先生のお顔は、さっきと同じです」
「はい。遠くのものは、もともと見えていらっしゃいましたね」
彼は小さく笑った。
「そうでした。何を確かめればよいか、分からなくなって」
私は、少し休んでから手元の文字を見ていただくと話した。
送り主の今の様子は、この部屋からは見えなかった。
いま目の前で確かめられるのは、ダリオさんの糸が離れたことと、彼がこれから見るものだった。
◇
休んだあと、立会人が同じ書面を机へ置いた。
ダリオさんが目を下ろした。
先ほど読めずに止まったところを、今度は通り過ぎた。
声を出してよいかと尋ねられたので、記録に残す短い一節だけをお願いした。
彼は読んだ。
途中で止まらず、最後まで。
「今、読めました」
そう言ってから、自分で笑った。
「声に出しましたね。皆さんも、お聞きでしたね」
立会人がうなずいた。
マリエラさんも、はいと答えた。
私は目の違和感や疲れを伺い、無理を感じたら知らせていただくよう伝えた。長い仕事へすぐ戻すための試験ではなかった。
ダリオさんは、横の台から古帳面を取った。
「こちらも、少しだけ」
許しを求めるような声だった。
私は、短いところをと答えた。
彼は、真ん中より少し前を開いた。角を折った頁だった。
文字を目で追い始める。
私は読まなかった。彼が選んだ頁は、私へ見せるためのものではなかった。
「ひどい字だ」
ダリオさんが言った。
肩が揺れた。
「急いで書いたんです。初めて、自分で値を決めて買えた荷で。忘れる前に残そうと思って」
指が紙の上を動いた。
「ここ。船の名を間違えて、上から直している。そうでした、あの日は」
途中で声がなくなった。
彼は片手で目元を覆いかけ、触れずに下ろした。涙が一粒、頬へ落ちた。
「私の字です」
誰も、その言葉を訂正しなかった。
私は、膝の上で自分の指を揃えた。
目が治れば商人へ戻れる、というだけではなかった。この方は、自分が仕事をしてきた頁を、自分で読みたかった。
ダリオさんは手巾を出し、顔を拭った。
「今日は、ここまでにします。続きは、家で読みます」
帳面を閉じる手は、まだ少し震えていた。けれど、閉じたくないのを誰かに取り上げられた手ではなかった。
◇
約束のお代を受け取り、処置の控えを渡した。
会場と手配に払う分も、先に分けて決めたとおりにした。この一件で必要な費用を引いても、私の技術と、マリエラさんに手伝ってもらった仕事へ、対価が残った。
ダリオさんは控えを受け取り、自分で読んだ。
「次に、診ていただきたい人ができたら、先生へ直接ご相談してもよろしいですか」
私は顔を上げた。
「レオンさんを通さなくても、ということです」
「はい。ご本人が望まれるご相談でしたら、私へお知らせください。お受けできるかは、内容と時期を伺ってお返事いたします」
彼は控えの裏へ、私が伝えた連絡先を書き留めた。
自分で書いた字を、自分で確かめる。その動作を、私は見ていた。
「私は、先生に診ていただきたいんです。部屋を借りる人を探しているのではなくて」
言われて、胸が熱くなった。
レオンさんの紹介が役に立ったことは消えない。それでも、次に頼みたい相手として呼ばれたのは、私だった。
数日後、帰りの支度をする頃、ダリオさんから知らせがあった。
本人の了解した範囲で読んでほしいと添えられ、ルカスさんが手元の字を読めないと申し立て、公の窓口へ連絡してきたことが書かれていた。相手からダリオさんへの連絡も、相談していた窓口を通して受けるという。
私の処置で相手の態度まで変わったわけではなかった。
便りの最後には、古帳面を毎日少しずつ読み返しているとあった。私は、その一行を読んでもう一度笑った。
レオンさんが訪ねてきたのは、同じ日の午後だった。
部屋の時刻が行き違った件を詫び、次の手配では連絡先も揃えると話した。私も、こちらで確認する人を決めると答えた。
彼は、別の紙を机へ置いた。
「大市の日に、先生専用で使える部屋があります。明るくて、待つ方の場所も別です。今後の紹介までまとめてお任せいただければ、ずっと組みやすくなります」
紙には、窓と机の位置が描かれていた。
マリエラさんが横から覗き、広いですねと言った。
私は、次に王都へ来たら見せていただきたいと答えた。今回の仕事を終えたら、一度ミルデへ帰る。約束した休みも、帰ってからの仕事もある。
それでも、大市の日に自分が開く部屋のことを、もう考え始めていた。
図の中の机へ指を置いた。
ここへ患者を迎えたいと、私は思った。
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