第81話 返したい理由
「同じ目に遭ってほしいんです」
ダリオさんは、椅子へ座るより先に言った。
私は机の向こうで立ったまま、その言葉を聞いた。
前回、三本の筆が並んでいた部屋ではなかった。彼が人目を気にせず相談できるよう、レオンさんの手配した別室へ来ていた。
ダリオさんは帽子を取り、握っていた縁を伸ばした。
「考えてから参りました。考えれば、もう少し立派な理由を申し上げられると思っていました。でも、やはり、それがいちばん先にあります」
私は椅子を勧めた。
マリエラさんが水を置き、必要なら外で待つと告げた。ダリオさんは、今回は聞いていてほしいと答えた。レオンさんには、最後に決めたことを自分から伝えたいという。
私は、彼の目元をもう一度診た。
糸の言葉も、送り主の名も、変わっていなかった。確認したことを伝えると、ダリオさんは目を閉じずにうなずいた。
「ルカスにも、読めなくなってほしい。人に一枚ずつ読んでもらって、同じところをもう一度と言うたび、相手が溜め息をつくのを聞けばいい」
彼は帽子を膝へ下ろした。
「仕事をしている顔で机へ座って、何も分からないまま待つのが、どんなものか」
そこまで言い、唇を押さえた。
私の表情を見ようとして、手を下ろす。
「そういう理由では、先生に頼めませんか」
私は、少し息を吸った。
「何を感じるべきかを、私が決めることはできません。お引き受けする時には、どういう処置かをお分かりいただく必要がございます」
ダリオさんは、背筋を伸ばした。
「返却で戻るのは、今ある言葉と同じ作用です。苦しみを増やしたり、相手が謝るまで続くように変えたりはいたしません」
「はい」
「返ったあとで、その方が解呪を頼むこともあります。私にご依頼があれば、私はそれを診ます」
彼の眉が動いた。
目を伏せ、膝の帽子を見た。
すぐに分かりましたとは言わなかった。
「では、あの男は、私よりずっと短い時間で治るかもしれない」
「その可能性はございます」
ダリオさんは、椅子の肘掛けへ手を置いた。
顔を背け、窓の白い光を見ていた。
「ずるいですね」
私は返事を急がなかった。
「私に、何度も同じ字を読み直させた人が。自分は、すぐに人を呼べる」
膝の帽子が滑った。
マリエラさんが手を伸ばすより先に、彼が拾った。床へ落とさずに済んだのに、しばらく顔を上げなかった。
◇
ダリオさんは、鞄から一通の書面を出した。
私へ読むよう勧めるのではなく、自分の前へ置いた。
「昨日、別の者に読んでもらいました。私が署名したものです」
私は黙って聞いた。
「その方が、途中で読み直してくださった。私が尋ねる前にです。今の部分は分かりにくいからと。それだけで、私は」
彼は笑おうとして、失敗した。
「泣きそうになりました。何をしているんだと思いましたよ。客の前で金額を争ってきた男が、紙を読んでもらったくらいで」
指が、自分の署名へ触れた。
見えにくくても、どこにあるかは教えてもらっていたらしかった。
「ルカスが言っていた条件と、違う箇所がありました。全部、わざとだと決めつけるには、まだ足りません。それは別に確かめてもらいます。ただ、私は何に署名したのかを、自分で知らなかった」
彼は、今度は笑わなかった。
「無知な私を助けてくれる人に、礼を言っていたんです。こちらの目を曇らせた人に」
最後の言葉が、硬くなった。
私の腹の底にも、熱いものが生まれた。
代わりに怒って説明してあげることはできたかもしれない。けれど、目の前の方は、いま自分で言っていた。その言葉を私のものへ変えたくなかった。
「何もしないで解くだけにしたら、また顔を見て、うなずいてしまいそうで怖い。大ごとにしないでくれて助かったと、あちらから言われる気がするんです」
ダリオさんは、書面を鞄へ戻した。
「でも、返して苦しむところが見たいと思っているのも、本当です。そんなことを望む自分が、嫌でもあります」
私は、机の布の端を一度撫でた。
ゲルトさんが治った右手で紙をめくり、言うことを聞けば済んだと話した姿が浮かんだ。私はあの時、腹を立てていた。治したあとにも、その気持ちは消えなかった。
「私も、治した方へ腹を立てたことがございます」
ダリオさんがこちらを見た。
「処置の間は、長く苦しませるようなことはいたしませんでした。でも、終えたら許せた、ということでもありません」
私は手を布から下ろした。
「今日ここで、お怒りをなくしてから頼んでくださいとは、申しません」
彼は目を閉じた。
何度か呼吸をしてから開いた。
「それを聞きたかったのかもしれません。私は怒っていますと、言ってよかったのか」
私は、はいと答えた。
彼は水を取り、少し飲んだ。椀を置く手は、先ほどよりゆっくりだった。
◇
ダリオさんは、必要な相談を済ませていた。
共同の商いで急ぎ扱う書面は、別の信用できる者に確かめてもらう。ルカスさんとの連絡は一人で受けず、争いについては公の窓口へ話をしている。身の安全も含め、直接会う必要がある時には同席を頼んだという。
私の処置の記録は、ご本人が認めた範囲で窓口へ出す。
その確認が済むと、彼は帽子を机へ置いた。
「返してください」
今度は、椅子から立たなかった。
「あとでルカスが治療を受けるのを、先生に止めてほしいとは言いません。どれだけ困るか、ここで見張っていたいとも言いません」
指が帽子の縁を離れた。
「でも、私が持たされていたものを、その人へ返したい。私の目だから、私が耐えれば済むと扱われたままには、したくありません」
私は処置の依頼を受けた。
返却を行う部屋と、立会いを望む方について話した。公の窓口へ出すための記録が必要なら、初めから分けて残す。見物のために人を集める話にはしなかった。
マリエラさんは、私が伺った希望を控えていた。
彼女へ処置を任せるのではないことも、ダリオさんへお伝えした。彼は、先生がお手を動かす間のことを頼めるなら助かると答えた。
部屋の空きと私の予定が合う時間を選び、処置の日が決まった。
私は戸口へ出て、レオンさんを呼んだ。
「返却にします」
ダリオさんは、彼が座る前に伝えた。
レオンさんの足が、一度止まった。
「共同の商いへ、影響が出るかもしれません」
「考えました」
「取引先は、どちらに理由があっても、揉めているところを避けます。その損は」
「それも考えて、自分で決めました」
ダリオさんは、レオンさんを見上げていた。
私へ助けを求めるようには、目を動かさなかった。
「私の損を心配してくださるのは、ありがたい。ですが、今まで損をしていなかったわけではありません」
レオンさんは、唇を結んだ。
窓の外を一度見てから、椅子へ座った。
「承知しました。私から止めることではありません」
声には、納得しきれないものが残っていた。
それでも、解呪へ書き替えるとは言わなかった。手配する部屋と時刻を確かめ、立会人への連絡を誰がするかを、ダリオさんへ尋ねた。
「その方へは、私から頼みます」
ダリオさんが答えた。
レオンさんは、その欄を空けた。
◇
話を終えると、ダリオさんが私を呼び止めた。
「治ったら、まず、あの書面を読もうと思っていました」
鞄の口へ手を置く。
「ですが、帰って考えたら、それより前に読みたいものがありました。昔の仕入れの帳面です。自分でつけていた頃の」
少し照れたように笑った。
「字が汚くて、人に読んでもらうのは恥ずかしい。あれを、また自分で読めたらと思います」
「お持ちになれる大きさでしたら、当日どうぞ」
彼は、必ず、と答えた。
前回は三本の筆があっても触らなかった人が、帰る時には、自分の帳面の厚さを手で示していた。
私は戸口まで見送った。
レオンさんは、反対側の窓辺で外套を着ていた。
「当日は、私は立ち会いません」
彼が言った。
「ご本人の選択には、口を挟まないと申し上げました。必要な部屋の連絡はします。そのあとは、先生方でお願いします」
私はうなずいた。
彼が来ないことだけで、約束を破ったとは思わなかった。本人の希望した方がいて、私が処置をする。それで足りるように、こちらでも確かめる必要があった。
マリエラさんが、控えの紙を持って隣へ来た。
「私は、着いた方をお迎えします。先生は、先に机を見てください」
「お願いします」
私は次の仕事の時刻を、手帳へ書いた。
その下へ、ダリオさんが自分の帳面を持ってくる、と一行足した。
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