第80話 お金で決まらない返事
ダリオさんの机には、筆が三本並んでいた。
どれもよく手入れされ、軸の太さが少しずつ違う。使う人の手に合わせて選ばれたものだと分かった。
その前に座るご本人は、私へ名刺を差し出す時、書かれた側を一度裏返した。
「こちらが、表でしたね」
笑ってから、名刺を机へ置いた。
私は、渡されたものを受け取った。
裕福な商人と聞いていた。厚い絨毯と、大きな窓と、人を待たせるための別室があった。道具を置く場所には困らず、私たちの往復の手配も、レオンさんが済ませてくれていた。
けれど、ダリオさんは、三本の筆へ一度も手を伸ばさなかった。
「先生だけに確かめたいと、伝言をお送りしました」
「はい。拝見しました。処置の方法は、診察のあとでご本人にお決めいただきます」
私が答えると、彼はすぐにはうなずかなかった。
「解くほうでないと、お引き受けにならないということは」
「診た結果、私には扱えないと申し上げる場合はございます。ですが、初めから解呪しか伺わないというお約束ではありません」
ダリオさんは、椅子の背から身体を離した。
レオンさんは窓のそばに立っていた。彼を同席させるか、ご本人に伺うと、まず診察の説明までは聞いていてほしいと返事があった。
マリエラさんについてもお認めいただき、私は机の明かりの向きを確かめた。
「お目の様子を、見せてください」
彼は顔をこちらへ向けた。
右の目元から、左へ細い糸が渡っていた。皮膚に傷はない。顔を動かさずにいただき、触れずに見える部分から言葉をたどった。
糸は、まぶたの際で折り重なっていた。
「『手元の字を見る目が霞め』。送り主は、ルカス」
ダリオさんの口元から、笑みが消えた。
指が机の縁をつかみ、爪の先が白くなった。
「やはり」
そのあとに続く言葉は、なかなか出なかった。
私は、字を見る時の状態を伺った。遠くの建物や人の顔は分かる。近くの書面へ目を落とすと文字がにじみ、読み間違いが増えるのだという。
無理に読み続けていただく必要はなかった。ご本人が持ってきた短いメモを少し見て、今の状態を確かめた。
「お知り合いの方ですか」
「一緒に商いをしている男です」
ダリオさんは、メモを机へ伏せた。
「ルカスです。彼の姓も、住所も、私が紹介した取引先も、全部知っています」
机をつかんでいた手が離れた。
その手で額へ触れようとしたので、今は糸の位置を確かめていますとお伝えした。彼は、すみませんと言って手を戻した。
「解くご相談と、伺っております」
レオンさんが口を開いた。
私は彼のほうを見た。
「ご本人からでしょうか」
「事業のほうへ影響が出ないよう、まず症状をなくすということで」
「私は、そう決めていません」
ダリオさんの声が、部屋に響いた。
大声ではなかったが、レオンさんの言葉は止まった。
「本当に呪いなのか、誰が送ったのか。それを聞いてから考えると言いました。取引先を巻き込みたくないとも言いましたが、だから返さないとは言っていない」
彼は、伏せたメモへ手を置いた。
「先生への伝え方を、変えないでください」
レオンさんは、返事をするまで少し間を置いた。
「それは、私の受け取り違いでした。解くほうが商いへの影響を小さくできると思い、先に決めておりました」
彼は私へ向き直った。
「訂正します。ダリオさんは、処置をまだ選んでいらっしゃいません」
私はうなずいた。
訂正された言葉を、なかったことにして流すつもりはなかった。けれど、ここで私とレオンさんが争い続ければ、本人が話す時間がなくなる。
「それでは、ここからはご本人のお考えを伺います。お二人でお話ししたいというご希望は、今も変わりませんか」
ダリオさんが、はいと答えた。
レオンさんは退室し、マリエラさんも必要な道具だけ残して外へ出た。
◇
戸が閉まると、ダリオさんは椅子へ深く座り直した。
先ほどまでより、背中が小さく見えた。
「お見苦しいところを」
「ご希望を、確かめることができました」
彼は少し笑った。
「私は、人に物を頼むのが下手ではないはずなんです。誰へ何を言えば通るか、それでずいぶん稼いできました」
机の上の筆を一本取った。
握る手には、何の不自由もない。
「ルカスは、帳簿を読むのが速い。私は仕入れ先へ行き、彼がこちらを見ていた。目がこうなってから、書類は全部、彼に読んでもらっていました」
筆を戻そうとして、隣の一本へ当てた。
乾いた音がした。
「『ここはいつもの条件だ』。『あなたは疲れているから、署名だけしてくれればいい』。そう言われると、私は楽だったんです」
彼は、並びのずれた筆を直さなかった。
「別の者に読み上げさせると言えば、私を信用しないのかと。仕事を任せておいて、今さら疑うのかと」
「それで、頼めなくなったのですか」
「頼むたびに、私が悪いことをしているような気になりました」
彼は初めて、私から目を逸らした。
「人を雇えるでしょう、と先生も思われるでしょうね」
私は、答えるまで少し考えた。
この部屋には、私が自分の仕事場へ欲しいと思うものが幾つもあった。金があれば、頼めることは確かに増える。
それでも、自分が何を知りたいかを口にするたび、身近な相手が不機嫌になる怖さは、知っていた。
「頼める方がいても、頼めなくなることは、あると思います」
ダリオさんの目が戻った。
「私は、何を認めさせたいのかも、よく分からなくなっていました。字が見えないと言えば歳のせいだと笑われ、別の者に聞けば気難しくなったと言われる。自分がおかしいのかと」
彼の声が途切れた。
目元の糸を、私はもう一度見た。いま読んだ言葉は、そこに残っていた。
「先ほどお伝えしたのは、私が糸から読んだ言葉と名です。お歳だけの話ではありません」
彼は両手を膝へ下ろした。
長く息を吐き、次の息を吸う前に、顔を歪めた。
「腹が立つんです」
私は、うなずいた。
「困っている私を助ける顔をしていた。それが、たまらなく腹立たしい」
言ったあと、彼は急に黙った。
私に何か判断されるのを待つように、顔を上げていた。
私は解呪と返却の違いを伝えた。返せば同じ作用が元の送り主へ戻る。相手が責任を認めるか、謝るかを保証する処置ではない。
ダリオさんは、途中で口を挟まず聞いた。
「今日、決めるのはやめておきます」
最後に、彼はそう言った。
「いま返してくださいと言うのは、簡単です。でも、あの男の手元へ預けた仕事を、先に自分で確かめたい。私が目を閉じていた分を」
「お考えになったうえで、また伺います」
次に会える時刻を、その場で決めた。
王宮の仕事や帰りの予定へ無理に重ねることはしなかった。今回の滞在中にもう一度話せると分かると、ダリオさんの肩が少し下がった。
◇
廊下へ出ると、レオンさんは連絡用の紙を整理していた。
私はご本人が認めた面談時刻だけを伝えた。部屋の中で聞いた言葉を、彼へ全て渡すつもりはなかった。
「次回まで、処置は未定ですね」
「はい。ご本人がお決めになります」
彼は紙へ書き、こちらへ見せた。
解呪とも返却とも書かれていなかった。
「私の説明を直してくださったことは、先方へ伝わっています」
私が言うと、レオンさんは苦く笑った。
「先生は、どちらにするかまで伺ってから、また会う。私なら一度の面談で決めていただきたいところです」
「迷っている間も、先方のお仕事は続きますから」
「ええ。ですから、余計に手配が増えます」
彼は、次に連絡する先を指で追った。
「部屋を押さえ直し、行き来を変え、相手によって立会人を探す。それをしても、結局、処置を頼まれないこともある」
「そのための手配のお代は、お支払いします」
私は答えた。
レオンさんが、紙から目を上げた。
「紹介の仕事を、要らないとは思っていません。ただ、紹介していただいたあと、どう処置するかは、ご本人へ残してください」
彼はしばらく私を見ていた。
やがて、分かりましたと言って、次の面談の紙を私へ渡した。
戸口で待っていたマリエラさんが、私の鞄を持ち上げる。私は礼を言い、自分で受け取った。
帰り際、ダリオさんの部屋から人を呼ぶ声がした。
ルカスさんではない、別の者に書面を読んでほしいという声だった。
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