第79話 娘に見せる袖
ユリアさんの家へ伺ったのは、解呪から数日後だった。
先に決めた経過の確認で、娘さんが戸を開けてくれた。奥の机には、見覚えのある淡い布が広がっている。
その端を、ユリアさんが慌てて畳んだ。
「まだ、少し散らかっていて」
「散らかっているのは、いいの。お母さん、今日は休んで待つと言ったでしょう」
娘さんの声に、ユリアさんが手を止めた。
針は、布の上にはなかった。母親の膝に敷いた小さな布へ、刺してある。
私は鞄を置き、右手を見せていただいた。
指に糸はなかった。痛みの出る動きや、昨日どのくらい仕事をしたかを伺うと、ユリアさんは初め、少しだけと答えた。
娘さんが机の端を持ち上げた。
下から、いくつもの糸の切れ端が出てきた。
「少し、を何度もしたのよ」
ユリアさんが目を伏せた。
「痛くはないんです。ただ、夕方になると、指が重くて」
私は糸が残っていないことをお伝えした。
針を持つ時の鋭い痛みはなく、長く作業したあとで疲れる。全てを同じ呪いのせいにはできなかった。休んで変わるか確かめ、違う痛みが出るなら無理をせず診てもらうように話した。
「治していただいたのに、働けないと言いたくなくて」
ユリアさんは、机の布を見た。
「昨日は、ここまでと思ったところが縫えたんです。すると、その先も見えて。やればできるのに、やめるのが惜しくなってしまって」
私は、椅子に座り直した。
戻ってきた手が嬉しい。その手が思ったほど長く動かないことが、悔しい。
大丈夫だから少しずつ、と言うだけで済ませれば、彼女はきっと、私の帰ったあとでまた針を取る。
「どこまで縫えたか、拝見してもよろしいですか」
ユリアさんの顔が上がった。
叱られると思っていたのか、娘さんも私を見た。
「こちらが、袖です」
母親が布を開いた。
まだ衣装の形にはなっていなかった。片袖の端だけが仕上がり、その先は仮の糸で留めてある。けれど、細い縁飾りが続くところは、光の下で柔らかく膨らんで見えた。
私は、触ってよい場所を教えてもらった。
「きれいですね」
言うと、ユリアさんの口元が動いた。
嬉しそうになるのを、自分で抑えたように見えた。
「本当は、反対も揃えてお見せしたかったんです」
娘さんが、その隣へ別の布を置いた。
「反対は、私も縫いたいの」
母親の顔から笑みが消えた。
◇
「これは、あなたに縫わせるものではないでしょう」
ユリアさんが言った。
娘さんは、置いた布を引っ込めなかった。
「自分が着るものを、自分で縫ってはいけないの?」
「そういうことじゃないわ。私がしてあげたくて」
「私も、したいの」
娘さんが椅子を引いた。
「買う話をしたから、私には要らないんだと思っているでしょう」
ユリアさんは答えなかった。
娘さんは鞄から、短い縫い目の練習布を出した。
少しずつ幅が違っていた。途中でほどいたところもある。母親へ見せるつもりで持っていたのに、出せずにいたのだろうか。彼女は布の角を強く引いて、机へ平らにした。
「お店で見た衣装は、本当に好きだった。でも、この布は二人で選んだでしょう。私はこれを着たい。お母さんが縫った袖も、着たい」
「だったら」
「私が縫ったところも、入れたい」
声が少し大きくなった。
娘さん自身が驚いたように、唇を結んだ。
マリエラさんは私の横で、黙っていた。私も、どちらの布にも手を出さなかった。
ユリアさんが、練習布を見た。
「こういう縫い方、いつ覚えたの」
「前に教えてくれたでしょう。覚えていない?」
母親が首を傾けた。
「祭りの時。裾が長いから、自分でここを縫いなさいって。糸を引きすぎると、歩くたび変な形になるって」
「あの時は、ずいぶん怒ったわね。あなた、じっと立っていなくて」
「針が怖かったのよ」
娘さんが笑った。
笑ってから、目を拭った。
「いまは、怖くない。少しくらい、お母さんに直してもらうことになってもいい。ちゃんと教えてほしい」
ユリアさんは手を伸ばしかけ、途中で止めた。
娘さんの縫ったところを、ほどこうとしたのかもしれない。その手を引き、布を横から見た。
「ここ、少し引きすぎているわ」
「うん」
「でも、こっちは揃っている。こういう長いところなら、任せられると思う」
娘さんが、母親の前へ布を寄せた。
ユリアさんは、初めてそれを両手で広げた。
「私が全部しなくても、私の縫ったものだと思ってくれる?」
娘さんは母親を見た。
「袖を見れば、分かるじゃない」
ユリアさんの目が赤くなった。
娘さんはすぐに抱きついたりせず、机の上で母親の手首へ触れた。針を持っていないところだった。
「私の縫ったところも、分かってほしい」
「分かるわ。たぶん、少し引きすぎているから」
「そこは直すから」
今度は二人とも笑った。
私は膝の上の手を緩めた。
母親の望みが叶うところに、娘さん自身の望みも入る。そのための場所は、衣装の中にまだ残っていた。
◇
ユリアさんは、仕上がった片袖を娘さんの腕へ当てた。
上着の上から、ずれないよう軽く支える。肩へつくところはまだ仮止めで、長く動くためのものではない。
娘さんが、肘を少し曲げた。
袖口の縁が、手首に沿った。
「きつくない?」
「うん。ここ、すごく好き」
娘さんの指が、短い縫い目へ触れた。
私が処置した部屋で入れた、一針の場所だった。
母親は、そこだけ見れば曲がっていると言った。娘さんは、だから分かるの、と返した。
私は、袖全体をもう一度見た。
縫うことのできなかった指が、これを作った。まだ先に続く仕事はあっても、今日はこの形になっていた。
「先生、見ていただけてよかったです」
ユリアさんは袖を支えたまま、私を向いた。
「お金をお払いした時には、針を持てたのが夢みたいで。家へ帰って布に触って、やっと分かりました。私の仕事が戻ってきたんだって」
私は返事をしようとして、一度口を閉じた。
嬉しかった。人の前で、それほど嬉しそうな顔をしてよいのか、一瞬迷うほどだった。
「私も、今日、伺えて嬉しいです」
そう言うと、娘さんが腕をこちらへ向けてくれた。
私は、きれいですともう一度言った。
婚礼は、大市のあとだという。まだ時間はあると、娘さんが母親へ繰り返した。これから先は、縁の細かなところを母親が、長い縫い合わせを娘さんが担当する。大きな裁ち合わせは、手伝いを頼むことにもした。
相談が始まると、二人の声は先ほどより速くなった。
私は、袖を傷めないように鞄を椅子の下へ寄せた。
◇
帰り際、ユリアさんが同業の方の話をした。
その人も右手の具合が悪く、布を押さえられないという。私が王都へ来る時期を聞いておいてほしいと、頼まれていたそうだった。
「ご本人のお話を伺いたいです。今、王都にいらっしゃいますか」
「近くに。来てよいか聞いてみます」
娘さんが伝えに出て、ほどなく、一人の女性を伴って戻った。
エルゼさんという方だった。
彼女は席へ座る前に、大市へ向けた仕立ての注文をこれ以上逃したくないと言った。両手を膝へ揃えてから、右手だけを左手で押さえた。
「布を押さえると、手が震えるんです。針を持つ時ではなくて、こう、動かないようにする時に」
机の端へ指を置き、すぐ離した。
「大きな布は、人に押さえてもらっています。でも、ずっと頼んではいられません。今度の大市で布を買って、自分で一枚仕立てたいんです。売るところまで、私がしたい」
今日は、糸の診察まではしなかった。
今回の滞在で受けられる処置には限りがあり、王宮で引き受けている仕事や、帰る日も動かせない。急な変化がある時は待たずに相談することを話したうえで、私は次に王都へ来る予定を伝えた。
「大市に合わせて、面談と診療の日を設けるつもりです。その日に、私がお手を拝見します」
エルゼさんが顔を上げた。
「私も、お願いしてよろしいのですか」
「はい。治療の内容は、診てからご相談になりますが、お会いするお約束はできます」
診察のお代と、処置を受ける場合の通常料金も分けてお伝えした。エルゼさんは、上乗せの料金がなくてもこの額で診ていただけるのですねと確かめ、私が答えると、日時を書いた紙をゆっくり受け取った。
会場の詳しい案内を送るための連絡先も、本人から伺った。
その日のうちに、私はレオンさんへエルゼさんとの約束を伝えた。
「この方は、私が会うとお返事しました。大市の日の予定に、入れてください」
彼は名と時刻を控え、承知したと答えた。
私は、自分の手帳にも同じ約束を書いた。
閉じる前に、レオンさんがもう一枚の伝言を置いた。
「ダリオさんからです。診察の前に、先生だけへ確かめたいことがあるそうです」
私は筆を置いた。
文面には、短く一つの問いがあった。
どう処置するかを決めるのは、自分でよいのか。
面白かったら評価、ブックマークいただけると嬉しいです。




