第78話 私の仕事のお代
ユリアさんは、私のお代を右手で渡してくれた。
硬貨を一枚落としかけ、左手で受ける。それから少し恥ずかしそうに笑った。
「縫えたら、何でも前のようにできる気になってしまって」
「少しずつ、お確かめください」
先にお伝えした通常の解呪代を受け取り、控えをお渡しした。
娘さんが、これは先生の処置のお代ね、と母親へ確かめた。ユリアさんはうなずいて、ほかの紙と重ねずにしまった。
レオンさんへ払った手配分のことは、まだ残っていた。
私は、お帰りになる前に少しお話しできるか伺った。母娘には休める椅子へ移ってもらい、先にレオンさんと向かい合った。
彼は部屋の窓を開け、通りの音を入れてから、私を見る。
「会場の主人には、今日の延長を了承してもらいました。鍵を返しに行った方の診察もできます」
「ありがとうございます」
「毎回、こうはいきません」
その声には苛立ちがあった。
私は椅子へ座った。自分の手を見下ろすと、細い糸を支えていた指が少し疲れていた。
「先ほどは、私も強く申し上げました」
「私が、患者を追い出そうとしたように聞こえました」
彼は椅子を引かずに立っていた。
「紹介するだけなら、名前をお渡しすれば済みます。けれど、ここを借り、先方へ連絡し、来る時刻を揃え、待つ方へ説明するのは、名前を渡すだけではできません」
「はい」
「一人延びれば、その後ろの方全員へ話し直します。部屋も余分に借ります。先生の処置が丁寧なほど、何もしていない時間が増えるわけではないんです」
私は、窓の外へ目をやった。
迎えの車が通り過ぎた。そこへ乗る人の時刻も、戻る約束も、私が糸を見ている間に誰かが合わせていた。
レオンさんが、その全てを私に押しつけたことはなかった。
「何もなさっていないとは、思っていません」
私は彼へ向き直った。
「ただ、処置の途中で急げと言われても、なくせない手間がございます。今日の方の糸は、上から見える端を引くだけでは解けませんでした」
私は机に自分の両手を置いた。
指を重ね、隠れるところを示す。糸の詳しい記録や、患者の名を出す必要はなかった。
「ここを支えたまま、下を確かめました。急ぐために指を離せば、見つけた端まで戻ってしまいます。次の方に早く会うためにも、ここは省けません」
レオンさんが、私の手を見た。
「初めから、長く掛かると分かるものでは?」
「診て見当がつくことはあります。それでも、手を入れてから分かるところがございます」
彼がようやく椅子を引いた。
「では、短い仕事ばかりにすれば」
「それも、診る前にはお約束できません」
彼は口を閉じた。
私も、すぐに次の説明を重ねなかった。
ユリアさんの手を、面倒だからと候補から外すことはしたくなかった。あの一針が縫えるところまで、私は自分で引き受けたかった。
「診察と処置を、必ず続けて入れないようにできますか」
しばらくして、私から尋ねた。
「診察のあとで処置の見込みをお伝えします。先にお待ちになる方には、今日できると決めずにご案内いただきたいです」
「来てから別の日だと言われるのは、嫌がられますよ」
「はい。その方が待てるかも、最初に伺ってください。私も、受けられる範囲を曖昧にいたしません」
レオンさんはしばらく考え、予定表を開き直した。
「面談の時刻をまとめて、処置の時間は先生の返事を受けてから。会場の空き方次第ですが、次はその組み方を試せます」
私は、机に置いた手を下ろした。
言い合った相手から、具体的な方法が出てきたことに、少し驚いていた。
◇
ユリアさんの控えと、レオンさんの持つ控えを並べた。
支払ったのは、今回の面談を手配するための前金だった。実際に手配が済んだ分と、使わずに残った分がある。早い時刻の調整を頼む場合の追加料金は、その下に別に載っていた。
娘さんは、紙のいちばん上を指した。
「ここに先生のお名前があるでしょう。そのすぐ下に金額があったから、私は先生へ払うお金だと思いました」
「処置代は別と、下に書いてあります」
レオンさんが答えた。
娘さんの頬が、少し赤くなった。
「読み落としたのは、私です。でも、追加分を払わないと先生に会えないようにも見えました」
ユリアさんが娘を止めようとした。
私は先に、レオンさんへその紙を向けた。
「私も、最初に見た時には処置代の一部かと思いました。私の名の下へ置くなら、何のお代か、同じ大きさで書いていただけますか」
彼は、二枚の控えを見比べた。
日付も、受け取った額も合っていた。隠された支払いが出てきたわけではない。それでも、この紙を握ってもう会えないと思った人が、目の前にいた。
「面談手配料、と上に入れましょう。先生へお支払いいただく分は、先生からの説明に分けます」
レオンさんは、筆を取った。
「追加の手配についても、今日のお二人には不要でした。今後の先生へのご相談は、優先料を増やす扱いにはせず、待てる日時を伺います」
私はその文面を見た。
大市の企画でも、私が会うと決めた人を、追加の金で後ろへ送らない。これから用意する案内も、渡す前に私へ見せてもらう。
レオンさんは分かったと答え、書き直した控えを母娘へ渡した。
使われなかった手配分は、彼がユリアさんへ戻した。
私は、自分のお代を取り出さなかった。
「これで、布を買う分が残ったわ」
ユリアさんが小声で言った。
娘さんは、母親の袖を引いた。
「布はもうあるでしょう。まず、帰りに何か食べましょうよ」
「そうね。今日は、そうしましょう」
母娘が立ち上がると、レオンさんは帰り道の車を使うか尋ねた。ユリアさんは娘と歩けると答え、戸口でもう一度、右手を開いて見せた。
私は二人を見送り、部屋へ戻った。
◇
次の方が戻るまで、少し時間があった。
レオンさんは会場の主人へ話すため席を外し、マリエラさんが窓辺で水を飲んでいた。私は隣の椅子へ腰を下ろした。
「外のお話、助かりました」
「鍵をお返しする方は、待ちたくないのではなく、何時までここにいてよいかが分からなかったそうです」
「私には、そこまで伺えませんでした」
彼女は椀を置いた。
「私も、先生の手元を見ていたかったです」
胸が少し痛んだ。
すぐ、次は外へ出なくてよいと言いそうになったが、マリエラさんは笑って首を横へ振った。
「でも、あの方が、一針縫えたと教えてくださいました。次は、どこをほどいたのか、あとで図を見せてください」
「はい。今日のうちに」
私は約束した。
彼女の役目を、外へ返事に行くことだけにしてはいけないと思った。
戸の外で、別の人の声がした。
「今日は無理でも、明朝の最初でどうだろう。支払いは増やしていい」
戻ってきたレオンさんと話しているらしかった。
私は顔を上げた。マリエラさんも、椀から手を離した。
「先生の承諾していない順番は、お売りできません」
レオンさんの声がした。
「お急ぎの理由は伺います。診察の相談をして、可能な時刻をご連絡しましょう。追加のお代だけ先にいただくことはいたしません」
相手は少し不満そうに何か言った。
レオンさんは、もう一度同じ返事をした。
私は、戸を開けなかった。
先ほど決めた扱いが、私の見ていないところでも使われた。それだけのことが、思っていたより嬉しかった。
その日の仕事を終えてから、会場と紹介の費用を確かめた。
差し引いたあとにも、自分が働いた分のお金が残った。マリエラさんに手伝ってもらった分も、そこから分けた。
袋は、来た時より重かった。私はその重さを確かめた。借りたものを預かる時のような、落ち着かない感じはなかった。
袋の口を結び、自分の鞄の内側へしまいながら、ユリアさんの針を思い出した。
誰かに喜ばれたのだから、自分には要らないとは思わなかった。このお代で、また仕事へ来られる。帰る部屋にも、私の使う道具にも払える。
「先生」
レオンさんが、新しい一枚を差し出した。
「ご相談があります。ダリオさんという商人です。出張と、必要な時間のお代をきちんと持てる方で、まず先生に診ていただきたいと」
私は紙を受け取った。
病状を詳しく聞く前に、受けるとは言わなかった。けれど、読む手は早かった。
もう一件、自分の手を使いたかった。
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